礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年5月9日
 
「ヨナの不機嫌」
ヨナ書連講(8)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書4章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
  4   主は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」
(ヨナ4章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、2 主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。3 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」4 主は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」5 ヨナは町から出て、町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
 
1.輝く伝道者(3章):大いなる「戦果」
 
 
昨週は、子どもたちと一緒に礼拝を守りました。できるだけ易しく3章のヨナの姿を描いてみました。そこに登場するヨナは、正に光り輝く伝道者です。BC8世紀のビリー・グラハムと言っても差し支えないと思います。そのメッセージを通して当時のソドム・ゴモラが全市的な悔い改めをしたのですから、ヨナの達成感はどれほど大きなものだったでしょうか。今日風に言えば、大伝道会で、多くの人々が主を受け入れた大勝利の後、ホテルに戻った伝道者のようなものです。先ずベッドの前に跪き、大きな感謝を捧げ、主に栄光をお返しする、というのが当然でありましょう。
 
2.魂の救いを喜べない伝道者の不思議(1節)
 
 
ところがです。4章で見出すヨナの姿は、私たちが当然と思う姿と全く正反対のものです。神に感謝するのとは全く反対に、「不愉快」な気持ちをあからさまにしながら、神に抗議を申し立てている駄々っ子のような人間がそこにいます。一体3章のヨナと4章のヨナとどう結びつくのでしょうか。これは同一人物なのでしょうか。彼は分裂した精神を持っている特殊な人間なのでしょうか。よくよくこの章を学んで行きますと、ヨナが特殊なのではなく、正に、私たち一般人の心の奥深くにある大きな問題性を抉り出していることが分かります。理解の鍵は、1節の「不愉快」と言う言葉の理解にあります。英語の訳もdispleasedとなっていますが、元の言葉を直訳しますと、「それはヨナにとって悪、いや大いなる悪であった。」つまり、感情的にむくれたというようなものではなく、ヨナなりの正義感に触れた、それで怒ったと言うのです。
 
3.怒りの理由
 
 
・「神の憐れみ」への不満:
ヨナの怒りの焦点は、神の憐れみ深いご性質にありました。彼は、こう議論します。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」最初に彼がニネベに行くように言われた時断った理由がここに示されています。彼は、嵐や魚と言う大変な痛い経験が無かったかのように、タルシシュ行きを正当化しようとします。彼の気持ちは、ニネベ嫌いという感情的なものよりも、神の正義と言う観点から「こんな乱暴で、横暴で、残虐な民は滅びよかし」と本気に思っていたからです。それは、自国イスラエルを愛する愛国心と、彼が神に「こうあるべき」と期待している「正義感」から出たものであったからです。

・ニネベ滅亡への「期待」:
それでは、なぜ、彼はセカンドチャンスが与えられ、ニネベ宣教を命じられた時に喜んでやってきたのでしょうか。難しい問題ですが、私はこう考えます。彼は彼なりのシナリオを考えていました。それは、ニネベ人に対して神の警告のメッセージをはっきりと伝える、それが、ヨナにとっても、また、神にとっても一種のアリバイになる、やるべきことはやった、だから、ソドム・ゴモラのように火が下ってくるための道ならしを完了したのだ、と言うようなものであったと思われます。譬えは悪いのですが、デモ隊を鎮圧するための軍隊が、あと2時間猶予を与えるから解散しなさい、その後の命は保証しないとスピーカーで警告を与えたところ、意外にも、デモ隊があっさり解散してしまった、というのと似ています。ニネベ人に戻しますと、彼らは思いきりよく悔い改めてしまった、しかも徹底的に・・・。これはヨナにとって想定外の事態でした。そして彼が望んでいなかった次のステップ、つまり、神はニネベ人を赦し、その滅亡計画を撤回されるということが決まりそうだったのです。それでも尚、ヨナがニネベの滅亡を密かに期待していたことが5節に記されています。「ヨナは町から出て、町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。」これは、1−4節のやり取りの後の行動と考えられます。町は滅ぼされそうだからということで、町から出ることにしました。出たことは出たのですが、やはりニネベがどうなっていくかに関心がありましたので、町の東側の丘の上に陣取り、高見の見物をしようとしました。何という冷たさでしょうか。これは、弟が死から救われたことを祝うことができなかった放蕩息子の兄貴の冷たさに似ています。

・自分には優しく、他人には厳しく:
この冷たさは、自分が神から特別に憐れみを与えられたことを忘れたことにもよります。2章の祈りの中に、不服従であったヨナを、神が如何に憐れみ深く扱ってくださったかを感謝しているのに、ヨナは、その憐れみが他人に適用されるのが不満だったのです。
 
4.ヨナの祈り(3節)
 
