礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年6月6日
 
「御霊の実を結ぶ」
ペンテコステを超えて(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
ガラテヤ5章16-23節
 
 
[中心聖句]
 
  22,23   御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
(ガラテヤ5章22-23節)


 
聖書テキスト
 
 
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。 18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
 
はじめに
 
 
昨週は、「御霊によって歩む」というテーマを取り上げました。「御霊によって歩む」とは、「私たちの全生命(霊と心と体)のために、聖霊により頼む習慣の持続」です。具体的には、@御霊を認識する;A御霊に信頼して依り頼む;B聖霊に相談する;C聖霊に従う;D聖霊と歩調を揃えて歩む、と言うポイントをお話ししました。その結果は、22-23節の「御霊の実」と呼ばれる性質です。

これについて、セルフテスト(自己採点)をして見ましょう。御霊の実として知られている9つの項目を見て、どんな思いをされますか。ご自分でチェックしてみてください。

a.これらの9つの徳目について、どんな感想を持ちますか

□良いことばかり書いてあって賛成だが、魅力は無い
□私はクリスチャンになってから、相当程度ここに到達した
□いくつかはできているが、出来ていない項目が多い
□これは、永遠の目標であって、この地上では達成できない 

b. 自分自身を顧みて、どの程度これらをもっているかを自己採点してみましょう。

1.十分持っているように思う
2.まあまあ、持っている
3.普通と思う
4.足らないと思う
5.ものすごく欠けている

愛( )、喜び( )、平安( )、忍耐( )、親切( )、善意( )、信実( )、柔和( )、自制( )

さて、今の感想を持ったまま、このガラテヤ5章が「御霊の実」として強調していることは何かをしっかりと捕らえたいと思います。
 
1.肉の行いと対照的(16節)
 
 
19-20節は、肉(神を離れたものとしての人間性)が現れる行いは、性的な不潔、神ならぬものへの礼拝、互いの争いと憎しみ、放縦な生活であり、それらは、神の国に全く相応しくないことを強調します。それとの対比で、御霊によって歩む歩みの齎す自然的な結実としてキリスト者の中に生まれてくるものを「御霊の実」と呼んでいます。
 
2.御霊との親密な歩みの結果
 
 
先ほどのテストで厳しい結果を貰った方(いや、私たち全員)失望することはありません。これは、生まれつき持っている(持っていない)性質とは関わりありません。私たちの内に注がれている御霊が生み出す新しい性質なのです。その意味で「御霊の実」なのです。努力の結果でもありません。御霊との関係によって(いわば自然に)生み出される新しい性質なのです。譬えが100%相応しいかどうかは分かりませんが、結婚したカップルが、愛し合い、尊敬しあって生活をしていると、互いの影響によって、物の考え方が似てくるように、私たちが聖霊と近く、親しく歩んでいると、知らず知らずのうちにその性質の感化を受けるのです。(勿論、私の感化によって聖霊様が変わるという事はありえませんが・・・)。
 
3. 9つの実は一体的(イラスト@)
 
 
肉の行い(現れ)は複数ですが、御霊の実は単数です。つまり、果物といっても、バナナ、りんご、キウィ、グレープフルーツ、オレンジ、グワバ、マンゴ、パパイヤと言う風に、果物屋さんに並んだ9種類の果物と言っているのではなく、一本のぶどうの木から生っている、一房のぶどうの実、しかし、少しずつ色合いの異なる実のことです。アボット博士の本の中で、この9つの実を、愛を基本と捉えて説明していて興味深く感じました。

喜び:歌っている愛
平安:憩っている愛
忍耐:持ちこたえる愛(ギリシャ語の「マクロトュミア」は、寛容とよりも、忍耐と訳したほうが良いと私は考えます)
親切:分かち合う愛
善意:愛の完全さ
信実:習慣となった愛(「ピスティス」も誠実というよりも、信じより頼む気持ちと言う信実と訳したいと思います)
柔和:愛の触れ合い
自制:責任感を伴う愛
 
4.麗わしい諸性質(イラストA)
 
 
「このようなものを禁ずる律法はありません。」と否定的な文章ですが、これを肯定文に変えると、「これらのものはとても素晴らしい慕わしい諸性質です」と言い換えられます。サムエル・チャドイックは「聖霊経験の豊かさ」の中で以下のように説明しています。それを一層クリアに理解するために、反対概念も合わせて記しました。

