礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年4月18日
 
「信仰によって今なお語る」
召天者記念礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヘブル人への手紙11章4節
 
 
[中心聖句]
 
  4   信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
(ヘブル11章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 
1.アベルの死(創世記 4:1-12)
 
 
先に読みました聖句は、お兄さんの嫉妬によって非業の死を遂げたアベルと言う人物について語っているものです。この聖句は、創世記4章に記されている出来事の解説です。創世記4章の物語をかいつまんで行います。

・カインとアベルという兄弟:
人祖アダムには兄カインと弟アベルという兄弟がいました。「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」と記されています。カインは働き者で、額に汗して働くタイプだったのでしょう。これに比べてアベルは温和な性格で羊と共に野山を巡り、羊を愛する性格だったのでしょう。

・二人の供え物:
それはともかく、収穫の時期がやってまいりまして、二人は、神に感謝を捧げよう、と言うことになりました。カインは畑から取れたものを、アベルは羊の内の一番可愛い1歳の羊を捧げました。神は兄カインの捧げものを顧みず、弟アベルの捧げ物を受け取られました。(恐らく火を降すことによって、それを表わしなさったことでしょう)。

カインの怒り:
さて、怒ったのは兄カインです。面子を潰された怒り、弟が神に愛されていると思うことから来る嫉妬、それらの思いが火山のマグマのように溜まっていきました。神はその心を憂いて、カインの悔い改めを促すのですが、彼は心を閉ざしたまま、復讐の計画を練ります。

・カインの殺人:
とうとうある日、弟を外に連れ出し、一撃の下に彼を殺し、土の中に埋めてしまいます。神はカインに、「お前の弟は何処にいるのか。」と尋ねます。彼は、「私は弟の番人ではありません。弟が何処にいようと私の責任ではありません。」それに対して神は「お前の弟の血が叫んでいるではないか。」とその責任を問われました。
 
2.アベルの信仰(ヘブル 11:4)
 
 
創世記の物語を纏めて、ヘブル書記者はこういいます、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれた(物質の上位と言うことではなく、神の目により価値のあるものとしての)いけにえを神にささげ、そのいけにえによって(ここは、文法的に「いけにえ」とも捉えられますし、「信仰」とも捉えられます。多くの翻訳は後者を取ります。私もその方が自然と思います。)彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」(11:4)

・贖いを求める信仰:
アベルの供え物が受け入れられたのは、その捧げものの材料の違いゆえではなく、彼の信仰の故だったのです。神はアベルの供え物を受け入れる前に、彼の信仰を受け入れてくださいました。動物のいけにえに現れたアベルの信仰が評価されたのです。少し砕いていいますと、罪ある人間が聖い神の前に立つことは恐れ多い、だから、動物のいけにえと言う形で罪の身代わりを捧げ、それゆえに神に近づくことが出来る、という謙った態度のことです。このいけにえの思想は、アベルの両親アダムとエバが罪を犯してエデンから追放された時、彼らの裸を覆うために神が動物を殺し、その毛皮を衣として与えなさったことに起因すると言われています。アベルはその教えを受け入れ、自分がいけにえを捧げると言う形で、身代わり(贖い)に対する信仰を告白しました。

・自己義を主張するカイン:
一方、カインは自分は正しいとする供え物を供えました。ですから彼の態度も供え物も拒否されたのです。カインはそれを怒って、神は不公平だ、弟はうまくやったから憎らしいと、自己反省を一切しませんでした。その自己中心・自己義の精神を神は見抜いて、供え物を拒否されました。神は一方的に拒否なさったのではなく、カインの自己中心的スピリットに対して、それを悔い改めるように、優しく彼を扱い、再度のチャンスを与えなさいました。残念ながら、神の憐れみの機会もカインによって拒否されました。

・神のご嘉納:
一方のアベルの信仰は、神によって正しいものとして受け入れられたのです。それは、いけにえが(多分天からの火という徴をもって)受け入れられたということによって示されました。
 
3.アベルのメッセージ
 
 
この信仰の素晴らしさ、信仰の価値というものは、不信仰・不服従の人間であった兄カインの殺害という恐ろしい行為によっても消え去ることはありませんでした。ですから、アベルは、その信仰を通して何千年も経った今でも語っているとヘブル書記者は言っています。砕いて言えば、信仰によって生きることの素晴らしさを語っているのです。これがアベルのメッセージです。

纏めて言いますと:

@肉体の存在は終わりを告げたが、永遠の命が続いていると言うこと
A非業の死を遂げて悲しい結末ではあったが、後の世においては慰めと憩いと喜びに満ちていると言うこと
B神の前に受け入れられるのは謙った魂であるということ、特に神の贖いへの信仰が神に受け入れられるということ

これらが、アベルが私たちに、今なお語っているメッセージです。

 
4.召天者達のメッセージ
 
 
私たちの友達・先輩を思い出し、その声なき声に耳を傾けるのが今日の礼拝の目的ですが、彼らに口があったら何と語っていることでしょう。ここからは、推測の域を出ませんが、恐らくここまで言っても許されるでしょう。

@天国は素晴らしいところ:
10年ほど前に召天された〇〇さんは、病院で介護してくださるお医者さん、看護師さんたちに向かって「天国って素晴らしいところですよ、あなた達もいらっしゃい。」と事あるごとに話しかけていたそうです。お医者さん、看護師さんたちはその意味が分からなくて、「いや、未だ行くのは早い。」と答えたそうですが、〇〇さんの真意は、「早くいらっしゃい」ということではなく、「天国にいけるような備えをして、わしと一緒にいらっしゃい」と言う意味だったのです。

A信仰をもって走りぬいた生涯の幸い:
私たちが記念している人々の全てが、地上において誰から見ても幸せと言える生涯を送ったかどうか、それは分かりません。貧しさがあり、病との厳しい闘いがあり、孤独があったかもしれません。誰から見ても立派で欠点のない性格を持っていた人々ばかりではないでしょう。でも、私が確信をもって言えるのは、彼らは、そのような人生の戦いの中で、頼るべきお方はキリストだけだと言うことを確信していた、自分の罪と弱さを充分に認めつつ、だからこそ、救い主キリストにより縋って生き抜いていた、それこそが幸いの源だったと証ししていることです。ダビデと言う人は、詩篇16篇の中で、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。・・・それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」と言いました。三浦綾子さんの小説「塩狩峠」のモデルになった長野政雄氏は、その殉職の時にポケットに入れていた遺書には「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」と記され、さらにその死を見越して「余は諸兄姉が、余の永眠によりて、天父(神)に近つき、感謝の真義を味ははれんことを祈る」を記されていました。死んだ後も語っている一例です。これは、今日記念する召天者達の共通している告白であると思います。
 
終わりに
 
 
私たちは愛する方々の思い出を胸に抱いてここに集まりました。彼らが今日、私に何を語っているだろうかと、想像力を巡らして考えましょう。そして、それに答える生き方を私達も今日から始めようではありませんか。
 
お祈りを致します。