礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年5月30日
 
「御霊による歩み」
ペンテコステを超えて
 
竿代 照夫 牧師
 
ガラテヤ5章16-26節
 
 
[中心聖句]
 
  16,25   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。・・・もし私達が御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
(ガラテヤ5章16,25節)


 
聖書テキスト
 
 
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
 
はじめに
 
 
昨週はペンテコステ聖日でした。聖霊に満たされた弟子達の経験の核心は何であったかということについて、礼拝でも、また、午後の聖別会でも語りました。一人ひとり真実な明け渡しをもって応答なさったことと信じます。さて、今日はペンテコステ後の講壇として、そのような明け渡しと満たしとの後にとるべき心の態度について、ガラテヤ5章から学びたいと思います。特に注目したいのは、16節と25節です。16節は個人的な日常生活、25節はより共同的な教会生活において、御霊によって歩むべきであることを勧めています。
 
A.御霊によって歩む個人(16節)
 
 
16節を読みましょう。
 
「16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
 
この御霊によって歩むとは、聖霊の感化と導きに沿って日常生活を送ることです。「御霊による歩み」という古典的な著書において、A.B.シンプソンは「御霊による歩みとは、私たちの全生命(霊と心と体)のために、聖霊により頼む習慣の持続である」と説明しています。とても分かり易い定義であると思います。
 
1.「歩む」:御霊に導かれる日常生活
 
 
聖書で、しばしば「神と歩む」とか、「主と共に歩む」と言う表現がありますが、それは文字通りの散歩を意味していないことはお分かりでしょう。これは日常生活を送ると言うことの比喩的表現です。つまり、毎日起きて、食べて、働いて、しゃべって、寝てという何の変哲も無い毎日の生活の中で、御霊のご臨在とお導きを意識して、それに従いつつ歩むと言うことです。彼をご人格として認め奉り、そのお方と物語り、そのお方の声を聞きつつ従うという、いわば、sensitiveな感覚をもって、従っていくと言うことです。
 
2.「御霊によって」:感化と指導を受けながら
 
 
この「よって」(in spirit=pneumati)とは、「御霊にあって」という意味よりも強い「御霊に頼って」との意味です。もっと言えば、彼の感化と指導とに従ってとの意味です(16,25節)。そのために私たちの取るべき姿勢をシンプソンは次の5つの項目で述べています。

@御霊を認識する:
私たちは、いかにしばしば、御霊を遠くにおられるお方のように叫ぶことでしょう。彼は既に友として内におられるのです。そのように話しかけましょう。

A御霊に信頼して依り頼む:
聖霊はパラクレートスとして、どんな期待にも喜んで応えようと待ち構えておられます。そのことを忘れると、私たちは祈ることは祈っても、絶望の呻きをもって訴えるばかりとなってしまいます。モーセがカナンの国に入りそこなったのは、彼のいらいらの故でした。主はそばの岩に静かに命じなさいとおっしゃったのに、モーセはそれを期待する代わりに、苛立ちと不信仰をもって岩を激しく打ったために、(水は出てきたものの)神の愛と真実さを証しすることに失敗したのです。

B聖霊に相談する:
表面的に易しい事柄を処理する時も、まして、難しい問題にぶつかる時も、聖霊に相談しましょう。箴言にも「自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言 3:7)と記されています。聖霊の導きに信頼し、事毎に相談しましょう。

C聖霊に従う:
私たちが静まって、神のみ旨とお導きにすべてを明け渡した心をもって神に会うならば、その次のステップはそれに従うことです。特に、御言に日々接し、その中に主の見こころを探り、それに自分を当てはめて従う態度は、クリスチャン生活の必須条件です。

D聖霊と歩調を揃えて歩む:
主の指差しに遅れないように、早まらないように、逸れないように、瞬間々々、彼の歩調を感じながら、それに自分の歩みをあわせることを努めましょう。これを身につけるためには良心の柔らかさ、敏感さを必要とします。横山文子先生が先々週、証ししてくださいました。先生のお姉さんが、横山先生が奉仕しておられた開拓間も無い下田教会を訪問くださると知らせを聞いたのです。横山先生は、こんなみすぼらしいところに迎えることが恥ずかしいと言う気持ちから、別な言い訳を言って訪問を断りました。しかし、主が先生の動機を探りなさったと言う話しです。私はその昔の会堂の様子を知っていますから先生の気持ちは良く分かります。また、先生の使った言い訳も事実ですから、先生は嘘をついたのではありません。でも、主は先生の動機を探りなさったのです。聖霊と歩調を合わせるとは、単純に言えば、彼の喜び給わぬ道を歩まないと言うことです。彼の喜びを喜びとすることです。私たちのやり口や行動が彼を喜ばせないと分かったら、単純に、決然とそれを止める素直さを持ちたいものです。
 
3.「そうすれば、決して」:御霊によって歩む結果
 
 
・罪の欲望に勝利:
16節後半は「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」と続きます。御霊に導かれる信仰生活は、肉の欲望からの釈放を意味します。「肉の欲望を満足させることがない」とは、肉体を持って居る故に起きる自然の本能がなくなることではなく、罪に導く欲求を克服することです。「聖霊に満たされた」人でも、再び罪の中に陥る可能性はあります。ですから、ある時満たされただけでなく、満たされ続け、罪に打ち勝ち続ける生涯を歩むべきです。

・律法主義からの解放:
18節は、御霊の働きを優先させるならば律法主義的行き方からも解放されると語ります。「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」律法主義と放縦は形こそ違いますが根っこは同じ「肉」です(ガラテヤ3:2-6)。神によらない人間性は、ある時には勤行主義に表われ、別な時には放縦に表われます。キリスト教は、do notやdoの寄せ集めではありません。クリスチャンの中にも「クリスチャンだからこうしなければ、ああしなければ。」というガンバリズムが信仰生活だと思っている人が案外多いのです。これでは全く窮屈です。御霊のある所に自由があります(Uコリント3:17)。御霊による歩みは、ガンバリズムから私達を解放して、しかも頑張りによって達成出来ない律法の真髄を達成させるのです。
 
