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・ステージ6に至るまで: ヨハネ福音書で言えば、18:13が第一ステージです。第二が18:24、第三が省略されていて、第四が18:28です。第五はルカ福音書のみが扱っており、それがヨハネ福音書18:38の辺りに入ってくるエピソードです。そして、19:1が第六ステージに当たります。つまり、主イエスはその前の段階の裁判で大いに疲れておられたことが容易にわかります。 |
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2.ピラトの示した「この人」 |
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さて、ピラトが「さあ、この人だ」と語った時の主イエスの状況は、どうだったでしょうか。ともかく悲惨な姿であったことは確かです。 |
・鞭打たれた「罪人」: ピラトがイエスを鞭打ちにしたのは一種の妥協でしたが、危険な妥協でした。ルカ23:15−16には、「この人は、死罪当たることは、何一つしていません。だから私は懲らしめたうえで、釈放します。」と言って鞭打ちにしたのです。つまり、無罪である、しかし、あなたがたが文句を言うものだから、死刑よりは軽い鞭打ちということで「手を打とう」と言ったのです。この一歩の妥協が、止め処もなく妥協する「墓穴」となったのです。当時の慣習では、十字架刑の前段階として鞭打ち刑がなされたのです。ピラトは、十字架の代わりに鞭打ちで勘弁してあげよう、という意図だったのですが、群衆にとっては、鞭打ちは慣習どおり十字架への道だったのです。これは、ピラトにとっては大きな誤算でした。さて、当時の鞭打ちは、罪人の上半身を裸にし、杭に両手を縛って、海老のように丸くなった背中を、金属か骨片を埋め込んだ皮の鞭で思い切り叩くものでした。これだけで息絶えた人もいるくらいです。数年前に「パッション」という映画が上映されましたが、とても見るに耐えないほどの鞭打ちシーンでした。主イエスの場合、十字架を背負えなくなるほどの、酷いものであったことは確かです。 |
・茨の冠と紫の衣の「王様」: 王様と呼ばれるからには、冠がお似合いだろうと言うローマ人兵士たちの戯れもあったことでしょう、棘のついた植物で編んだ冠が主イエスの尊い頭に無理やり押し付けられました。更に紫色の衣が背中の破れた皮膚を覆うように掛けられました。紫と言うのは、高貴な色です。小さな貝殻をつぶして作った染料が用いられていましたから、原料からして高価なものでした。その紫の衣をどのようにして手に入れたか分かりませんが、これも「王様に相応しい」とばかりの、ローマ人兵士たちの意地悪いジョークでした。 |
・平手打ちに傷んだ頬: 兵士たちは、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とからかいつつ、平手で打ちました。頬を打たれて、きっとその傷の故に歪んだ顔になっていたことでしょう。 |
・罪のない人: ピラトがユダヤ人宗教指導者に言おうとしていることは、「この人はあなたがたが言っているような悪人ではない。少し誇大妄想の気味のある可哀相な男ではないか。こんな男を虐めても、何の役に立つのか。実際、もう充分すぎるほど苛め抜かれているではないか。この辺で赦してあげたらどうか」というメッセージが、この言葉に籠められているように思われます。 |
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3.祭司長たちの見た「この人」 |
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・冒涜者: 「彼は単なる人間に過ぎないのに、自分をメシヤとし、しかも神と等しい存在であると主張している男であり、赦すべからざる人間だ」というのが宗教指導者たちの見方でした。 |
・反逆者: 本心から言えば、彼らもローマ帝国の圧制と強権的な秩序を嫌っていながら、この時ばかりは忠義面をして、「ローマ帝国には王様はカイザルしかいない。自分を王様と唱える人は、反逆者だ。」と主張したのです。何という偽善、何という巧妙なすり替えでしょうか。 |
・憎い人: 今まで述べた事は、正に彼らの本心を隠した上手な理屈にしか過ぎませんでした。本心は主イエスが憎かった、それだけです。利権に走る自分たちの欲深さを暴き、敬虔ぶっている裏側は全く世俗的であり、人々の尊敬を勝ち得ている積りであるこの男たちにとって、自分のありのままの存在を露わにしてしまうイエスは、実に我慢のならない存在でした。理由はともあれ、何としても「亡き者」にしたい対象でした。ですから、なりふり構わず、慣習も、正式な手続きも乱暴に省略して、何が何でも十字架につけようと画策したのです。無知な群衆を味方につけて「十字架につけろ」と叫ばせたのです。私は、この人々の悪意に満ちた行動を見るとき、他人事とは思えません。恐らく、人間みんなが共有している悪魔性を見せつけられるような思いです。 |
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4.私たちの見る「この人」 |
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同じ絵を見ながら、私たちの見方は違います。主イエスは・・・、 |
・忍耐の人: 主イエスは、私たちの苦しみと痛みを淡々と背負われた忍耐の人でした。この筆舌に尽くしがたい辱めと痛みとを静かに「毛を切る者の前に黙する小羊のように」耐えなさった主を、私たちの模範と捉えたいと思います。 |
・意志の人: 主イエスは、私たちの救いを、それによって成し遂げた意志の人でした。その前の夜、この苦い杯を私から取り去りくださいと祈りました。しかし、自分の願いではなく、あなたの御心のなるようにとの祈りをささげられた時、この道筋のみが、人類の救いのためであることを悟られたのです。心が決まった以上、微動だにせず、その道を進みなさいました。 |
・愛の人: 主イエスは、私たちの罪咎をその身に背負った愛の人でした。鞭打たれた背中、茨で破れた額、そこから流れ出る血潮、それらの一つ一つが語っているメッセージは、「私はあなたを愛している」という愛のメッセージでした。イエスを十字架につけた祭司長達以上に自己中心で、憎しみに満ち、悪意の塊のような自分をなお「愛しているよ」と語られる、圧倒的な愛をそこに見るのです。 |
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おわりに |
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これから聖餐式に臨みます。その聖餐の二要素であるパンと葡萄にあずかる時、その背後に愛の主を見ましょう。感謝しましょう。このお方に私たちの人生の全てを捧げましょう。 |
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