礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年7月25日
 
「兄弟愛の実践」
第一テサロニケ書連講(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ4章9-10節
 
 
[中心聖句]
 
  9,10   兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
(第一テサロニケ4章9-10)


 
聖書テキスト
 
 
9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めしまめします。どうか、さらにますますそうであってください。
 
はじめに
 
 
一昨週から第一テサロニケ書を始めました。第一回は1:3から、「良い働きとなって表れる信仰」、第二回の昨週は同じ箇所から、「労苦となって表れる愛」について学びました。自然の流れからいうと、今日は「忍耐となって表れる希望」となる筈なのですが、プレヤーフェロシップデーであることを意識して、昨週学びました「愛」の延長で「兄弟愛」について学びます。第一テサロニケ書に限らず、新約全体から捉えたいと思います。
 
1.兄弟愛(フィラデルフィア)と言うことば
 
 
・フィラデルフィア:
「兄弟愛」のギリシャ語はフィラデルフィアです。フィレオーは「友情的に愛する」アデルフォスは兄弟と言う意味です。この合成語である「兄弟愛」は、「クリスチャンである兄弟相互の愛」と言う意味で使われており、第一テサロニケ書、ローマ書など合計5箇所に出てきます。

・フィラデルフィアという名前の町:
ちょっと脱線しますが、フィラデルフィアという名前の町が(私の知っている限りでは)二つあります。

@小アジアで、エペソ、サルデスの隣町:一つは小アジアの町(現在のトルコ共和国)で、エペソ、サルデスの隣町です。黙示録の七つの教会のひとつでした。町を立てた人がその弟に敬意を表わすために、この名前を採用したそうです。

Aペンシルベニア州最大の都市でウィリアム・ペンが17世紀に建設もうひとつは、アメリカペンシルベニア州最大の都市で、アメリカ独立のころ10年間くらいアメリカの首都だった有名な町です。1682年、クエーカー教徒で、アメリカ民主主義の基礎を築いたウィリアム・ペンが同志とアメリカに渡来、この地に居住区を建設したのが市の起源だそうで、ペンはこの地を古代ギリシア語で「兄弟愛の町」を意味するフィラデルフェイアと名づけました。因みに、禁酒法時代には、かつての輝かしい歴史を有する街から一転して、マフィアが暗躍する全米最悪の治安の都市となったそうです。
 
2.愛の源:神
 
 
確かに、この言葉はクリスチャンでない人々の間でも友情を表わす言葉として使われていました。その例が、小アジアのフィラデルフィアという町です。しかし、クリスチャンは、この言葉を単なる友情的な愛ではなくて、神が愛してくださるアガペーの愛の表れという意味で使うようになりました。

ですからパウロは、ここでわざわざ「あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」と神から教えられる愛(セオディダクトス=神に<直接>教えられたという造語)、神から出てくる愛が互いの愛の基礎であることを強調しているのです。先週もお話しましたように、人間的な情愛の延長ですと、どうしても「好き嫌い」とか「好き」なんだけれども他の人と比べてしまって嫉妬の感情が混じるとか、愛しているのに振り返られないから憎しみに変わるとか、どろどろしたものになってしまいます。

そうではなくて、私は他の人を本当の意味では愛することなど出来ない自己中心的なものだ、だから、その自己中心を砕いていただくために十字架が必要なのだ、という福音の原点に立ちますと、神の愛が聖霊によって私たちに注がれます(ローマ5:5)。それが「神によって教えられた愛」なのです。
 
3.愛の対象:周りの人々から始まって無限の輪に
 
 
神が無限の愛をもって私たちを愛してくださったように、私たちの愛の対象も、周りの人々から始まって、無限の輪へと広がっていきます。

・広い地域の兄弟たち:
4:10でパウロは、「実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。」と語ります。若いテサロニケのクリスチャン達が、「マケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して・・・実行しています。」というのは驚くべきことです。具体的に何をしたのでしょうか。商売上でやってくるピリピ教会のメンバーをもてなしたり、また、テサロニケから出かけていって何かの助けを行ったり、ということを実践していたのでしょうね。テサロニケという町は、マケドニヤ州第一の都会でしたから、そのように愛を実践する機会が多くありました。東京という日本一の都会にいる私たちへの大きな挑戦ではないでしょうか。また、3:12で「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と、兄弟愛が全世界的に広がっていくべきと示唆しています。これが、神の愛と人間的な情愛の違いです。人間的な情愛はその対象に限界があります。家族愛は、他の人の苦しみへの無関心に繋がります。学校でも、クラスが違うだけで対抗心が湧いてしまいます。郷土愛は、他の地域の人々への蔑視となります。自分の国を愛する愛国心は、戦争をしてまで他国をやっつける敵愾心と結びつきます。しかし神の愛の表れとしての兄弟愛は、境界線を決めてここまでは仲間、ここから先はよそ者という区別をしません。ずーーっと広がっていくものです。
 
