礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年2月28日
 
「魂が衰え果てた時」
ヨナ書連講(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書2章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  7   私の魂が私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
(ヨナ2章7節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ヨナは魚の腹の中から彼の神、主に祈って、2a 言った。
2b「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
 
はじめに
 
 
ヨナ書の連講人間ヨナと、ヨナを扱い給う神と、二つに焦点を当てて学んでいます。一昨週は「神の御顔を避けたヨナ」、昨週は「ヨナを導くために嵐や魚を備えられた神」について思い巡らしました。今日は、その魚の腹の中で祈っているヨナに焦点を当てます。そして来週は、そのヨナの祈りを聞き給う神について考えます。

ヨナの祈りについて、1節ずつ見ることもできますが、全体を纏めて、幾つかの特徴にまとめて、そこから学んで行きたいと思います。
 
1.詩篇に基づいて祈る(対照表参照)
 
 
新改訳聖書の脚注を見ると、ヨナの祈りは詩篇と共通の言葉、文章に満ちています。はっきり言えば、その殆どが詩篇の引用であったことが分かります。実は、ヨナは、詩篇の殆どを諳んじていたのではないかと思われます。御言を暗記することの力を見る思いです。現代人である私たちは聖書が身近にありますから、いつでも読める、と考えて暗記を怠ってしまう傾向があります。しかし、聖書が身近に無かった昔の人々は、ひたすら暗記して、神の言葉を蓄えました。もし、私たちが迫害に遭って牢屋に繋がれたならば、一生懸命覚えた御言が大きな力になるのです。ともかく下記の表をご覧下さい。
ヨナ2 詩 篇
2 私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。 18:6 私は苦しみの中に主を呼び求め・・・叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ・・・た
86:13 あなたが・・・よみの深みから救い出して下さった・・・
3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。・・・あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。 42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。
4 私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。 5:7 しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。
5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。 116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
6 あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。 30:3 あなたは私の魂をよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、生かしておかれました。
7 私の魂が私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。 142:3 私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。
8 空しい偶像に心を留める者は自分への恵みを捨てます。 31:6 私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。
9 私は、感謝の声をあげてあなたに生贄を捧げ、誓いを果たしましょう。救いは主のものです。

50:14感謝の生贄を神に捧げよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
3:8 救いは主にあります。

 

詩篇を諳んじ、それを祈りの中に織り込むことで、祈りが豊かになっていたのを見ます。
 
2.神と対峙して祈る(1節、2節a)
 
 
「1 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、2 言った。」     _
 
・異常な環境(イラスト@):
ピノッキオの物語で、ジュゼッペ爺さんとピノッキオが船ごと鯨に飲まれて、暗やみでローソクを灯しながらしょぼしょぼと話し合っているシーンがありますが、ヨナの場合は、それどころではなかったことでしょう。暗闇、ねばねば、ぬめぬめ、酸欠、強度の胃酸、嫌な匂い、と想像するだけで気が遠くなります。

・神と対峙して祈る:
魚腹と言うのは、彼にとって「閉じ込められた」環境です。ヨナは、預言者として、神の前に1人出て、御言を聞き、それを伝える立場にありました。伝説によればエリシャの立てた預言者学校(PTC=Prophets Training College)の卒業生でした。しかし、長い奉仕の中で、特に、政治的な預言者としての活躍している中で、一人神の前にでる密室の祈りが乏しくなってきたのではないかと思います。神は、そのヨナに、強制的にひとりとなる環境を備えられました。孤独は、私達の魂を磨くものです。例:蔦田二雄師。ヨナがこの魚腹経験をしなければ、吹き抜けた預言者とはならなかったと思います。神は私達にも魚腹を備え給います。その魚腹でしっかりと神と向き合いましょう。神の扱いに勝手な終止符を打って、魚腹を出てはなりません。
 
3.絶望的状況での祈り(3、5-6節)
 
 
・大海原の回想(イラストA):ヨナの描写:
3節と5-6節は、船から放り出された時の厳しい状況、嵐の海をアップアップしながら浮き沈みをしている絶望的状況を思い出している表現です。

・波下の恐怖:
3節の「海の真中の深み・・・潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。」は、波の下にあったヨナの絶望的状況です。

