礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年5月16日
 
「あなたの『とうごま』は?」
ヨナ書連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書4章5-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10   あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
(ヨナ4章10節)

 
聖書テキスト
 
 
5 ヨナは町から出て、町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
7 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
 
はじめに:ニネベの救いに抗議するヨナ(4:1-4)
 
 
ヨナの伝道の結果、ニネベは町全体が真実に悔い改め、近づいていた滅びから逃れる見通しが生まれました。これで喜ぶはずのヨナが大変不機嫌になり、神の憐れみに対して抗議をするという驚くようなリアクションを見ました。そこにヨナの偏狭な愛国心、自己中心的性格が現れましたが、そのヨナを扱う手段として神が用いなさったのが「とうごま」という植物です。今日は、とうごまの意味するもの、と言う角度から、4章後半を学んで行きます。
 
1.「とうごま」という植物(絵図参照)
 
 
・成長の早い潅木状の草:
6節に出てくる「とうごま」と言う植物は、ヘブル語ではクィクヮヨンです。漢字では「唐胡麻」です。聖書辞典によりますと中近東で至るところに生えている潅木状の草のことで、生長が極めて早く、大きくなって日影を作るのに十分の背丈になります。その実が南京虫と似ていることから、学名は南京虫の木(Ricinus communis L.)と言い、英語名はcastor-oil plant(ひまし油の木)と呼ばれています。

・ひまし油の元:
この英名のように、とうごまの実からは「ひまし油」が取られます。戦争中に日本でも沢山栽培され、ひまし油は飛行機用の潤滑油として使われました。木のように育つのですが、基本的には草ですから、虫が付くとたちまち枯れてしまいます。
 
2.とうごまを備え給う神の配慮(5-6節)
 
 
・神の配慮:
自分の考えが通らないからと不貞腐れているヨナを、叱るでもなく、裁くでもなく、主は忍耐をもって付き合ってくださいます。この自己中心のヨナに対して、「では、勝手にしろ」と放り出しても良かったのに、彼自身がその誤りを自分から気付くようにと、神は、荒療治ではなく、やさしい言葉と実物教訓を通して、彼の自覚を促す方法をもって語っておられます。その表れがとうごまを備えられたという配慮です。

・ヨナの小屋に日影が:
払う必要はないのに足の塵を払ってニネベの町を出て、町の東側に高見の見物を決めたヨナに対して、主は促成栽培のとうごまを備えなさいました。ヨナの建てた小屋は余りにも粗末で、日影の役を十分には果たせなかったからでしょう。この思いがけない日影を見て鬼瓦のようなヨナの表情が大いに和らぎました。一服の清涼剤に大いに喜んでいるヨナの姿が目に浮かぶようです。
 
3.とうごまが取り去られる(7-8節)
 
 
・虫と東風の備え:
この喜んでいるヨナに暗転が起きました。日除けにとうごまという素晴らしい贈り物を備えなさる神は、同時に根切り虫という嫌なものも「備え」なさるお方です。「翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。」私は、ケニアで色々野菜を育てましたが、根切り虫がうようよしていて、ずいぶんとやられましたので、ヨナの気持ちが分かります。そして、その日中、砂漠の熱を吹きつけてくるシロッコという猛烈な東風と直射日光の日照りも主は備えられました。神は、私たちを扱うための沢山の大道具・小道具を持っておられます。神はあるときはやさしく、あるときは厳しく私達を扱っておられます。私達にも主は今、環境を通し、聖言を通し、良心への促しを通してやさしく語っておられます。私たちの身の回りに起きるすべての出来事に神の目的があることを覚えましょう。

・わがままの露呈:
これによって、ヨナは大いに苦しみます。人間誰でも苦しい時は悲鳴を上げるものですが、ヨナの場合は実に極端です。先程の笑顔はどこへやら、「彼は衰え果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」(8節)。またまた死にたくなります。それどころか、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」と、怒りを顔一杯に現わします。誰に対して怒っているのでしょうか。主ご自身に対してです。主はまたまた優しく語られます。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」あなたは、また、「あなたの当然」を私に押し付けようとするのか、こんな小さな「とうごま」事件で、死ぬの生きるのを語るのは大袈裟に過ぎまいか、それほどまでにあなたはわがままなのか、それはおかしいとは思わないか、と主は問いかけておられるのです。実は、このとうごまの出来事によって、ヨナは自分が如何に自己中心の塊のような人間であり、同時に、神は、心底憐れみに富んでおられるお方かを嫌と言うほど悟るのです。
 
4.とうごまへのヨナの執着(9-10節)
 
 
・快適な環境:
とうごまに象徴されるヨナの人間性をもう少し考えましょう。それは、環境によって感情がものすごく左右される単純なメンタリティです。例えば、腹が減ったというだけで、いらいらし、八つ当たりするタイプの人もいます。そういう人は、おいしいものを腹一杯食べればその不機嫌が直るのです。寒いのが苦手、暑いのが苦手、それぞれの弱さがあり、それが解消されると今までの不機嫌は「今泣いたカラスがもう笑った」とばかりに、直ってしまうという非常に単純な因果関係がそこにあります。赤ちゃんや子供ならば、それでも良いでしょう。しかし、大の大人がこのような環境に左右されるメンタリティを持っているとすれば、殆どの人から信頼されません。蔦田二雄先生は、よく、平坦な(evenな)気持ちを持ち続けなさいよ、と伝道者の卵に語っておられました。ヨナは正にその反対例です。