4.兄弟愛の表れ
 
 
さて、ここから新約聖書全体に目を留めながら、兄弟愛とはどのような形で実行されていたか、実行すべきと勧められているかを見たいと思います。

・もてなし:
ヘブル13:1−3を読みます。「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」極めて具体的ですね。新約聖書の時代、今日のようなホテルは余りありませんでした。旅行をするときは、知っている誰かの家に厄介になる、自分も旅行者を受け入れるという事は当たり前でした。その当たり前のことを、嫌がらずに、心から愛を持って行いなさいとヘブル書は勧めているのです。

・分かち合い:
持っているものが、貧しい兄弟のためにその不足を補うことです。第一ヨハネ3:17−18を読みます。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」さらにヤコブはもっと具体的に示唆しています。「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」(ヤコブ2:15-16)この分かち合いは、実際問題として考えると、そう簡単ではありません。助け合いが凭れ合いになることはないだろうか、助けることがその相手にとって自立心・尊厳を損なうことにならないか(つまり、クリスチャン的な助け合いの精神が無責任や依存心を助長しないだろうか)、助ける行為と自分の家族への責任とどうバランスをとるか、といった分野において、聖霊の与えて下さる知恵を必要とします。そうではありますが、問題があるからと言って心と財布を閉ざしてはなりません。

・尊敬:
ローマ12:10には、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」とパウロは勧めています。クリスチャン同士が「兄弟」であるという事は、その兄弟の親が主であることを認めることです。自分と〇〇さんという関係を考える時、ワンクッションおいて、その〇〇さんのお父さんは主ご自身であると認識しましょう。そこに尊敬が生まれます。簡単に悪口は言えなくなります。ヤコブ4:11に「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」と戒めているとおりです。

・戒め合い:
兄弟愛とは、兄弟の過ちをそのまま受け入れることではありません。本当に兄弟を愛するならば、その兄弟の過ちについて、知恵と祈りと柔和さを用いてではありますが、直接勧告することが大切です。この書の5:14においてパウロが「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」と語っているのは意味深長です。

・配慮:
兄弟の中には、あなたと違った良心を持ち、それに従って行動する人がいます。自分と違うからといって、その人を批判してはなりません。また、それぞれが持っている良心の基準を尊重して、人を躓かせないような配慮をすることも必要です。偶像に捧げた肉を食べるか食べないかという問題で、パウロはこう言います。「私は自由だ。しかし、私の自由が弱いクリスチャンを躓かせるならば、私は肉を遠慮する。」と。これが配慮です。「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。」(Tコリント8:10-11) 

・命を捨てる:
「簡単に命を捨てるなどといわないで下さい、そんなことを言ったら幾つ命があっても足らないではありませんか」という声が聞こえてきそうです。それでも敢えて、私はみことばに従って、兄弟愛は「命を捨てること」と言いたいと思います。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)とヨハネは言いました。また、パウロもこの書簡で、「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」(2:8)と語っています。勿論、命を軽率に扱うことではありませんが、いざというときに命を捨てる覚悟が兄弟愛には必要です。「走れ、メロス」という小説の中で太宰治は、メロスという羊飼いの青年と石工であるセリヌンティウスの信頼と、互いに命を捧げる友情が、疑り深い暴君ディオニスの心を溶かした物語を美しく描いています。尤も、この美しい物語を書いた時の太宰は、遊びと借金の泥沼にあって、もがいていたと言うのですから、人間は分からないものです。しかし、命を捨てる友情の美しさの価値は永遠のものです。
 
5.兄弟愛を深める
 
 
・その純粋さ、温かさ、広がりにおいて:
パウロは、テサロニケ人に対して、今持っている兄弟愛は素晴らしいものだと賞賛しています。しかし、それで十分とは言っていません。「しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」(4:10)と、愛の深さ(純粋さ、温かさ、範囲)において増進するようにと勧めます。さらに3:12では、「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と勧めます。さらにペテロは「あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(Tペテロ1:22)と勧めます。

・そのプロセス:
どのようにすべきかについて、パウロは具体的に示唆していません。ですから、私たちが推測する以外にはないのですが、少なくとも私は下記のステップが大切と思います。

@まず、実行してみる:自分が兄弟のために何が出来るかを考えて、一つでも実行してみる

A自分の心のあり方を吟味する:それをしながら、自分の心のあり方がどうなるかを自己吟味する。そこに、失望や、苦さや、批判や、愛と反対の心が入り込んできたら、そこをしっかりと見つめる

B主の愛を注いでいただくことを祈る:その上で、自分には出来ないことを告白して、主の愛を注いでいただくことを祈る

やや屈折したようなプロセスですが、これが現実的に愛を学ぶプロセスと思います。実行してみましょう。

・小さなグループで実行しよう:
私たちが兄弟愛を先ず実行する場として相応しいのが小グループであると思います。余り大勢ですとその人数に埋没して、心を開く機会を失います。ですから小グループで実験してみましょう。しかし、重ねて言いますが、小グループは、他の人が入り込めないような排他的な交わりではありません。そこからより多くの人に拡大していくステッピングボードなのです。今日のグループ集会が実りのあるものとなりますように祈ります。
 
お祈りを致します。