礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年7月18日
 
「他のために労苦する愛」
第一テサロニケ書連講(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ1章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  2,3   私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
(第一テサロニケ1章2-3節)


 
聖書テキスト
 
 
1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
 
はじめに
 
 
昨週から第一テサロニケ書を始めました。その概略については、昨週お配りしましたメモをご覧ください。昨週はパウロの感謝の中から、テサロニケ教会の持っていた特色の一つ、「『良い働き』となって表れる信仰」を学びました。信仰経験の明確さ良い働きとなって現れるような、そんな生きた信仰迫害に耐える根深い信仰についてまなびました。

今日は、第二の特色「愛の労苦」に目を留めます。パウロは、テサロニケクリスチャンの持っている愛の特色を、他のために労苦する愛と表現します。
 
1.新約用語としての「アガペー」
 
 
この第一テサロニケ書は新約聖書の中でも最も早く書かれた書の一つです。そこで、新約聖書で使われている「愛」(アガペー)という言葉について、一言コメントします。

・新約記者が採用した言葉:
新約聖書が書かれる前まで、愛の概念を示す言葉は沢山ありましたが、アガペーと言う言葉は余り使われていませんでした。しかしヨハネやパウロは、この言葉に新しい意味づけを与えて多用し始めました。人間の間の感情ではなく、神がその独り子を遣わし、私たちの罪の身代わりとしてくださったその愛を表わすものとして、アガペーと言う言葉を使ったのです。

・人間的な愛=エロス:
ギリシャ語の世界では、愛を表わすのはエロスと言う言葉が通常使われていました。エロスは、いわゆる男女の間のロマンチックな愛を表わす言葉です。エロスの愛のポイントは、第一に相手の美しさ・魅力の価値を認めると言うことです。第二は、その価値認識に基づいて、相手を所有したいと願うことです。その意味では性愛の中にそれが発現されます。

・神の愛=アガペー:
それに比べてアガペーは、私たちの価値や可能性に関わりなく一方的にその良きものを与える行動です。私たちの「正義」とは、ぼろ雑巾のようなもの(イザヤ64:6)です。私たちは、神を愛し返す性質も元々持っていないものです。それでも、神は私たちを大切なものと考え、ご自身を与えてくださいます。神が私たちを愛してくださるのは、「愛」こそが神のご性質だからです。この愛はおのれの御子を世に降し、十字架に掛ける具体的な愛です。犠牲を伴う愛です。そして、私たちが一旦この愛の何たるかを理解する時、同じ愛を持って神を愛し返し、同じ愛を持って兄弟を愛するようになるのです。ヨハネは、愛は神からだけ出るのだと強調しています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。・・・神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Tヨハネ4:7−10)勿論、私たちは、神の愛を見ても、それを拒む自由を持ってはいますが・・・。

・「愛」という言葉を使うとき:
現代の日本語では、このアガペーとエロスがごっちゃに使われていてとても困ることがあります。教会で「愛」を語ると、男女が互いに好きになって、一緒になってしまうそのような愛と同列なものとみなされかねません。私たちは繰り返し、聖書の愛は、無私の愛、アガペーの愛であることを強調しなければなりません。
 
2.テサロニケ人が捉えたアガペー
 
 
さて、パウロはこのアガペーの愛がテサロニケ教会の人々に注がれていることを感謝しています。この小さな手紙の中にもそのことが頻繁に現れてきます。ちょっと拾ってみましょう。

・テモテの報告(3:6):
「今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。」テモテが齎した報告はテサロニケ教会の人々が信仰と愛とについてパウロの期待通りの内容を持っていると言うことでした。

・テサロニケ人が教えられた愛(4:9):
「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」と賞賛されています。「何も書き送る必要がありません。」というのは、何という誉め言葉でしょうか。思い出してください。テサロニケ教会は生まれたばかりの若い教会です。色々弱いところがあって当然の教会ですが、単純素朴な信仰と、神から教えられた愛とにおいては、何の勧告も必要がないくらいだ、と言うのです。

