礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年3月14日
 
「ヨナとキリスト」
ヨナ書連講(5)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書1章17節&マタイ12章38-42節
 
 
[中心聖句]
 
  40   ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
(マタイ12章40節)

 
聖書テキスト
 
 
(ヨナ1章)
17 主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。
(マタイ12章)
38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
 
はじめに
 
 
ヨナ書の連講では、人間ヨナと、ヨナを扱い給う神と、二つに焦点を当てて学んでいます。今日は、少し本筋から離れて、ヨナとキリストという題でお話しします。と言いますのは、主イエスは、ご自分の死と復活を魚の腹に入れられたヨナに譬えておられるからです。

時恰も、今はレント(四旬節)と言って主のご受難を覚える季節に入っており、今月28日は受難週の始まりを迎えるからです。序に、四旬節(Lent)というのは、春になって日が長く(Long)なることから来た言葉です。イースター・イブから逆算して40日の事で、カトリック教徒は、この期間肉食を慎んで主の苦しみを偲ぶそうです。いずれにせよ、教会の暦に従って、私たちの黙想を深めることは大切と思います。

ヨナが魚の腹にいたことをご自分の死と復活に結び付けなさった主イエスの言葉は、マタイ12章と16章にありますが、今日は12章に注目します。
 
1.マタイ12章の背景
 
 
・主の癒しの後の「言いがかり」:
38節の問答の前に、主イエスが片手の萎えた人を癒しなさったこと(13節)が記されています。その奇跡に驚いた人々は、「この人はメシアではないか」といい始めました(23節)。初めからイエスを信じようとしないパリサイ人たちは、それが面白くありません。「この男は悪霊に衝かれた人間だから、その力で悪霊を追い出しているのだ」と皮肉りました(24節)。何という天才的な「言いがかり」でしょうか。人間、誉めることは下手な人でも、他人にケチをつけることは天才ですね。私もアラコキとなりましたが、つくづく、人間は悪魔的な思想では天才だなあと思わさせられています。さて、38節はその議論の続きです。

・パリサイ人たちの要求:
38節には、「律法学者、パリサイ人たちのうちのある者が」イエスに「あなたからしるしを見せていただきたい」と要求したこと記されています。この律法学者・パリサイ人たちは、イエスがキリストであることを真っ向から否定して、その粗探しだけをしていたのです。パリサイ人たちは、「あなたが本当にメシアであるならば、その証拠を見せろ」と要求したのです。実はマタイ16章にも、同様なリクエストをした記事があります。「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」(マタイ16:1)要は、「お前が本当にメシアならば、病気を直すといった小さな奇跡でごまかそうとしないで、みんなを驚かせるような衝撃的な見世物をしたらどうか。お前が命じると、天に大きな文字が描かれて、『これがメシアだ。この人を信じなさい』とか言うような徴を表わしてご覧」という要求でした。実際はからかいと悪意に満ちた質問だったのです。

・主イエスの答え:
興味深いことに、12章の質問に対しても、また、16章の質問に対しても、答えも同じでありまして、主イエスはヨナを例に挙げて答えておられます。今日は、12章の答えに絞ってお話します。
 
2.ヨナの奇跡は最大
 
 
主イエスは、ヨナが魚に入り、そこから救出されたことが最大の奇跡であると語っておられます。「だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいました・・・」(39−40節)16章においても「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(マタイ16:4)と言って、ヨナのしるしを最大のものと認めておられます。ここから分かることが三つあります。

@ヨナ物語は事実:
主イエスは、ヨナの存在をおとぎ話ではなく、実在の人と認めておられると言うことです。もし、私たちの愛する主、しかもすべてをご存知の主がヨナの実在を信じているとするならば、私たちが小ざかしく、あれはおとぎ話なのだ、と決め付けるのは主イエスに対して失礼でありましょう。

Aヨナの生還は大奇跡:
主イエスは、魚腹で生き延びて陸地に戻されたヨナの奇跡的な生還を、他のどの奇跡よりも大きなものとみなしておられます。奇跡といえば、紅海が二つに分けられたことも奇跡です。マナが降ってきたことも軌跡です。エリヤが火を呼び降したことも奇跡です。ダニエルがライオンの檻に入れられながら食べられなかったことも奇跡です。しかし、主イエスはヨナの奇跡が最大のものだと評価されました。それは、ありえないことが起きたと言う以上に、重要な意義を含んでいたと言う象徴的な意味で、最大の奇跡でした。

B奇跡の効果も最大:
その奇跡の効果という点から言えば、魚腹から生還したヨナの不思議な容貌と体験談を通して、当時の世界最大の都市ニネベ全体が悔い改めたという点で、最大の奇跡といえます。このことについては、第3章の学びに委ねます。その意義という点から言えば、主イエスの死と復活を表わすという点で重要でした。
 
