礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年2月21日
 
「備え給う神」
ヨナ書連講(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書1章4-17節
 
 
[中心聖句]
 
  17   主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。
(ヨナ1章17節)

 
聖書テキスト
 
 
4 さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。5 水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。
6 船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」7 みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。8 そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」9 ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」10 それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。」
11 彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。12 ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」13 その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。14 そこで彼らは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」15 こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。」
16 人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。17 主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」
 
A.神の御顔を避けたヨナ(1-3節)
 
 
ヨナを取り上げた理由は、先週も申し上げましたように、人間性むき出しにしたヨナの魅力と、その突っ張ったヨナを、忍耐を持って扱いなさった神の愛にあります。昨週は、神のみ顔を避けて、自分の道を歩み始めたヨナの姿を見ましたが、神の御顔について、少し追加的なコメントを申し上げます。

・御顔とは:
詩篇の中で、「御顔」という言葉を検索しましたら、20に余る場所で言及されていました。共通的なイメージは、太陽です。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」(詩篇 67:1)という祈りは正に御顔を太陽に譬えています。太陽が当たる時、私たちは光と暖かさを感じ、嬉しくなります。神の御顔の光に照らされるとは、自分が受け入れられているという温かいフィーリングのことです。

・御顔を避けるとは:
反対に「御顔が隠れる」というのは、罪や反逆のゆえに神に喜ばれていないという暗い気持ちをもつこと、神の祝福が撤回されることを意味しています。太陽のように、神の御顔はいつでも照り輝いているのに、不信とか反逆とか我侭が雲のようにその輝きを消して、暗やみを作り出しているのです。「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」(詩篇 34:16)「神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。」(詩篇 60:1)神の顔を避けたヨナは、自分でバリアを作って、神の愛から意識的に離れようとしたわけです。はっきり言えば、神にノーを突きつけたのです。

・諦めない主の御手:
さて、そのようにノーを突きつけられた神は、そのままヨナを突き放してしまわれたのでしょうか。いいえ、神はおどろくべき方法をもってヨナを追い続けてくださいました。そのカギとなる言葉が、主の備えです。これがたくさん出てくるのが4章で、日陰を備え、とうごまを備え、虫を備えてヨナに語ってくださいました。1章における「神の備え」は、少なくとも4つの面で明らかにされています。
 
B.神の備え(4-17節)
 
1.嵐(4節)
 
 
「さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。」
 
・ユーラクロン:
地中海には、季節風が吹き、それが大荒れになることがあります。厳しい嵐が舟を襲いました。

・ヨナの嵐とパウロの難船(使徒27章):
この嵐は、パウロがそのローマ行きの時に体験したユーラクロンと似たものであったと思われます。いずれにしても、主のご配剤によるものなのです。

・ジョン・ニュートンと嵐:
アメージング・グレイスの作者であるジョン・ニュートンは、奴隷貿易に関わってアフリカとヨーロッパを往復していました。その途中で大嵐に遭い、自分の生き方を深く反省して悔い改め、後には牧師となり、神の恵みを歌う讃美歌も作ったのです。彼のお母さんは、幼いジョンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンでしたが、ジョンが7歳の時に亡くなりました。商船の指揮官であった父はそのすぐ後に後妻を迎えることになり、息子のジョンを寄宿舎付きの学校に預けてしまいました。無分別で厳しい教師との出会いは幼いジョンの心を痛めつけ、勉強する気持ちを無残にも踏みにじってしまいました。ジョンが10歳になった時に学校を飛び出して、父親の船に乗り込んで船乗りとしての人生を始めました。船員として荒れ狂う人生を送り、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送する奴隷貿易に手を染めるようになりました。彼が22歳の時、船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥りました。ジョンは他の船員たちと共に、朝の3時から昼の12時までの間、ずっと浸水して来る海水の汲み出しに命がけの作業を挑むことになりました。積み荷の殆どを荒海の中に流してしまうほどでしたが、嵐は去りません。更に困ったことに、ジョン・ニュートンは泳げない船乗りだったのです。泳げないジョンにとって、嵐はは更なる死の恐怖だったのです。ジョンはそれ迄の過っていた人生を悔い、改心し、万が一にも助けて頂けるものなら、今後は主イェス・キリストに従う者となるとの決心を固めたのでした。彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてでした。すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れました。彼はこの日をみずからの第二の誕生日と決めました。その後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けましたが、彼の船に乗った奴隷への待遇は飛躍的に改善されたといわれています。その後、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学を重ねて牧師となりました。そして「アメイジング・グレイス」を生むのですが、この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められています。
 
2.良い性格の船長と水夫たち(5節)
 
 
「水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。」
 
・異邦人の「信仰」と親切:
嵐に遭った船員たちがそれぞれの神に切に祈りました。これは通常の嵐ではない、神々の助け以外には救われる望みは無いと思ったことでしょう。「それぞれの」と言うところが面白いですね。きっと、地中海を行き来する船ですから、水夫たちの構成も国際的であったことでしょう。みんな異邦人であったとは言え、真剣真実な祈りでありました。その後も、ヨナを助けようとあらゆる努力をする、こうした人々に囲まれていたことも、「神の備え」の一つと考えられないでしょうか。異邦人なりの親切と宗教心を彼らの中に見ます。私達の周りにも、真の神を信じているわけではないが、それなりの信仰心と親切心を持ち合わせた人々がいると思います。これらも、神の「先行的恩寵」の一つと私は思います。

