礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年4月4日
 
「復活――大いなる逆転」
復活節に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章23-32節
 
 
[中心聖句]
 
  24   しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
(使徒2章24節)

 
聖書テキスト
 
 
23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。 24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。 26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。 28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
29兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。 30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。 32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
 
始めに
 
 
イースターおめでとうございます。先週の受難週では、キリストが十字架につけられなさった聖金曜日を中心に、私たちの罪を担って苦しまれ、死なれたキリストを偲びつつ日々を過ごしました。そして今日は、その死を蹴破って甦られたキリストを記念するイースターです。全世界の主にある友と一緒に、心からこの日を祝いましょう。

今日はその復活を目撃した証人であるペテロが、イースターの50日後のペンテコステに行った復活証言を見ます。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」何と力強い、何という希望に満ちた宣言でありましょうか。
 
A.十字架:悪意の「勝利」(23節)
 
 
「しかし」という言葉は、その前の23節「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」を引き継いで、それを転換する「しかし」です。ここでペテロは、僅か50日前に、不法な人々(複数)が行った行為を糾弾しています。

・ユダの裏切り:
僅か銀30枚のために(また、主イエスが目指そうとした神の国との見解の相違の故に)、ユダは、口づけをもって、先生であるイエスをユダヤの宗教指導者たちの手に渡しました。

・ピラトの不法:
ローマ総督ピラトも「不法な者の手」の一つです。主イエスが有罪であることを証拠づける何一つの根拠もなく、反対に無罪であることを示唆する沢山の状況的証拠を見ながら、しかも、主イエスへの糾弾が悪意の人々の妬みから出たものであると知りながら、あらゆる法的な手続きを曲げて、十字架につけました。

・宗教指導者たちの妬み:
ピラトより悪いのは、妬みの故に姦計を巡らしてキリストを捕らえ、様々な罪状をくっつけて、イエスを亡き者にしようとした宗教指導者たちです。彼らの行動の中に、人間の心に住む邪悪性、不正直、頑なさ、嫉妬、憎しみの全てを見る思いがします。

・群衆の無責任:
さらに、彼らの唆しに乗って、「十字架につけよ」と叫び、「お前がキリストならば十字架から降りて来い」とあざ笑った群衆の無責任、無思慮、付和雷同ぶりがキリストを十字架に追いやった動力であったことは間違いありません。

・弟子たちの臆病:
もう一つ言うならば、「罪なき者を十字架に付けた」と糾弾しているペテロは、十字架に責任がなかったでしょうか。とんでもありません。彼も、仲間の弟子達も、先生を救おうとして、ゲッセマネの園で、「兵隊の僕」に対して剣を振るい、しかも手元が狂って頭の代わりに耳を切り落としたのが関の山でした。その直後に遁走し、あまつさえ、私はこの人は知らないと白を切ったのでした。そこに代表される臆病と自己保身も間接的にキリストを十字架に追いやった要因でした。

・神の摂理:
しかし、このように、人間の側から言うならば、人の悪が凝縮されてキリストを十字架に付けたのですが、神の側から言うならば、その全てが計算済みであり、それらを「神の定めた計画と神の予知とによって」進めなさったのです。メシアの犠牲的死を通して罪からの救いを成就なさることは、神のご計画であり、予め定められたシナリオでした。人の悪意がそのシナリオの成就に手を貸したと言うわけなのです。神の知恵とご支配の深さを感じます。
 
B.復活:神の逆転勝利(24節)
 
 
・逆転の「しかし」:
「しかし」とは、人間の悪意の総和としての十字架を受け入れ、そして、その結果を勝利に向けて引っ繰り返す神の知恵と力を表す「しかし」です。柔道で言えば、巴投げです。相手方に押されて自分の背中が床に着き、一見敗北のようですが、次の瞬間相手は遠くに跳ね飛ばされてしまう、あの業です。

・死の束縛は僅かの間:
主イエスは、確かに死に繋がれました。しかし、時間的に言えばそれは三日間、もっと正確に言えば、二日と数時間のみのことです。ボクシングで言えば、それはノックダウンでありまして、ノックアウトではありませんでした。十字架に付けられ、息を引き取られたのが金曜日の午後三時で、復活は日曜日の朝早くでありました。

・ダビデが予言していた:
ペテロは、この出来事を詩篇16:10「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」の予言の成就と見ています。ここで語られているのは、死が最終的な勝利者ではない、というダビデの信仰です。特に後段の「聖徒、または聖なる者」は単数でして、ダビデ自身と言うよりも、ダビデの子孫から生まれるメシアを指しています。ダビデ自身は死んで墓に葬られました。しかし、その子孫であるメシアは、墓の中で朽ちることはないと予言されていたのです。

・イエスの復活で成就:
イエスは、確かに死者の中から甦りました。ペテロは、イエスの復活の目撃証人だと32節で語ります。ペテロだけではなく、共に立っている使徒たち、弟子達は皆、復活のキリストと出会った目撃証人でした。福音書に記されている限り、イースターの日から、40日の間10回前後、違った場所で、違ったグループの人々に、キリストは生きておられることを表わしました。単なる夢物語ではないということを示すために。

・変えられた弟子達:
この復活の出来事は弟子達を全く変えました。臆病から勇気に、絶望から希望に、恐れから平安に、敗北的な気持ちから強い使命意識に、と言う大変化です。彼らは、この復活の証人として、復活を宣べ伝えるために命を賭けたのです。もし復活が単に精神的なものに過ぎないとすれば、そんなメッセージに命を賭けるはずはありません。

・復活の決定的な意味:
イエスが死に打ち勝たれたことの意味は重要です。それは、死の原因となった罪に対しての勝利でありました。十字架の身代わりは私たちの罪のためでしたが、それが本当に罪への勝利であったことを保証するのが復活でした。さらに、私たちもまた、彼に続いて復活し、永遠に生きるものとなったことを確証していただいたのです。もう一つ言えば、この甦られた主が、私たちと共に生き、共に歩み、共に悩み、助けてくださる道が開かれたのです。ハレルヤ!
 
おわりに:私たちの生活での「逆転勝利」の保証
 
 
私たちの人生においても、問題課題に押し潰されて、もう生きる望みが絶え果ててしまったというような状況は、いくらでもあります。それが人生の現実です。しかし、感謝しましょう。私たちにとって大いなる危機は、神が復活の力を私たちに表わす大いなる好機に変えられるからです。Uコリント4:8−11を読んで終わります。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」アーメン。