礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年6月13日
 
「私にとって『ニネベ』とは?」
ヨナ書連講(10)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨナ書4章5-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10   まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。
(ヨナ4章10節)


 
聖書テキスト
 
 
5 ヨナは町から出て、町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
7 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
 
はじめに
 
 
ペンテコステの節期、3週間ほどヨナから離れましたが、今日と来週、ヨナに戻って、本書を締め括りたいと思います。前回は、ヨナがその日影を楽しんだ「とうごま」という植物から、「とうごまの意味するもの」と言うテーマで、私たちが大切に思っているものは何だろうかと心を探って頂きました。今日は、主が大切に思っておられるものは何だろうかと言う角度から同じ箇所を学びます。
 
1.「とうごま」の意味するもの(先回の復習)
 
 
9節を読みましょう。「すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」

・とうごまの備え:
「とうごま」という植物については、絵図をご参照下さい(イラスト@)。ニネベの東にある丘の上に陣取って、町がどのようになっていくか高みの見物を決め込んだヨナに対して、主は促成栽培のとうごまを備え日影を与えなさいました。このとうごまによってヨナは大いに喜びました。

・虫と東風の備え:
ところが翌日の夜明けに、主は一匹の虫を備えられました。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れたのです。さあ大変、昇ってきた太陽と、砂漠から吹き寄せてくる東風によって、ヨナは大いに苦しみます。昨日までの笑顔はどこへやら、「彼は衰え果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」(8節)。ヨナは、またまた死にたくなります。それどころか、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」と、怒りを顔一杯に現わします。

・とうごまの意味するもの:
なくなってしまったとうごまによって、ヨナが固執していたものが何であったかが浮き彫りにされました。快適な環境、自分の趣味、財産、スポーツそのほか何であれ、神の喜び(または、神を喜ぶ喜び)以上に私が喜ぶ対象のすべてが、私の「とうごま」です。私に取ってとうごまは何か、という語り掛けで先回の学びを終えました。
 
2.とうごまとニネベを比べると
 
 
「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」と主は語られます。つまり、とうごまが枯れてしまうのと、永遠的な価値を持った魂が滅びるのと、どっちが悲しいのか、とヨナに問うておられます。ヨナととうごま、神とニネベという関わりを下記の表にしました。

・世話をかけない/かけた:
片方は、ヨナが種も蒔かず、水もやらないで、つまり、何のケアもしないで自然に育ったとうごまです。他方は、神が造園業者以上のケアをもってご自分の形に似せて造られた魂、一人の滅びるのも望まないで、悔い改めに至ることを待っておられる魂です。そのケアは、人間だけでなく、そこにいる家畜にまで及ぶ広い愛です。

・対象との人格的な交わりがない/ある:
片方は、神と人格的な交流を持ち得ない植物でありますが、他方は、神との人格的な交わりを持ちうる人間です。

・取り替えがきく/きかない:
片方は、枯れてしまっても、また種を蒔けば育つ、いわば代りの利く存在、他方は滅びてしまえば永遠の裁きを受けねばならない、いわばかけがえのない魂です。

・失う悲しみは一時的/永遠的:
ヨナの悲しみは一時的なものでした。しかし、ニネベを失う神の痛みは永遠的でした。「神は・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Uペテロ3:9)。

・悲しみの動機は利己的/愛:
ヨナの悲しみの動機は、自分の日影がなくなったという正に利己的なものでした。しかし、主の悲しみは、ニネベの民を愛する愛と同情からのものでした。主イエスも「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)お方です。
 
3.神の愛の大きさ
 
 
・神の愛はニネベを覆う:
ニネベとは、福音を必要としている民のことです。ニネベには、「右も左もわきまえない12万以上の人間」がいる、と主は語られます(11節)。この12万と言う数字は、@全人口を指す(全ての人々が霊的な暗きの下に閉じ込められている)、と解釈する人と、A子供達のみを指す(子どもの人口が12万なので、全市民は60−100万となる)、と解釈する人に分かれますが、私は後者の解釈が自然と考えます。というのは、申命記1:39に「幼子、すなわち、善も悪も弁えない・・・」という表現があるからです。いずれにしても、神は造園家がその植物を愛するように、いや、それ以上に人々の魂を愛しておられます。現実を見ると、アッシリヤ人は確かに獰猛で、残酷な民族として知られていました。その事実を無視はできません。しかし、そんな人々でも、滅びてしまうことは神の痛みでした。このことから神の愛の大きさを学びます。