・地上の喜び:
とうごまが枯れてしまって嘆き悲しむヨナに対して、主は10節で、「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。」と語りました。「とうごまの枯れたのを悲しむのは悪いことではない。でも、あなたの悲しみは、造園家が丹精籠めて育てた植物を枯らしてしまったものよりもはるかに小さいはずではないか。」という皮肉も入っています。とうごまがなくなった悲しみは、生命をいとおしむという気持ちからではなく、日影を失ったと言う全くあなたの勝手な都合から来た悲しみではないか。」という枕詞を述べた後、「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」と、とうごまが枯れてしまうのと、永遠的な価値を持った魂が滅びるのと、どっちが悲しいのか、とヨナに問うておられます。答えは明らかです。しかし、私たちはヨナを笑うことができましょうか。一方にスーダンで大量殺戮が行われているのに、平気で海を隔てたヨーロッパでは、お金をふんだんに使ってブランド物を買い漁るツアー客があります。その日その日の食べ物に困っている人々が何億といるのに、グルメと称して、不相応なお金を払ってご馳走を食べても心痛まない人々もいます。主の働きが進むよりも、巨人が勝つことの方が嬉しいというメンタリティを持つことがあります。大阪でしたら巨人ではなく阪神でしょうか。つまり、私たちの「とうごま」はブランド物であったり、おいしい食べ物であったり、スポーツであったりします。お断りしますが、こうしたものを持つことは罪ではありませんし、むしろ健全な娯楽であって私たちの生活を潤す良い効果をも持つものです。しかし、それらが、私たちの生き甲斐となって、神様よりも大事になったら、それは私達の「とうごま」です。
 
5.とうごまよりも大切な魂(11節)
 
 
・とうごまを取り去る神の知恵:
ヨナにとって、しばしの喜びの元となったとうごまが取り去られました。これは、私たちが計り知ることの出来ない神の知恵によります。神はこのような出来事をしばしば起こし、私たちに考える機会を与えなさいます。この悲しみを通して神は、愛する魂を失うことは、ヨナの悲しみよりも何千倍も大きいと語られるのです。

・ニネベへの神の愛:
ニネベとは、福音を必要としている民のことです。ニネベには、「右も左もわきまえない12万以上の人間」がいる、と主は語られます(11節)。この12万と言う数字は、@全人口を指す(全ての人々が霊的な暗きの下に閉じ込められている)、と解釈する人と、A子供達のみを指す(子どもの人口が12万なので、全市民は60−100万となる)、と解釈する人に分かれますが、いずれにしろ多くの人々が滅びてしまう、その痛みは、私の大いなる痛みなのだ、と主はおっしゃいます。神は造園家がその植物をあいするように、いや、それ以上に人々の魂を愛しておられます。そこに住む牛も羊も同様です。アッシリヤ人は確かに獰猛で、残酷だったかもしれません。それでも神の愛と関心の対象なのです。(これは、世界宣教の基礎となる大切な思想ですが、次回、これに焦点を当てて、ヨナの連講を終わります。)

・質問で終わる余韻:
主は「ヨナよ。あなたは、その発生と成長に何の関係もないとうごまの滅亡に悲しんでいる。あなたは、あなただけの、しかも短期間の楽しみの為に存在した移ろう植物のために不機嫌になっている。あなたの関心は、心地よい生活、あなたの名誉、あなたの国民の安寧、それだけではないか。それは余りにも自己中心というべきではないのか。私の目を持って人々を見、私の関心を持って人々を見てごらん。私が創造し、保っているニネベ市民の滅亡を私はどんなに悲しく思うことだろうか。私は一人の滅びるのをも願っていない、この大きな愛を感じないだろうか。あなたは私の愛を知識では持っている。それならば、どうしてその愛をあなたの愛としないのか。あなたの様な頑固なものをもこのように忍耐をもって扱っているではないか。」と語っておられます。この語りかけは、放蕩息子の帰還を喜ばなかった兄に対して、易しく語りかけた父のスピリットと同じです。ヨナ物語も、放蕩息子物語も、質問で終わっているところが、何か余韻を感じさせます。これにどう答えたか、読者たちよ考えてご覧、と言う風に終わっているのです。
 
おわりに
 
 
さて、この物語の最後に、質問いたします。あなたにとって「とうごま」とは何でしょうか。神よりも大切なもの、神を一番に愛する心を横道に反らすもの、心を探っていただきましょう。そして、それらの中心には、砕かれていないエゴがドーンと座っているのです。ヨナの心に巣食っていた頑固な自己中心は、十字架に現れた神の愛と、十字架で成し遂げられた贖いの恵みによってのみ砕かれます。自己への愛ではなく、神の愛に捉えられて(Uコリント5:14,15)主に仕えましょう。私たちがその告白をするときに、聖霊はそれを可能としてくださいます。
 
お祈りを致します。