・パウロたちによって示された愛(2:8):
彼らが愛を学んだのは「神から教えられた」訳なのですが、それを目に見える形で表したのは、伝道者パウロとその仲間たちでした。を見てください。「ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」パウロたちは心血を注いで伝道しました。というより、魂を愛しました。その愛を通してテサロニケ人は「神の愛」を見たのです。

・テサロニケ人はパウロに倣った(3:12):
パウロ達は、自分達の愛が神から出ていることを確信していましたから、テサロニケ人がそれにならって神の愛を頂き、互いの愛と言う形で実践することを期待しています。「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」
 
3.労苦する愛
 
 
・神の愛がテサロニケ人に伝わる:
このような背景を持って1:3の「愛の労苦」という言葉に目を留めますと、その重みがズシンと響いて参ります。先ずこの「愛」がアガペーの愛であり、人間的な好き嫌いの感情や人間が生まれ持っている「善意」以上のものであることは、今までの説明でお分かりでしょう。それは、対象が相応しいかどうかに関わりない愛、むしろ相応しくないものに特別に注がれる愛。対象が可愛らしくあるかどうかにも関わりない愛、むしろ、神に背いて舌を出しているような不遜なものにも注がれる愛のことです。それは、その独り子を賜うほどの愛です。その独り子を私たちの罪の身代わりとして十字架に釘付けする愛のことです。そして、先ほど言いましたように、開拓伝道者パウロたちによって具体的に示された愛のことです。

・労苦となって表れた愛:
パウロの感謝は、テサロニケ人クリスチャンが、その愛のスピリットを受け継いでいる、そして目に見える形でそれを実践していると言うことでした。それが「労苦」(ギリシャ語のコポス)と言う言葉で表されています。

・コポス:
コポスとは、コプトー(<岩を>叩く、切り出す)という動詞から来た名詞で、痛みと汗を伴う激しい勤労・労働を意味しています。テサロニケ教会のクリスチャンの場合、伝道者たちを助けるために、命がけで彼らを守り、次の町へ送り出した決死的行動が先ずその表れです。それから、お互いを愛する愛に表れました。思い出してください。テサロニケ教会は、4つほどの社会層から成り立っていました。少数ではありましたが、ユダヤ人社会から、キリスト教に帰依した人々、ユダヤ教のシンパとして会堂に出入りしていた「神を敬う人々」で、キリスト教に改宗した人々、ハイソの奥様方、そして、一般のギリシャ人で新にキリストの福音に触れクリスチャンとなった人々です。こんなにも違う人々が、それぞれ違うニードを持ち、違う関心を持ちながら、互いを受け入れ、互いに仕えていたのです。それだけではなく、彼らは、その福音を近在の町々に伝えて歩いたのです。それは正に「労苦」でした。パウロの感謝と賞賛の理由が良く分かります。
 
4.私たちが実践すべき愛
 
 
私たちに当てはめて考えましょう。「中目黒教会の人々」と周りの諸教会が聞いたとき、どんなイメージを与えていることでしょうか。他の人々の評判を余り気にする必要はありませんが、あの人々は「愛に満ちていて、それが他の人々のために労苦する労働に表れている。」というコメントを頂いたら、最高であると思います。

・人間的善意以上の愛:
愛が「人間的な善意」に基礎付けられると、労苦という形は同じようでも、本当の神の愛から出た行動とは違ったものになってしまいます。人間的な善意の場合は限界があります。自分が生きていますから、報われなかったり、評価されないと落胆したり、腹を立ててしまうことがあります。これ以上は出来ないと限界を決めてしまいがちです。しかし、神の愛アガペーに基づく時、神ご自身の物の味方で人を愛することが出来ます。

・アガペー理解の道:
どのようにしてアガペーの愛に満たされうるのでしょうか。私は、自分の「相応しくなさ」の捉え方ではないかと思います。自分が自分を出来た人間と思うと、それだけ神の愛の捉え方が弱くなります。本当に弱い自分、醜い自分を徹底して認める時、こんな自分を愛してくださった神の愛が分かるはずです。その愛へのお返しが神への愛であり、また、兄弟への愛となります。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Tヨハネ3:16)
 
お祈りを致します。