礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年3月21日
 
「世の罪を除く神の小羊」
受難節の霊想
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書1章29-37節
 
 
[中心聖句]
 
  29   ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネ1章29節)

 
聖書テキスト
 
 
29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
 
始めに
 
 
受難週をあと一週間の後に迎える私たちですが、十字架に向かう主イエスの姿を見たいと思います。
 
1.ヨハネのイエス紹介
 
 
・イエス紹介の背景:
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(29節)これは、バプテスマのヨハネが、主イエスを紹介したときの最初の言葉です。主イエスの公生涯初期の出来事です。場所はヨルダン川沿いのベタニヤですが、エルサレム郊外のベタニヤとは異なるベタニヤで、特定はできませんが、ガリラヤ湖の南側出口の辺りのようです。

・サンヒドリン調査団へ:
19節を見ると、バプテスマのヨハネの活動とその大きな反響に驚いたサンヒドリンが、ヨハネの人物と活動を調査するために祭司たちを送ったと記されています。ヨハネは、それに答えて、自分は先駆者であり、それ以上ではないと答えました。恐らく、祭司たちだけではなく、その周りの群衆も聞いていたことでしょう。その出来事が起きた翌日、バプテスマを受けられた主イエスが同じ群衆の前に現れました。それに対して、イエスを紹介したのが29−34節です。その最初の言葉が「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」であった訳です。

・二人の弟子へ:
更にその翌日(35節)、今度はヨハネの直弟子である(後の使徒)ヨハネとアンデレがいるところに現れたイエスを指差してもう一度「見よ、神の小羊」と紹介しました(36節)。その結果、ヨハネの弟子ヨハネとアンデレは、バプテスマのヨハネの許から去って、新しい先生であるイエスに従うものとなりました。
 
2.ヨハネのメシア像
 
 
29−34節までに示されているメシアの姿を箇条書きにすると:

@世の罪を除く神の小羊(29節):これは今日詳しくお話します。
Aヨハネよりも先に存在した(30節)
B聖霊が彼の上に注がれた(32節)
C聖霊によってバプテスマを授ける方(33節)
D神の子(34節)

このように、主イエスを紹介する第一のポイントが、その「小羊」性でありました。しかも、イエスの公生涯の終わりではなく、始めから小羊性が示されたことは、主イエスのご生涯の目的が十字架であったことを示します。序ながら、21章あるヨハネの福音書が、その半分近い10章分を最後の1週間に当てていることも、十字架の重要性を示唆しています。
 
3.「小羊」のイメージ
 
 
ヨハネは、何で「小羊」と言ったのでしょうか。山羊でもなく、牛でもないのでしょうか。また、成長した羊ではないのでしょうか。

旧約聖書を見ますと、牛や山羊や羊は、生贄の動物として用いられています。どの動物が生贄に相応しいかは、ケースバイケースで、「小羊限定」というケースは多くありません。しかし、「小羊」と限定的に言及されているところが少なくとも2箇所ありますので、それについてお話します。

@過越しの小羊(奴隷解放の身代わり):
出エジプトの夜、過ぎ越しのために屠られたのも「傷のない一歳の雄の羊(または山羊)」(出12:5)でした。この小羊はイスラエルの初子の身代わりとして、過越しの夜に各家庭で一頭屠られて、その血は、家の鴨居と柱に塗られました。エジプト中の初子を殺すために送られた天使たちが、その家を「過ぎ越す」ためでした。そして、その肉は、その夜のうちにローストされ、種無しパンと一緒に食べられたのです。これが過越しの食事でした(出12:4−8)。小羊は、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されるための身代わりだったのです。新約聖書はこれを受けて、「私たちの過越の小羊キリストが、既にほふられた」(Tコリント5:7)と語ります。

A苦難の僕・小羊(罪の贖いのため):
イザヤ53:7を見ましょう。「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」ご存知のように、53章は、自分の苦難を通して贖いを成し遂げる僕(しもべ)の預言です。特に7節の羊は、ある目的を持って黙々と、しかも自発的な意思を持って父なる神に従うさまを示しています。その目的は8節で「主の民のそむきの罪のため」であると説明されます。また、彼が死に当たる罪を犯していないことが9節で「彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかった」と説明されます。つまり、彼自身の罪のための死ではなく、誰かの身代わりとしての死です。しもべが口を開かないのは、諦めのためではなく、神の御心に従って決然とその苦しみに立ち向かう様を現しています。主イエスがその御顔を固くエルサレムに向けなさった時の様子(ルカ9:51)を示唆しています。ピリポがエチオピアの財務大臣に個人伝道をした時、大臣が偶々読んでいたイザヤ書53:7は、キリストのことであると示しました(使徒8:32)。
 