@愛:愛情に溢れているさまvs憎しみ
A喜び:晴れやかな精神と快活な気質vs悲しみ
B平安:穏やかな心と落ち着いた物腰:vs思い煩い
C忍耐:腹立たしさを感じずにはいられないような環境や、悩みの下でもなお失われない寛容さと忍耐強さvs短気
D親切:思いやりに満ちた洞察と機転に富んだ助けの手vs意地悪
E善良:物事を何時でも寛大に判断したり、大らかにあたたかく見ようとする心vs邪悪
F信実:どんな事情の中でも誠実であり信頼できる姿勢vs疑い
G柔和:他の人が喜ぶことができるなら自分の利己的な思いを放棄しようという謙りvs暴虐
H節制:これらの品性の最終的な完成のしるしとなる全てのことに関する自制心や克己心vsでたらめ

更に、これを三つずつに分けて解説する人もいます。(イラストB)

a. 愛、喜び、平安:神に向かった魂の営み
b. 忍耐、親切、善良:人に向かう態度
c. 信実、柔和、節制:自分を律する態度

神に対しても、人に対しても、自分に対しても、これが人間のあるべき姿だという方向がはっきりと示されています。
 
5.キリストらしさ
 
 
もっと言いますと、これら9つの特質は、正にイエス・キリストの中に具現されていたものです。(イラストC)

@主イエスは全き愛の人でした。敵をも愛する愛に満ちておられました。
A聖霊による喜びに満たされていた人でした。
B嵐に揺られていた舟の中でも、静かに眠っておられる平安の人でした。
C十字架の痛み、人々の嘲りの中を忍耐によって持ちこたえました。
D人々の弱さ、病を担い、ご自分の全てを分かち合ってくださいました。
E十字架に釘付けした兵士達のために、その赦しを祈った愛の人でした。
Fラザロが死んで四日も経ったのに、その復活に関して、み父の最善を絶対的に信じてておられました。
G「私は心低く、柔和であって」とおっしゃり、最後の晩餐の席で洗足と言う形で実践されました。
H多くの活動で疲れ切ってしまったその翌朝も、早く起きて祈りに打ち込みなさいました。

御霊との歩みの中に私たちはキリストらしく造りかえられます。
 
6.努力の結果ではない
 
 
最初にテストしておいて、こんな言い方は無いかもしれませんが、この9つの徳目によって、私たちは不必要に自分を責めたり、誉めたりしなくても良いのです。また、してはいけないのです。私たちは「まだ、だめだ、だめだ」と自分を責め続けると不信仰に陥ります。反対に、私たちはこんな風に成長した、と意識しすぎると、傲慢の罪に陥ります。つまり、これを努力目標とするのではなく、意識しすぎるのでもなく、そんなことは主に委ねて、私たちはただ、御霊により縋り、御霊に従いつつ歩むことだけに集中すべきなのです。この9つの実は、その結果であって、努力の目標でもありません。どの果物が、一生懸命よい実を結ばせようと汗を流しながら努力していますか。果物は、ちゃんと木にくっついていればそれで自然に実が実ります。時間が掛かるのです。皆さんが未信者の家族に、「お前はそれでもクリスチャンか」と欠点をあげつらわれても、がっかりすることはありません。もしその指摘が本当ならば、単純に「ご指摘を感謝します。こんなダメ人間だからこそ、私はクリスチャンをやっているのです。イエス様が段々よくしてくださると思いますから、もう暫く見ていてください。」と謙っていえばそれで十分です。
 
7.キリストの証しのため
 
 
そうは言いながらも、キリストの麗しさを私たちの生活、性格を通して証し出来れば、こんなに嬉しいことはありませんね。もしも、誰かに、「あなたは変わったね。」と良い意味で(決して、「おかしくなったね」と言う意味でなく、誉め言葉として)言われるとすれば、ただ謙って、「みんな、イエス様のお陰です。」と栄光を主にお返ししましょう。
 
終わりに
 
 
 私たちは、御霊の実という素晴らしい約束を与えられていることを感謝しましょう。そして、ひたすら、御霊と共に歩むその歩みを地道に続けましょう。
 
お祈りを致します。