・神の愛は世界の民に及ぶ:
イスラエルは、特別に選ばれた神の民でしたが、選ばれた理由は威張るためでもなく、自国中心主義に凝り固まるためではなく、神の恵みを多くの周りの人々に注ぐためでした。ヨナがそうした神中心の物の味方を会得するためには、物凄い発想の転換を必要としました。実は、その発想の転換こそがヨナ書の中心的メッセージだったのです。狭い選民意識・排他的な愛国心を脱却して、世界の民の祝福となるように、そのための宣教運動を生み出す基本的な理念とビジョンが、ヨナ書の締めくくりです。

・神の愛は「悪人」に及ぶ:
神がニネベを愛し給う、ということはものすごい強烈なメッセージを私達に与えます。通常、学校の先生も親も、「良い子」を可愛がり、「良い子」に目をかけると言うのが定番です。しかし、神は「獰猛で、残酷な民族」として知られていたアッシリヤ人・ニネベ人を愛しておられました。彼らの悪を厳しく譴責しつつも尚(1:2)、彼らの滅びを痛むウォームハートを持っておられました。彼らの救いをこの上なく喜ぶハートを持っておられました。それは、一人の取税人、一人の遊女の悔い改めを心から喜びなさった主イエスのお気持ちと共通です。主イエスと対照的なのがパリサイ人です。イエスの周りに多くの取税人・遊女が集まるのを見て、彼らは「このグループは、何と品のないグループなのだろうか。このグループの大将が神の子なんて、とても言えた義理ではない。」と批判しました(ルカ15:2)。それに対する答えが「放蕩息子」の例え話でした。あそこに出てくる兄息子の冷たい発言と行動が、パリサイ人のそれと同じではないか、と主は語っておられます。パウロは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)と語りました。この神の広大なご愛がなかったなら、私はどうなっていたのだろうかと思うと、本当に感謝に溢れます。

・神の愛は幼子に及ぶ:
「右も左も弁えない」という言葉が幼子を指すと言う解釈の根拠を先ほど説明しました。神は格別に幼子を愛しておられます。残虐をもって鳴る大人たちをも愛される神は、まして、頑是無い幼子を愛しておられます。主イエスのご生涯でもそれは何度も繰り返し表明されました。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19:14)

・神の愛は動物たちにも及ぶ:
11節の言葉には、「数多くの家畜とがいる」と言及されています。人間だけが大切で、動物は無視されているというのではありません。詩篇 145:9には、「主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」と記されています。ですから、断食も悔い改めの命令も、家畜にまで及びました。また、神は一羽の雀でも、そのみ許し無しに地に落ちることは無いと(マタイ10:29)おっしゃり、雀さえもケアしてくださるお方です。東京の雀は最近少なくなっているそうで、それは家屋の建て方が隙間なく出来ていて、雀が巣を造るのに困難を覚えるようになってきたからだそうです。神はどんなお気持ちで東京の雀を見ておられることでしょうか。私達も、神ご自身が持っておられる優しさをもって環境問題に取組みたいと思います。
 
4.私にとってのニネベは
 
 
ヨナは、彼が夢にも思っても見なかった敵国への伝道、滅ぼすべき悪の帝国に対する神の愛をニネベ伝道から学びました。彼は、自分の狭い愛国心、自己中心主義を鋭く抉られ、神の愛に溶かされました。さて、私に取ってのニネベとは何でしょうか。誰のことでしょうか。一ついえることは、私たちが想像もしていないような人々が、私たちにとってニネベであると言うことです。この人は救いに近そうだという人々ではなく、この人は救いからは遠い、とても救われそうもない、生まれつき根性が曲がっていてどうにもならない、と絶望視されているような人々が実は「ニネベ」なのです。そういう人々が周りにいませんか。多分誰でもそういう人々をもっていることでしょう。それらの人々のために祈りましょう。そういう人々こそ、神の特別な愛の対象なのですから。自分が一番愛しにくい人のために、名前を挙げて、祝福を祈りましょう。祈り続けましょう。必ず結果が現れるはずです。
 
お祈りを致します。