礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年5月23日
 
「みなが聖霊に満たされ」
五旬節に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
民数記11章26-29節、使徒の働き2章1-4節
 
 
[中心聖句]
 
  29   主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。
(民数記11章29節)

  4   すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
(使徒2章4節)

 
聖書テキスト
 
 
(民数記11章)
26 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。――彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。――彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。27 それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で恍惚状態で預言しています。」28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」29 しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。

(使徒2章)
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
 
はじめに:暦のペンテコステ
 
 
4月4日の復活節(イースター)を祝いましてから7週間経ちました。イスラエルの暦では復活節は、彼らの三大祭である過越の祭りの最終安息日の翌日に当たります。その日から50日目に当たるこの日は、ペンテコステ(五旬節、または7週の祝い)と呼ばれ、大麦の収穫を祝う祭りでありました(それを下記の図で表しました)。

その時に重なるように、祈り待ち望んでいたキリストの弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生いたしました。今日は、ペンテコステの出来事の中心である聖霊の満たしについて、そのはるか前の予言も含めてお話いたします。
 
A.聖霊の満たしは、モーセの祈り
 
1.祈りの背景:「はみ出し」長老をどう扱うか
 
 
聖霊の注ぎについて、言及した一番最初の人物がモーセです。ペンテコステの1400年も前のことです。モーセは、自分の抱えている指導者としての重責にたえかねて、主に訴えを行いました時に、主は70人の長老を選び、モーセの上にあった霊の幾分かをもって、重荷を分かち合うこと、つまり、同じスピリットと同じ重荷を持って民の指導に当たることを許しなさいました(17節)。彼等はモーセのいる幕屋において預言を行った、つまり、神を賛美し、神の言葉を代弁したのです(24−25節)。しかし、その幕屋にいなかったエルダデとメダデと言う二人は、70人の長老の中に入ってはいましたが、テントには来ませんでした。彼らが幕屋の外で預言します。二人の問題は、預言活動を、時ならぬ時に、また定められた場所でない所で行った点にありました。そこに秩序違反の空気を感じ取ったモーセの従者ヨシュアが、モーセにご注進に及ぶのですが、それに対するモーセの答えがこの言葉です。
 
2.祈りの内容@:万民が預言者になるように
 
 
モーセの祈りは二つの部分から成り立っていますが、実質的には同じことを指しています。その第一は、「主の民がみな、預言者となればよいのに」と言う祈りです。この部分の強調点は、「みな」と言う言葉です。モーセは、神の賜物(カリスマ)を独占して権威を維持しようなどと言う小さな考えは毛頭持っていませんでした。全ての人に神の霊が注がれて、全ての人が預言をするように(神の御心を知り、それを伝達するように)と純粋に願いました。預言活動を始めた二人の人間の働きを止めさせようとするヨシュアの進言に対して、モーセは、神の業をそんな風に人間が制限するものではない、もっと寛い心で神の業を受け入れようというスピリットを示しました。これはプロテスタントの基本である霊的平等主義とも共通の思想です。霊的な平等主義とは、神によって定められた秩序の維持の為に、社会的な上下関係は避けられないと認めつつも、人は神の前には本質的には平等であり、霊的に上とか下はない、というものです。モーセの祈った万人預言者主義は、プロテスタント教会の大切な柱の一つである「万人祭司」に通じるものです。
 
3.祈りの内容A:万民に聖霊が与えられるように
 
 
「主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と言う祈りは、先の祈りを補っています。預言をするという事は、神の御心を知り、その御心を語ることです。そうするためには、生まれつきのままの性質を持ったままでは不可能です。イスラエルの民は、癒し難い程自己中心的でしかも反抗的でした。その彼らが預言者となるということは、彼らの心の改変を意味しました。一人一人が神を知り、神の御心を求め、御心を語るようになれば、モーセの苦痛はなくなるどころか喜びと変貌することでしょう。そうするために、神がご自分の霊(つまり、聖霊のこと)を与えなさるように願ったのです。この祈りは、残念ながらモーセの在世中には実現しませんでしたが、遠くペンテコステで成就しました。そして、そのためにモーセから始まってイザヤも、エゼキエルも、ヨエルなどをはじめ多くの預言者がこのことへの期待を表しました。さらに、主イエスも、十字架の前夜、ご自身はいなくなるけれども、聖霊がより近くご自身を示すお方として与えられることを約束されました。昇天直前には、エルサレムを離れないで、熱心な祈りをもってこのお方を待ち望むようにと命じなさいました。それらの期待が成就する日として、ペンテコステが選ばれたわけなのです。
 