4.小羊が示す忍従の道
 
 
このように、ヨハネが指し示したキリストの絵は、「かわいらしい小羊」というイメージではなく、私たちを罪の束縛から解放するために屠られる小羊、私たちの罪の重荷をじっとになってくださる贖い主トいうイメージです。しかも、そのしもべは、受身的に、じっとその身代り的な刑罰を耐えなさったのではなく、自ら選んで、進んでその命を捧げ、最後の血の一滴までも私達のために注ぎつくされたのです。そして、それは私たちも進む道であることを、イエスの近くに居たペテロが教えています。私たちはこの矛盾に満ちた社会で、不当な迫害や攻撃にぶつかります。そこを静かな心を持って耐えることこそが、私達が召された目的だ、とペテロは言っています。Tペテロ2:18−24を読みましょう。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私達が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。」
 
5.世の罪を除く小羊
 
 
・世の罪とは:
「世の罪を除く」というのも、その贖いをはっきり意識した言葉です。真にこの世は罪と汚れに満ちています。私たちは、傷つけられることには敏感で、それに対して過剰反応さえ致しますが、傷つけることには鈍感である場合が如何に多いことでしょうか。無視されると深く傷つくのに、考えることも行動することも自分中心で他の人の苦しみや痛みを無視してしまうことが多いものです。そんな自己中心と自己中心がぶつかり合っているのが世の中ですから、本当に世は住みにくいものです。主イエスは、その自己中心の罪を砕き、除くために十字架に掛かられました。それは、罪を終わりにするためでした。

・身代わりとして罪を担う:
バプテスマのヨハネが「世の罪を除く」と言った時、罪に対する徹底的で完璧な解決をこのメシアに期待するという深い、強い期待を表わしました。「除く」と言う言葉の元はアイロー(取り上げて担う、持ち上げる、運ぶ、取り去る、取り除く)です。これには、身代わりと除去と言う二つの思想が含まれています。第一は「身代わり」で、私たちが担うべき罪の罰を代わりに担ってくださることです。イザヤ53章には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(4節)、「彼らの咎を彼がになう」(11節)、「彼は多くの人の罪を負い・・・」(12節)と記されています。罪の結果としての罰と苦しみを、身代わりに担ってくださいました。

・罪を除いて、終わりにする:
第二は「除去」で、私たちが抱えている罪の性質を除いて終わりにしてくださることです。第一ヨハネ3:5には、このアイローと言う同じ動詞で「キリストが現れたのは罪を取り除くためであった」と記しています。もし、主が除くために十字架に掛かられたのに、「除かれていない」とすれば、主の十字架が不完全であるか、私たちがそれを捉える進行が不完全であるかどちらかでしょう。十字架が不完全と言うことはありえませんから、私たちの信仰をもう一度吟味しましょう。
 
6.(使徒)ヨハネたちの応答
 
 
・直ぐに従う:
バプテスマのヨハネによるイエスの紹介を聞いた(使徒)ヨハネともう一人の弟子は、間髪をいれずイエスに従っていきました(37節)。バプテスマのヨハネとしては、複雑な気持ちだったかもしれません。自分が先駆者・紹介者としての使命を果たし、主イエスをキリストと指差したまでは良かったのですが、自分の直弟子が、「そうですか、ではさようなら」と割り切って、さっさとイエスの弟子になってしまったのですから、「おいおい、今までの感謝はどうなったの。」という気持ちが少しはあったことでしょう。でも、二人の弟子は真剣でした。礼儀も大切だが、真理はもっと大切と思ったのでしょう。長い間約束されていたメシアがこの人なんだと確信して、ついて行ったのです。その晩徹夜でイエスと話し合い、ますますその確信を強くしました。「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」(41節)と兄シモンに告げるほどでした。

・十字架を目撃する:
このヨハネは、イエスが十字架につけられたとき、その足許に居り、神の小羊が世の罪を除くその現場を見ました。そして、その手紙の中に、「この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。」と確信を持って記しました(Tヨハネ2:2)。
 
7.私たちの応答
 
 
・見つめよう:
バプテスマのヨハネが、「見よ。」と私たちに挑戦を与えています。このお方が、どんな心をもって十字架に向かい、十字架を受け、十字架を乗り越えたかをできるだけ詳しく、リアルに「見よう」ではありませんか。

・仰ごう:
そして、「世の罪を除く」という「世」に、私と言う言葉を当てはめて捉えようではありませんか。「見よ。私の罪を完全に完璧に徹底的に除き給う贖い主」として、改めて捉えようではありませんか。

・賛美しよう:
そして、多くの御使いと共に、聖徒たちと一緒に「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)と賛美しようではありませんか。
 
お祈りを致します。