・ヨナの不貞寝:
それに比べて、ヨナの非協力的な態度は何と悪い証しでしょうか。彼の睡眠は船員の努力を全く省みない無関心の憩いであり、不貞寝でありました。主イエスのガリラヤ湖で嵐に遭遇した時、静かに休んでおられたのですが、これはヨナとは違います。主の睡眠は、父なる神の摂理とみ守りに対する全面的信仰の故の安らぎでありました。さて、そのヨナが、籤に当たった際どいときに、「私は活ける真の神、創造主を信じている」と告白せざるを得ませんでした。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」(9節) 私達が犯罪を犯して、あなたは誰か、何の職業かと問われたとしましょう。「実は、私はクリスチャンなのです」と言わなければならなかったら、どんなに主キリストお名前を汚してしまうことでしょうか。私も、50kmの制限速度を20kmオーバーして、警察に捕まり、簡易裁判に掛けられました。罰金は数百円程度の軽いものでしたが、尋問の時、裁判官が「あなたの名前?」「職業?」と聞かれたのに返事しましたが、大変申し訳ない感じを持ちました。一人のクリスチャンが医者にかかった時、予約のための電話のやり取りや、医者の命令を素直に聞かない態度を見て、医者がこういいました、「あなたはクリスチャンにしては、せっかちで、我侭ですね。」と。特に後半の語気が強かったそうです。その医者は、病気だけでなく、彼の性格まで診断してしまったわけです。その言葉が彼の心にグサリと刺さり、神のお叱りと受け取り、悔い改めました。それ以来、その医者との信頼関係が増したと告白しています。
 
3.罪を告白する機会の備え(7-8節、11-12節)
 
 
「みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。・・・彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」
 
・籤が当たる:
「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」(箴言 16:33)と聖書にありますが、誰が悪いのかと言うくじに、ヨナが当たってしまいました。くじに当たる前のヨナは、不貞腐れたひねくれ人間ですが、一旦自分の罪を認めたヨナは、実に男らしい行動を取ります。

・犠牲を申し出る:
ヨナは、この嵐の原因が自分にあることを熟知しており、そのために、自分が犠牲になることを申し出ました。当然といえば当然ですが、なかなか多くの人はその当然を果たさず、責任を他者に押し付けて自分は平然としている人が多いものです。その点、ヨナは罪を敢然と被る男らしさを持っていました。彼は当然死ぬことを覚悟したのです。
 
4.大魚(17節)
 
 
「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」
 
・神の大きな恵みの徴:
主は、この我侭な僕を何とか扱おうと、魚をタイミングよく備えなさいました。こんな魚がいるだろうか、魚ではなく鯨ではないだろうか、そんな議論はこの際飛ばします。いずれにせよ、魚を備えられたのは主です。刑罰のためではありません。ヨナは、金槌だったかもしれませんから・・・。それまでも、船を備え、嵐を備え、ヨナを扱う環境を備えなさいました。魚のお腹に入ったら、すぐに死んでしまうはずですが、主は、更に魚の腹にも酸素を備え、消化液が沢山出ないように彼の生存環境を備えなさいました。私達の身の回りで、良い環境と思われるものも、そうでないものも、皆私達を扱う神の尊いご配剤であることを感謝したいものです。

・魚腹での祈り (2章):
これは来週学びますが、今まで述べたすべてのことが総合的に作用して、ヨナを悔い改めに導いたのです。全世界を動かし給う主の大いなる御手の働きを感じます。

・冨永さんの救い:
昨日、告別式を致しました富永重雄兄の生涯の証しを詳しく読みました。「見えざる御手」と題する証し文の中で、少年時代には、偶々引っ越した直ぐ傍に教会があったこと、高校時代に人生の生き方を求めたこと、大学時代に矢内原先生などのクリスチャン教授の影響を受けたこと、結婚をお膳立てされた相手の方(エミさん)のお母さんが浄土真宗でありながら、娘には「あなたは将来クリスチャンにならなければいけませんよ」と語り、その通りクリスチャンになったこと、そのことを通して家族が信仰に導かれたこと、最後にはビリーグラハム国際大会で遂に神の軍門に下ったことが詳しく記されていました。「これまでの長い間、耐えに耐えて導き続けてくださった神の御心を知るにいたり、心から悔悟し、恐れと戦きの中に漸く救われ信仰に立つことを許されました。」と、その証しを締めくくっておられます。一人ひとり皆道筋は異なりますが、見えざる神の備えが救いのためになされていることを私は信じています。
 
おわりに
 
 
私達の生涯に、私たちを救いに導く糸が備えられていたことを感じますか。それらの中に神の摂理の不思議さ、知恵の深さ、憐れみの大きさを感謝しましょう。未だ主を心の中に救い主として受け取っていない方が居られますか?神が私たちの人生を導いておられる摂理の糸を認めて、素直にキリストを主として受け入れましょう。
 
お祈りを致します。