礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年3月7日
 
「祈りに答え給う神」
ヨナ書連講(4)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書2章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  2   私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
(ヨナ2章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ヨナは魚の腹の中から彼の神、主に祈って、2a 言った。
2b「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
 
はじめに
 
 
ヨナ書の連講では、人間ヨナと、ヨナを扱い給う神と、二つに焦点を当てて学んでいます。昨週は、魚の腹の中で祈っているヨナに焦点を当てました。今日は、そのヨナの祈りを聞き給うた神について考えます。

ヨナの祈りの言葉の中から、ヨナがどのように神を捉えていたか、その信仰告白を辿って行きたいと思います。
 
1.「ヨナの」神(1節)
 
 
「ヨナは魚の腹の中から彼の神、主に祈って言った。」(1節)

・神の懐の深さ:
ヨナは、散々神に逆らい、神のみ顔を避けて自分勝手な道を歩んだ人間です。預言者の風上にも置けない人間です。しかし、この魚腹の中で彼は神を「私の神」と捉え、また、神も「ヨナの神」と呼ばれることを厭われませんでした。あるアブセント・マインドの旦那さんが、とんでもない格好で外出してしまって、いつもは一緒に歩いている奥さんに「こんな人知らない」という態度を取られたとしましょう。この奥さんは、少なくともその時には「この人は私の夫ではない。」と周りの人々に言っているわけですね。これは軽い冗談で済むことですが、ヨナの場合はもっと深刻です。ヨナのように不服従な人間から「私の神」と呼ばれたくない、と神はお思いになるのが当たり前です。しかし、憐れみに富み給う神は、ヨナの神と呼ばれることを厭われませんでした。神の懐の大きさを感じます。

・変えられたヨナ:
一方、ヨナの側でも、神を「私の神」と呼ぶことに躊躇を覚えたことでしょう。放蕩息子が父の家を出、散々放蕩に身を持ち崩したあとで、「もう私は、子と呼ばれる資格がありません。」と言わなければならなかったのと同じです。しかし、ヨナは、神の赦しの恵みを信じて、敢えて「私の神」と呼び、神もそれを良しとされました。この朝、ダビデと同じように、「主は私の羊飼い」と言えますか。信仰をもって言って見ましょう。
 
2.応答する神(2節)
 
 
2節に目を留めましょう。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」答えてくださった、聞いてくださった、と祈りの答えの様子が繰り返されています。どんな風にでしょうか。

・嵐の海からの救われる:
当然のことですが、それは嵐の夜、大波の只中からの助けを求める祈りに答えて、魚の腹に収めてくださったことを指しています。

・打てば響く:
でも、そのような「事実としての答え」だけだったでしょうか。いいえ、ヨナが大波と戦いながら祈ったとき、もう答えの手応えを感じていたのでしょう。「助けてくれー」という叫びに、「おーい、大丈夫だよ。今行くよー。」という応答をヨナは感じたのです。祈りの答えは、祈った人には分かります。物事がうまく進んで、何となく答えられたなという漠然としたものではなく、祈りの中で、あるいは祈りの直後に、これは答えられると感じるものなのです。また、そのような確信を与えなさるのが活ける神なのです。「打てば響く」という表現がありますね。即刻の、しかも積極的な反応のことです。神は、正に「打てば響く」お方です。1954年、初代総理が北浦和の神学校を増築するための建築資材を探していた時、神学校の真前の埼玉県庁舎が移転のため解体されていました。取壊し事務所に駆け込み、社長とあって、その資材全部を120万円で購入するする約束をしました。そのよる、社長の息子が父から「蔦田」と言う名前の買い手があった話を聞いた時、「その蔦田と言う人はいつか大学に聖書講演に来た人だ。いい人だから安くしてあげなさい。」と父に進言し、社長は80万円に下げて、契約をしました。約束手形の決済の日が迫ってきて、その前の日の午後社長は蔦田総理に電話をし「決済は明日ですが、銀行に取りに上がっても大丈夫ですね?」と念押しをしました。総理は一瞬天を仰いだが、平安が与えられたので「はい、どうぞ」と答えました。実際的には、手許には殆どその資金がなかったのです。主の前に静まり熱烈な祈りを捧げました。「異邦人の前に、あなたの栄光を顕してください。」と。その祈りが終わり、えもいわれぬ平安が与えられ立ち上がったその時、次男である公義兄が「外国電報です。」と叫びながら階下より駆け上ってきました。それはカナダからの電報で、「直ちに2000ドルを送金する」と言うものでした。電報を開かずとも、その内容を察知した総理はその電報を片手に、密室でダンスをしたそうです。神は、「打てば響く」お方です。