 
・死なせてください(?!):
3節に戻ります。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」何と捨て鉢な祈りでしょうか。「死んだ方がまし」という言い方は、尋常な精神状態ではありません。しかし、考えてみると、私たちは想定外の状況にぶつかると、「ああ死んでしまいたい」と考えてしまう傾向を持っています。本当に死ぬことを期待しているわけではなく、現状から逃げ出したい、現状を忘れてしまいたいと言う心から、「死んでしまいたい」となるのです。神の預言者ともあろう人が、と訝る方もあるでしょう。実は、死んでしまいたいと願った預言者は、ヨナが最初ではありませんでした。

・エリヤの弱さ:
大預言者エリヤを見てみましょう。異教の預言者たちとの戦争に大勝利を収めたエリヤでしたが、王妃イゼベルの脅しにすっかり気弱になって、イスラエルを逃げ出し、「主よ。もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(T列王19:4)と悲鳴を上げています。

・ヨナの捨て鉢:
ヨナに戻ります。ヨナは本当に死にたかったわけではありません。自分の捨て鉢の気持ちを「死んでしまいたい。」と言う言葉で表わしているだけなのです。その証拠に、太陽が暑くなってくるだけで、「死んだほうがましだ。」(4:8)と悲鳴を上げているからです。ある注釈者はがこの「死への願望」について、「ヨナは、自分が神の神学的アドバイザーになったという思いあがりを砕かれて、自分の存在意義を失ったのだ」とコメントしています。興味深いものです。
 
5.ヨナの問題
 
 
・ヨナの当然:
こうした支離滅裂に見えるヨナの問題点は何だったのでしょうか。それは、4節の「あなたは当然のことのように怒るのか。」という主の言葉に表れています。ヨナが「当然」と考えていることと、主が「当然」と考えておられることの違いがあること、それだけではなく、ヨナが自分の「当然」を固執していること、そのぶつかりなのです。違いと言う角度からいいます。ヨナの当然とは、@神は厳しくあるべきだ、やたらに甘いのは神様らしくない(ああ、神様に指図するとは何たる思いあがりでしょうか);Aイスラエルは神の選民だから、イスラエルを助けるのが神の義務だ;Bニネベはイスラエルの敵だから滅ぼされるべきだ、と言ったものです。だからそのとおりに動かないのは理屈に合わない、従ってCニネベが助かるのなら、自分が怒るのは当然だ、とこう言うことになります。

・神の当然:
さて、神の当然は、@一人の滅びるのも、み旨ではない、Aイスラエルは神の選民だが、特別な贔屓はしない;Bニネベは確かに悪だが、悔い改めることによってその悪は帳消しにされる、と言うものでした。C「良く考えてご覧、この憐れみがあったからこそ、私はあなたを嵐から救ったのだよ」という神のメッセージが響いているように思えます。

・自分の当然を押し通すエゴ:
私たちも、自分の当然と思っていることが、主の御心に合わないということはいくらでもあります。私たちの理解は乏しく、ものの見方は狭く、自分の利害を中心にしか考えられない傾向を持っているからです。ただ、その先が問題です。ヨナは、自分の当然と神の当然が食い違っていることが分かったのに、自分の当然を押し通そうとしたのです。ヨナは、2章で書かれているように、魚のお腹で悔い改めたのではなかったでしょうか。3章で描かれているように、神の力を頂いて、素晴らしい働きをする伝道者ではなかったでしょうか。そうです。少なくとも1章のヨナではありません。しかし、しかし、です。ヨナの心の奥底に未だ「砕かれていないエゴ」があったのです。これが問題の核です。神の御心よりも自分の意志、神の方法よりも自分の方法、神のタイミングよりも自分のタイミングを主張するエゴがしっかり残っていたのです。ホリス・アボット博士は、「罪の本質は神に反逆する自己中心的な心」と定義しています。神よりも自己を主張するこの自己中心の牙城を自分の意志をもっておささげし、主の完全支配に委ねることが聖化の転機と呼ばれるものです。
 
6.その解決は
 
 
・聖霊によるきよめ:
実は、ペンテコステを前にした弟子たちの心にも、ヨナと共通した弱さと問題がしっかりと残っていました。それが解決されたのがペンテコステにおける聖霊の注ぎとそれに伴う心のきよめでありました。

・神の穏やかなお扱い:
ヨナの場合、神は、ヨナの自己中心と怒りとわがままを厳しく叱ることはなさいませんでした。むしろ、あなたが怒ることは正しいのか、私の立場に立って物事を考えてはくれまいか、と優しく語っておられます。ヨナが本当に自分は神の心より自分の心を押し通す頑固な人間だと自分で分かるまで、ゆっくりと時間をかけて彼の魂を扱ってくだいます。それが「とうごま」のエピソードです。これは次回に学びます。
 
終わりに:神に譲る柔らかさを
 
 
私の「当然」を、聖書において示される「神の当然」と比べる営みをしてみましょう。そこに食い違いが見えたならば、「私の当然」を「神の当然」に譲る心の柔らかさ、従順を言い表しましょう。
 
お祈りを致します。