B.御霊によって進む共同体 (25節)
 
 
「25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
 
1.「御霊によって生きるならば」:御霊による歩みの前提
 
 
@聖霊による新生:
「生きる」とは「生かされている、命が与えられている」との意味です。「御霊によって、霊的に死んだ状態にあった生涯から、神に対して活かされた状態となった、つまり、イエス様を信じてクリスチャンとなったならば、その事実がはっきりしているのなら、私達を活かして下さった御霊に導かれて一緒に歩もうではないか」と言っているのです。人間が創造された時、神の霊を吹き入れられることによって「生けるもの」となったように、罪と咎の中に死んでいた私達に御霊が吹き込まれて、生きるものとなったのです(エペソ2:1「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者・・・しかし、あわれみ豊かな神は・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」)。更にガラテヤ3:2、3には「御霊によって生きる」とは、御霊が与えられることだと言っています。要約すれば、救われた時に御霊は信じる者の心に与えられているのです。もしこのことが不確かであれば、そこから始めねばなりません。

Aより深い十字架経験:
24節には、「情欲や欲望と共に肉を十字架に付ける」ことと記されています。これは、人間としての自然の欲望を罪悪視して、それをタブー扱いし、それを押し殺すことではありません。欲望は神の創造になるもので、美しく豊かな人生の一部です。問題は、欲望を第一にすること、正しい道でなくそれを満たそうとすることなのです。肉性とは、神を離れた人間性の事で、罪とも言い換えられます。罪をキリストとともに十字架につけた経験は、全てのクリスチャンの立場です。しかしその立場がリアリティとならなければなりません。それを齎すのは一重に信仰によってです。ローマ6:11の計算する信仰がそれを齎すのです。
 
2.「御霊に導かれて」
 
 
互いの人間関係を律するものとして、聖霊の導きが私にも、他の人々にも豊かに与えられるように祈ることは当然です。25節の「導き」と言う言葉は原語には無く、単にpneumati(御霊によって)ですが、導かれてと訳したのは良い訳であると思います。
 
3.「進む」:隊列を作って行進する
 
 
25節の「進む」(stoichoomen)は「歩む」とは違って、軍隊で列を作って行進するという意味です。御霊による歩みは、個人的な営みであることは勿論ですが、それと共に、教会として共同的なものでもあります。潔めの歩みが個人の内面的な生活に限定されていて、クリスチャン同士の人間関係をどう開発するかを充分解明しませんと、きよめられたはずのクリスチャン同士で抜き差しならない緊張関係が生まれてしまいます。それを防ぐのが、互いに歩調を合わせて行進するという互いへの気遣いです。相互の魂への関心を持ち、相共に御国の旅路を進むことを励ましあいたいと思います。それが次の諸節で具体的に示されます。

@互いに尊敬する(26節):
異なる賜物を持ったお互いに対する心からの尊敬がありませんと、「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走って」しまいます。

A互いに謙遜と愛をもって警告する(6:1):
もっと大切なのは、謙遜と愛をもって忠告することです。もちろん、陰での批判を慎むことが一番大切です。私は何度も講壇からこのメッセージを伝えていますが、陰の批判や噂話が完全には消えてはいないのではないかと心配しています。ウェスレーは、「噂話について」(On Evil Speaking)と言う説教で、ある人が存在していない場所で、その人を批判することは最も卑怯で、最も反クリスチャン的精神だと断定しています。噂話は、してもいけないし、聞いてもいけないし、まして、伝えて歩いてもいけません。もし、ある人の問題点を見たならば、十分な祈りの後、直接1対1で、最大限の柔和と謙遜をもって、できるだけわかりやすい言葉で忠告をしましょう。彼が聞き入れなければ、2、3人の長老と共に同じ勧告をする、それでも聞き入れなければ、然るべき方法で懲戒をする、これが教会的・聖書的方法です。それ以外の方法を聖書は示していません。直接言ったら人間関係が壊れると心配して何も言わない、と言うのも一つの方法かもしれません。でも、隣人への愛は、真実な勧告となって現れるはずです。私達は、同じ教会に属するものとして、もっと率直に互いの問題点を言い合う雰囲気を育てねばなりません。

B互いの重荷を負う(6:2):
互いに忠告するだけでなく、親身になって、互いの弱さ、辛さ、悲しさを担い合うものとなりましょう。祈りにおいて、実際の助け合いによって・・・。
 
4.“Let us”スピリット
 
 
パウロはこの勧めを命令としてではなく、さあ、そうしましょう、という語りかけの形で示しています。これって素晴らしいことですね。主もまた、「どう思いますか、やりましょう。」という形で私達に語っていてくださいます。私達はどう答えましょうか。
 
C.御霊による歩みの結果:麗しい御霊の実
 
 
それは、キリストのような麗しい品性の実を結ぶことです。御霊の実とは、キリストの持っておられた麗しい品性のことです。詳述は避けて、以下の9つについて、その反対概念との比較を述べます。

@憎しみvs愛;A悲しみvs喜び;B思い煩いvs平安

C短気vs忍耐;D意地悪vs親切;E邪悪vs善良

F疑いvs誠実;G暴虐vs柔和;Hでたらめvs節制
 
おわりに
 
 
もう一度、16節と25節を読みましょう。そして、

1.個人として:御霊に頼る日常生活を歩もうではありませんか。また、

2.共同体として:御霊に導かれた相互建徳を求めようではありませんか。

 
お祈りを致します。