・どこからでも届く:
神は、私たちの祈りを答えるのには余りにも遠いところに居られるという事はありません。携帯電話ならば、電波の届く範囲が限られています。そこから電話しますと、「電波は届きません」というメッセージが届いてしまいます。しかし、神様への携帯電話はいつでも、どこからでもかけられます。
 
3.懲らしめ給う神(3-4節)
 
 
・苦境も主の配剤:
3節「あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。」「私はあなたの目の前から追われました。」ヨナは、自分が海に投げ入れられたのも、聖所の礼拝から追放されたことも、みんな主のみ業と思っていました。しかもそれが自分の罪と不服従であることも分かっていました。しかし、ヨナの言葉に不満の響きはありません。当然受けるべき罰と言うことは良く分かっていましたから・・・。

・苦難の目的:
「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(ヘブル12:7)とヘブル書記者は問いかけます。誰もいません。懲らしめは、「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」(同12:10)なされるのです。ヨナの場合には、不服従の故の懲らしめです。クリスチャンの多くの場合は、試練としての懲らしめです。違いはありますが、すべての困難、試練の背後に主のご意志が働いていることを見落としてはなりません。
 
4.聖なる神(4,7節)
 
 
・聖なる宮:
4節と7節と二回、ヨナは神の宮のことを聖なる宮と呼んでいます。「私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」、「私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」神を礼拝する場所、それは聖なる場所です。なぜ礼拝所が聖いのでしょう。それは、神ご自身が聖いお方だからです。聖と言う言葉はクァドシュ(別れた)という意味から来ています。被造物の世界から切り離され、隔絶した世界に住み給う、それが「聖」の語源です。

・追放され、しかし受け入れられた:
罪を犯し、明らかな不服従の態度を示したヨナが、聖なる神から、その宮から追放されたのは当然です。しかし、そのようなヨナであっても、真に罪を悔い、神に立ち返ったとき、主は憐れみのゆえに受け入れてくださる、ここに福音があります。ヨナは、悔い改めた後に、「祈りが聖なる宮に届いた」という確信を持ちました。罪深いニネベに福音を述べ伝える前に、罪深い自分が救われるという経験を持つ必要がありました。
 
5.救いの神(6,9節)
 
 
・救われたヨナ:
6節と7節「私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。」「救いは主のものです。」神はヨナ個人に目を留めてくださいました。「穴」というのは、死と滅びの象徴です。主はそこからヨナを引き上げてくださいました。

・救いは主のもの:
ヨナは、この個人的経験を通して、主は救うお方、救いは主のもの、神の専売特許は救いなのだと言うことを学びました。ですから、後の伝道の対象となるニネベでも救われる、悪の権化のような町であっても、救われうることを知りました。
 
6.全能の主(10節)
 
 
・魚を操る:
神は魚の気持ちを変えて、ヨナを吐き出そうと働きなさいました。神に不可能はありましょうか。いいえ。ヨナの祈りに耳を傾け、魚は神に命じられるままにヨナを吐き出しました。たぶん陸地の近くに。陸地にミサイルのように飛んで行ったのではないと思います。まして、500kmも離れたニネベまでではありえません。尤も、私が教会学校の生徒だった頃、CSの先生が、「鯨がヨナをプーッと吹き上げました。それでヨナはドーンと飛んで行き、ついたところがニネベでした。」と話してくださったのを覚えています。誰とは言いませんが聖書地理を少し勉強なさったほうが良かったのに、と今にして思います。

・神のご配慮:
「ヨナを陸地に吐き出させた。」と言う言葉の中に、神の行き届いたやさしいお扱いを見ないでしょうか。吐き出されても陸地に遠いところでは、もう一度溺れてしまったことでしょう。実際は、適当な深さのところでヨナは吐き出されたのです。自然界を支配し、動かし給う主の恵みを覚えましょう。神は、雀が地に落ちるのも許し給わないお方、私たちの髪の毛の数まで知っておられるお方です。主を賛美しましょう。
 
おわりに
 
 
ヨナは正確に、神のご性格を捉えました。私たちの多くは、そのことを聖書的知識として、神学的理解として持っていると思います。ただ問題は、その神ご自身に対して「一対一で向き合う」真剣な姿勢をどのように持っているかどうかであります。主は、「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」(エレミヤ30:21)と待ち望んでおられます。剣道の道場で、真剣に向かってくる弟子を喜ぶ師匠のようなものです。

ヨナが捉えた神のイメージを振り返りつつ、私たちも神がどんなお方かを捉え、そして、それを私たちの信仰として言い表しましょう。

・神を「私の」神と捉えましょう。
・祈りに答えたまう神に呼ばわりましょう。
・懲らしめ給う神の許し給う試練を受け入れ、その中で安んじましょう。
・聖なる神を畏れ、神の聖を分け与えていただくよう祈りましょう。
・救いの神の救いを信じましょう。
・全能の主の「全能」性への信頼を持って進みましょう。
 
お祈りを致します。