・死の恐怖:
5-6節の「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。」というのも、浮き沈みの繰り返しの中で、沈んだ方の描写と思われます。海草に囲まれ、「地のかんぬき」(死の世界に閉じ込める鍵)がいつでも目の上にあった、ということは、死を逃れられないものと覚悟したことです。パウロは、迫害によって肉体的な苦しみに遭い、「死を覚悟」した時に、「自分を頼まず、死者をよみがえられてくださる神により頼み」(Uコリント1:9)ました。ヨナは、迫害ではなく、自分の不服従のゆえに死の間際まで行ったのですから、尚更真剣に悔い改めを必要としていました。
 
4.悔い改めの祈り(4節)
 
 
「4 私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」
 
・御前から離れている自覚:
4節「私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」良く考えてみると、ヨナは、主のみ前から追われたのではありません。自分で逃げ出したのです。しかし、主のご臨在と御顔の輝きから、自分で選んで逃げ出したという強い自覚と悔悟がこの言葉となったのでしょう。また3節は「あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。」とも言っています。実際にヨナを海中投棄をしたのは、水夫たちであったのですが、ヨナは、それは主の御手によって刑罰としてなされたと自覚していました。ですから、「しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」と悔い改めの告白を行っています。

・衰え果てた魂:
7節「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。」ヨナの内面を見ると、絶望的な環境よりも勝って魂が衰え果てていました。神の喜び給う環境から逃げ出し、そのための刑罰を十分に受けていたからです。神は私達が真実に祈るために、絶望、挫折、傷、落胆と言う環境を備えなさることがあります。聖書の中で最悪の王といわれたマナセは、遠いアッシリヤに捕虜となり、その苦しみから主を求めました。マナセの砕かれた心の祈りは、神に聴かれたのです。神の愛から離れて自己意思を貫いた放蕩息子も、その自己中心人生の結末を刈り取り、その只中から真実な悔い改めをもって父に立ち返ったのでした。
 
5.感謝をもって祈る(2、6-9節)
 
 
ヨナの祈りを学んでいくと、真っ暗な環境にも拘わらず、不思議な明るい響きがあります。それは、祈りが答えられた感謝に満ちているからです。

・魚腹は救いの一歩:
魚腹とは、絶望のシンボルのように見えますが、実は荒海の滅びからの救いだったのです。勿論、居心地のいい環境でないことは言うまでもありませんが、荒海よりはずっとましです。彼は、魚腹にいることが、もう祈りが答えられかけている証拠であると考えました。

・2節「主は答えてくださいました。・・・あなたは私の声を聞いてくださいました。」
・6節「あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。」
・7節「私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」

・最終的救いへの確信:
9節「私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」ここまで助け給うた主は、必ず、地上に出してくださり、神殿に詣でる機会を与えてくださり、そこで感謝の供え物を捧げることができる、とヨナは確信しました。その救いを見越して感謝して、叫んでいます。これは「先取りの感謝」です。ダビデは、罪を犯して悔い改めた時「砕かれた悔いた心の祈り」は聞かれると確信しました。ヨナもまた、ヨナは悔いた心を持って神に帰った時、受け入れられたという確信を持ちました。ヨナは、嵐と魚で完全に砕かれていました。私達は信仰の祈りを捧げるとき、既に得たと信じることができるのです。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)
 
祈りの答え:魚腹から陸地へ(10節)
 
 
「10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」      _
 
主は、ヨナの祈りに耳を傾けなさいました。魚は神に命じられるままにヨナを吐き出しました。たぶん陸地の近くで大きなゲップでもして、ヨナは吐き出され、後は泳ぐか歩くかして陸地にたどり着いたのでしょう。陸地にミサイルのように飛んで行ったのではないと思いますが、(まして、ニネベまでではない)が、やさしいお扱いです。自然界を支配し、動かし給う主の恵みを覚えましょう。この点は来週にもう少し詳しく学びます。
 
おわりに:神と一対一で向き合おう
 
 
肉体的な苦しさ、絶望的な環境、それらに勝って神の御顔を避けて逃げ出そうとしたヨナにとって、魂が滅入った、いや滅入ったどころか、衰え果てました。私達の人生でもこのような状況はありえます。しかし、私達の荷がどんなに大きくても、深くても、そしてそれが霊的な課題であれ、肉体的・物理的課題であれ、経済的課題であれ、神がタッチできないほどの複雑な、困難な課題はありません。神の前に絶望はありません。絶望的状況は、神を思い出すチャンスにしか過ぎません。ヨナは、幼いときの信仰、預言者学校時代に捕らえた神をもう一度思い起こして、真剣に神と向き合いました。ふと思い出したのではなく、自分が逃げ出した対象である神と真剣に向き合ったのです。

「私の魂が私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」(7節)

 
お祈りを致します。