3.魚の腹=イエスの死(イラスト@)
 
 
主イエスは、ヨナが三日三晩魚の腹の中にあったことを、ご自分の死の譬えであると語られました。その共通点を見てみましょう。

@同じ長さ:
ヨナは三日三晩魚腹にいました。時計も無い時代に、どうしてその長さが分かったのでしょうか。私は、こんなふうに想像します。着物もぼろぼろ、やせ細り、顔もその他の皮膚も魚の胃液で真っ白になって半分とけかかっていた、異様な人間が海岸にたどり着き、近くの漁師さんに助けられたのです。親切な漁師さんの介抱でやっと正気に戻ったヨナが、今日は何日ですか、と尋ねます。x月x日ですよ、と答えたときに、ヨナは自分の漂流の長さを知ることができた、と言うような会話です。一方、主イエスは、聖金曜日の午後3時に息を引き取られ、夕刻までに埋葬されました。そして、日曜日の早朝、復活されました。厳密に言うと、三日二晩ですが、これはユダヤ的表現で、三日三晩と言うのが慣わしでした。

A同じ暗黒:
その暗黒、酸素不足、ねばねば、ぬめぬめ、その先にある消滅の恐怖、それが魚腹であります。主イエスは、十字架の死の後、死者の住む黄泉の世界に行かれた、とペテロは語っています。使徒2:27、31の説教の中で、ペテロは、主イエスが十字架の死後「ハデス」(死者の世界)に下っていかれたと言及しています。さらにTペテロ3:18−20には「キリストも一度罪のために死なれました。・・・その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」と語っています。つまり、主イエスは十字架の死後、死者の国に遣わされ、そこで福音をのべ伝えたのです。使徒信条にも「キリスト・・・。死にて葬られ(陰府にくだり)、三日目に、死ねる者のうちより甦り」と告白されています。

B同じ絶望:
魚腹は、その先に希望がありません。魚の胃袋で溶けてなくなるだけの運命です。主イエスの死も、サタンが勝利を祝うほどの絶望的状況でした。
 
4.魚腹からの復活(イラストA)
 
 
神は、ヨナを永遠に魚腹に閉じ込めては置かれませんでした。魚に命じて、彼を太陽の世界に戻してくださったのです。

@神の力のデモンストレーション:
神は、魚に命じてヨナを陸に吐き出させた、と記されています。しかも、生きた状態で・・・。これは大いなる奇跡以外のなにものでもありません。ヨナの中に神の力の偉大さが表されました。それ以上に「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中から甦らせ・・・」(エペソ1:20)とキリストの復活に神の偉大な力が表されたと記されています。序ながら、それはキリストだけにではなく、「私たち信じる者に働く神の勝れた力」の大きさをも物語っています(エペソ1:19)。私たちは、復活の主を信じていますが、昔話としてではなく、信じるものには、復活と同じ力が働くことを信じています。

A福音の大きさを示す:
魚腹は罪(不服従)への刑罰です。そこからの脱出は、その罪の赦しの象徴です。同じように、十字架は、私たちが罪から救われるという贖いの内容を示します。
 
5.キリストの型となった光栄
 
 
このように、ヨナはその不服従のゆえに、神に叱られ、とんでもない苦しみに遭ったのですが、そんな失敗の経験でさえも、主はご自分の救いを予告する一つの例として用いなさいます。私たちなどは、実に失敗だらけの人生ですが、その失敗の経験でさえも、主はさらに大きな目的のために用いなさいます。神の知恵の大きさ深さを感じないでしょうか。ダビデが姦淫の罪を犯したことは、彼の生涯の最大の汚点でした。しかし神は、その失敗をも、罪を赦し給う神の恵みの大きさを示すよすがとして用いなさいました。
 
6.質問者への挑戦
 
 
主イエスは、このようにヨナを引用しながら、最大のしるしであるキリストの存在を認めようとしない質問者たちの心の頑なさを厳しく責めておられます。「あの極悪非道で有名なニネベ人、異邦人であって聖書の光も持っていなかったニネベ人でさえも、死んだ様な状態から癒されたヨナの説教を聞いて、心から悔い改めたではないか。それなのに、ヨナ以上のしるしを既に行い、これから示そうとしているこの私をどうして信じないのか。それは、理性的な問題ではなく、心の問題ではないか。柔らかい心をもって、公平に物事を見るならば、信じることが素直で自然な結論ではないか。どうして信じようとしないのか。」と悲しさを振り絞るようにして主は訴えておられます。あなたは如何でしょうか。
 
おわりに
 
 
これから、私たちは主のご受難を思う節期に入ります。私たちの罪を担われた主のご受難の深さを思い、自らの罪の深さを省み、心からの悔い改めをいたしましょう。キリストの復活の事実に目を留め、私たちの罪をまろばし去ってくださった神の力を感謝しましょう。
 
お祈りを致します。