礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年8月1日
 
「希望が生み出す忍耐」
第一テサロニケ書連講(4)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ1章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  2,3   私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
(第一テサロニケ1章2-3)


 
聖書テキスト
 
 
1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
 
はじめに:信仰・希望・愛
 
 
・三つ葉のクローバー:
ヨーロッパの伝統で「信仰・希望・愛」は「三つ葉のクローバー」と呼ばれます。これに「幸運」が加わると「四葉」となります。さて、第一テサロニケ1:3は、その三つ葉が出てくる最初です。そのほか5:8、Tコリント13:13、コロサイ1:4−5、ヘブル10:22−24などにも、この三つが表れます。連続講解の第一回では「良い働きとなって表れる信仰」、第二回は「労苦となって表れる愛」について学びました。昨週はプレヤーフェロシップデーであることを意識して、「愛」の延長としての「兄弟愛」について4:9−10からお話ししました。今日は1:3に戻り、「希望が生み出す忍耐」を学びます。パウロはテサロニケ人クリスチャンが希望をしっかり持っていること、その希望が漠然としたものではなく、イエス・キリストに結びついたものであること、それに、その希望のゆえに彼らが英雄的な忍耐を持ち続けていることを感謝しています。今日は、テサロニケ書全体を俯瞰しながら、「希望・苦難・忍耐」という三題話を致します。

 
1.クリスチャンの希望
 
 
・再臨待望はキリストの復活に基づく:
1:3においてパウロは、「主イエス・キリストへの望み (正確には、主イエス・キリストの望み) 」という風に、「信仰」や「愛」と異なって、「希望」については一言注釈を加えています。つまり、クリスチャンが希望という言葉を使うとき、単に将来こうなったらいいなあという淡い期待、願望を指すのではなく、キリストの事実に結びついた確かな希望、もっと言えば確信を意味しています。10節には、「神が死者の中から甦らせなさった御子」とキリストを紹介しています。キリストの復活こそが、キリスト来臨とその後のクリスチャンの復活の確かさの保証です(Tコリント15章全体)。

・再臨を強く待望する:
テサロニケ・クリスチャンがキリストの再臨を切実に待ち望んでいることは、10節にも述べられ、賞賛されています。「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか・・・」また、テサロニケ・クリスチャンがいかにキリスト再臨を強く待ち望んでいたかは、4:13からも分かります。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」これは、キリストの再臨を待たずに死んでしまった同僚クリスチャンについて彼らが真実に心配している様子を示します。と。さらにそれが何時起きるかということについて、緊張感を持って待ち望んでいる様子が5:1-2から伺えます。「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」

・再臨の光から現在を見る:
さらに、テサロニケ書の中から3か所引用します。
 
2:19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」
3:13「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」
5:23「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」
 
この三か所から共通して言えるのは、パウロがテサロニケ教会の牧会に当たっていつでもきよい生活を送るようにとか、その日に主の前で誇れるクリスチャンを作り上げるようにという指標として再臨を考えていた、そしてそのアイデアをテサロニケ・クリスチャンに植え込んでいたということです。丁度、結婚式を控えたカップルがそのビッグデーを見据えながら諸準備のスケジュールを立てていくあの心の持ち方と似ています。私たちには、それが何時とは分からないが確かに来る大いなる栄光の日があって、その「]デー」を起点として振り返って現在を見ているのです。そこに苦難を乗り越える忍耐の根拠があります。「異国の丘」という戦後流行った歌がありますが、あの厳しいシベリア抑留生活を耐えた人々を支えたのは、やがて故郷の土を踏む時が来ると言う希望でした。勿論、肉体的に耐え切れずに多くの方々が異国の土となったことは本当に悲しいことではありますが・・・。テサロニケ・クリスチャンを支えたのは、主が再び来たり給うという確かな望みでした。
 
2.クリスチャンの苦難
 
 
・同国人による迫害:
テサロニケ・クリスチャンの忍耐を考える前に、彼らがどんな苦しみを経験していたかと考えましょう。その大きな要因は、同国人による迫害でした。2:14を読みましょう。「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人(ギリシャ人)に苦しめられたのです。」と記されています。彼らが新しい道徳基準に従って歩んでいること自体が同国人からは「目の上のたんこぶ」的な存在と映ったのです。皆が冷たいビールで盛り上がっている真っ只中で「すみません、ウーロン茶をください。」というのは勇気が要りますし、何だ酒の味を不味くする嫌な奴だと思われるのと似ています。

・多くの試練:
テサロニケ・クリスチャンは、このほか多くの苦難・試練を通っていました。1:6を見ますと「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」と、その入信当初から苦難に囲まれていたことが分かります。パウロは3:3−4で、信仰生活は苦難と切り離せないことを警告しています。「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。」その苦難や試練の具体的内容はこの手紙には表れていませんが、彼らは同国人による迫害以外にも、たくさんの試練・苦難にぶつかっていたことが分かります。
 
3.クリスチャンの忍耐
 
 
・忍耐ということば:
忍耐とは、ヒッポモネー(ヒッポ=〇〇の下に+メノー=留まるの合成)で、敵対的な攻撃の中に、じっと耐え続けること)です。これは、単に、静かで受身的な隠遁のことではなく、「困難に直面する時の能動的な一貫性」のことです。

・クリスチャンの忍耐:
それは単なる我慢ではありません。キリストが再び来り給う、そして、全ての不条理を正してくださるという希望に基づくものです。ですから、ある注釈者は「試練や迫害や落胆によって負けないで留まる一貫性」他の人は、「希望によって霊感を受けた忍耐」と表現します。忍耐とは、単に隠遁的な気持ちで物事を耐えるのではなく、輝くような希望をもって耐えるスピリットのことです。この希望は先ほども述べましたように、楽観主義以上の希望から湧いてくるものです。新約の希望は将来的なものに関わるものですが、不確かなものではなく、100%確かなものに立脚しています。それはキリストの復活によって確固としたものとなった再臨とそれに続く私たちの肉体的復活の希望です。

・敵対的な攻撃に動かされない忍耐:
私たちは、敵対的な攻撃に曝されますと、必死に自己弁護、自己防御をしたがるものです。これは、いわば自然です。でも、私たちは、これら不当な攻撃も全てをご存知であり、全てを正しく見たまう、そして最後的に裁判をしてくださるお方がある、そのお方が間もなく決着を付けなさるという希望を持っておりますと、人々がワンワン吠えましても、「今日の汽笛はちょっと長いなあ」程度のゆとりを持ってやり過ごすことが出来ます。こんなゆとりを持ちたいものです。私の好きなイザヤ書の一節があります。そこでは主の僕の忍耐が述べられています。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さ見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」(イザ50:5−9)このようなスピリットを持った魂を落胆させるものは世の中には存在しません。
 
おわりに:「]デー」を見つめつつ、日々の歩みを
 
 
私たちが自分の人生、課題を見る時に、現時点からそれを見るのではなく、キリストが再臨し給う「Xデー」とはどんな日だろうかということを御言に基づいて想像し、そのXデーから、現在の歩みを測るというものの見方を身につけたいものです。「Xデー」までに準備すべきことは何々でしょうか。その日を指折り数えつつ今なすべきことは何かを考えましょう。その日の重い栄光に比べたら、今の苦難は軽く見えてくるはずです。現在の苦労も大変ではあるが、その日の栄光の輝きから見れば乗り越えられない課題はなくなります。

前を見つめて今週も歩みましょう。
 
お祈りを致します。