B.ペンテコステで実現した
 
1.弟子達は聖霊に満たされた
 
 
ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が注がれ、彼等は主の聖言を大胆に語りはじめました。使徒と言わず、執事と言わず、何の肩書きもない信者も主の福音の言葉を語った(使徒2:4、18、4:31、8:15-17、11:15-16)のです。恐れは平安に、臆病は大胆に、自己中心が愛中心に変えられました。それだけでなく、彼らの日々の生活において、継続的な臨在と、助けと、慰めと、知恵とが与えられました。
 
2.聖霊に満たされるとは
 
 
コップに水を満たすと言うような意味で、物質的な類比は適当ではありません。聖霊は人格を持ち給う、人間も人格を持っています。二つの人格が互いに心を開き、わだかまりの無い影響を持つ状況を指します。聖書の「満たす」という表現は、「心を全く支配してしまうもの」という文脈で使われています。聖霊に満たされるとは、アボット博士によると、「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」と定義されます。

・〔人間の側〕完全な明け渡しによって自分自身を聖霊の感化に委ねることです。そもそも、私たちが霊的な存在として生きているのは、すべて聖霊のお働きによります。神を認めるのも、良き生活を生きようと願うことも、神に従って生きる願いも、皆聖霊のお働きです。ですから、私たちは皆聖霊の感化の下にあります。ただ、聖霊は人格を持ち給い、私たち一人一人の人格を尊重なさるお方ですから、私たちの願いを踏み躙ってまで支配なさる暴君ではありません。私たちが神の御心よりも自分の生き方を主張する時、神は反対されずに譲りなさいます。しかし、その状況を悲しんでおられます。しかし、聖霊のお働きに全てを譲る時、聖霊は喜んで私たちを満たしてくださいます。

・〔聖霊の側〕そのすべての助力、聖さ、愛を私たちに注いで、私たちを力ある奉仕者に作り変え、聖徒としての品性を造りあげ、キリストに似た姿に私たちを変えてくださることです。ジョン・オズワルトを引用します。「聖霊が私たちを満たす時、神は私たちに対して、また私たちを通してご自身の特質と意思を伝えようと願っておられることです。」これらは一気に起きることではありませんが、聖霊の間断ないお働きの結果・成果として起きることです。チャドイックの「聖霊経験の豊かさ」を引用します。「聖霊は、ペンテコステの時点において、それ以前とは全く違った意味合いで降られたといえるでしょう。・・・それは満ちあふれるほどの充満という形態においてでした。・・・宇宙の秩序の中で、重大な何事かが起きたのです。新たな力とより拡大された可能性をもって、もはや量ることなしに無限に(ヨハネ3:34)神の霊が注がれる日が来るというのです。」弟子達は「御霊が話させてくださるとおりに」語り始めました。聖霊が主導権をもって私達の発言を導くことは、主イエスも予言しておられます。「あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:18-20)聖霊が私達の発言においても、主導権を取りなさることは大きな励ましです。
 
C.聖霊に満たされるには
 
1.真実な求めと祈り
 
 
「みなが一つ所に集まって」と使徒2:1が記しています。そこには一致のスピリットが伺えます。喧嘩しながら一緒にはいられませんね。弟子達は、主がご昇天なさってから、文字通りエルサレムを離れないで、聖霊の与えられるお約束の実現を待ち望みました。その数はおよそ120でした。11弟子はもちろん、マグダラのマリヤそのほかの女弟子たち、イエスの母のマリヤ、イエスの兄弟たち、その他の弟子たちの大集団でした。その大変な状況で、10日間祈り続けた訳です。そこには互いの告白があり、互いの赦し合いがありました。私達が祈りに集中しますと、一体感が生まれます。一体的な祈りは聞かれます。地において二人のものが心を合わせて祈る時、天にいます父なる神はこれを聞いてくださるからです(マタイ18:19)。
 
2.明け渡しと信仰
 
 
私たちが握っている人生の主導権を、聖霊にお譲りすることです。アボット博士を再び引用します。「満たしの時とは、人生の支配権が全く神に明け渡されるその時です。キリストが心の玉座を占めなければなりません。」自分が王座から降りて、キリストにその座を譲ることです。さらに、その明け渡しが完全になされたならば、主のみ業がなされたと信じて受け止めることが大切です。何かの感情的な高まりとか、幻とかを求めがちなものですが、それらは大切な要件ではありません。ただ信じおゆだねするときに、主はしっかり受け取ってくださいます。主に全面的に委ねる信仰、これが最後の鍵です。
 
終わりに
 
 
今日、この時代における私の祈りは、皆が聖霊に満たされ、福音の言葉を携えて社会で、家庭で輝く証人となることです。この方の語り掛けに敏感であるか、または無関心であるか、それによって私達のあり方が大きく違ってまいります。どうか、聖霊に満たされ、導かれ、支えられ、用いられる器となるよう祈りましょう。
 
お祈りを致します。