礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年8月15日
 
「命までも与えたい」
第一テサロニケ書連講(6)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ2章1-8節
 
 
[中心聖句]
 
  8   このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
(第一テサロニケ2章8)


 
聖書テキスト
 
 
2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
 
はじめに:2章前半の背景
 
 
■主に倣っている「私」(パウロ)に倣って欲しい!:
昨週は、第1章から「模範的教会」について学びました。テサロニケ教会が、非の打ち所のない立派な教会であったと言うのではなく、キリストに従おう、また、キリストに従っている伝道者に従おう、という真実なひたむきな姿勢が「模範的」だ、ということを申し上げました。今日は2章に入りますが、その前半は、その模範的信徒を育てた伝道者のスピリットに関する告白です。先週も申し上げましたように、パウロは、「私はいい加減な人間だから、私を見るなよ、イエス様だけを見なさい。」というような言い方はしませんでした。「私は一生懸命キリストに倣っている、その姿を見てあなたがたテサロニケの人々よ、私に倣って欲しい。」と言い切っているのです。私は、パウロが変に自己卑下していないところが好きです。キリストに従う道とは、そのように真剣なのが当然でしょう。

■(ユダヤ主義者の)悪口への応答として:
さて今日のテキストは、パウロがどんな点で一生懸命であったか、また、自分の奉仕の動機がいかに純粋なものであったかを弁護的に述べています。パウロが何故こんなことを述べているかといいますと、パウロの奉仕を邪魔するユダヤ主義者がテサロニケにもやってきて、パウロの奉仕の動機について、あることない事を吹き込もうとしていたと思われます。それで動揺する信徒もいたらしいのです。本当に残念なことです。パウロは、その悪口によって神の教会が動揺することのないように、教会を守ろうとして、自分たちを弁護しています。それが「兄弟たち。あなたがたが知っているとおり・・・」と言う表現になっています。
 
「福音宣教の姿勢」(1−8節)
 
1.大胆に(1−2節)
 
 
「1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。」
 
 
■激しい苦闘の中でも:
1節のピリピでの苦しみと恥ずかしめと言うのは、使徒の働き16章にありますように、ピリピでの伝道の成功とそれに伴う迫害の大きさを物語っています。占いの霊に取り付かれた女性が救われ、正気を取り戻した結果、商売上の利益を失った「ヤ」のしるしの者たちが、人々を扇動した当局までも動かし、パウロとシラスを裁判にも掛けずに鞭打ち、投獄しました。これが、「はずかしめ」としてここで言及されている内容です。「あなたがたが知っているとおり」というのは、パウロたちが、そこから逃れてテサロニケに渡った時、その鞭打ちの跡が傷として残っていたことを示唆します。

■神によって大胆に:
パウロたちは、こうした迫害によって懲りて静かにしようとは思わず、反対に、大胆に福音を語り続けました。大胆(パレーシアゾマイ)とは、文字通りには「すべての言葉を自由に語る」という意味です。大声で叫ぶという勢いづけを考えているのではなく、語るべき全てのことを自由に確信持って語ることです。何が彼をそうさせたのでしょうか。それは、「私たちの神によって」でした。つまり、彼の傍らに立ち給う復活の主の力づけによるものでした。この手紙を書いているのはコリントにおいてでしたが、パウロはそのような経験をコリントでしたことが記録されています。使徒18:9−10で、コリントにおける反対の大きさにたじろいでいるパウロに対して主が、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と語られたことが記されています。パウロは主の励ましと保護の約束ゆえに大胆に慣れたのです。
 
2.神を喜ばせるために(3−6節)
 
 
「3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」
 
 
■人前の演技ではない:
ここでパウロが縷々述べている形容詞をひとことでまとめると、人を意識した奉仕ではなかったと言うことです。

・迷いや欲と無縁:「迷いや不純な心から出ているものではなく」(パウロが誤りによって迷わされているのではなく、性的不道徳を企んでいるのでもなく)
・トリックなし:「だましごとでもありません」(餌を使って獲物を捕らえようとはせず)
・人気取りもせず:「人を喜ばせようとしてではなく」(人々の人気を書き立てるようなことばや仕草をしない)
・人に媚びず:「へつらいのことばを用いたり」(聴衆に受けるような内容と言葉遣い)
・金儲けも目論まず:「むさぼりの口実を設けたりしたことはありません」(口では出さないが奉仕を金儲けの手段とするという変装はしない)
・名誉を求めず:「人からの名誉を受けようとはしませんでした。」(人々の賛辞を引き出すトリックを用いない、評価のことばを引き出そうとしない)

伝道者だったら、こんなことは当たり前ではないか、と読み過ごす方も多いと思います。しかし、これらの表現は、当時、実際に色々な哲学や宗教の巡回講演者が、自己中心的な動機をもってあちこち講演して歩き、利益を得ていたことを反映しています。テサロニケ教会の初々しいクリスチャンに対して、パウロもその仲間だというような誹謗中傷をユダヤ主義者が行っていたらしいのです。ですからパウロは、教会を守る動機から、自分はそのような種類の人々とは違うんだと主張しているのです。つまり、彼は、人を喜ばせるために奉仕したのではなく、「心をお調べになる神を喜ばせようとして」奉仕したのです。勿論、人を無視してよいとは思いません。人の気持ちや、反応や、はたまた忠告に対して敏感であることはむしろ大切なことです。伝道者は気配り人間でなければなりません。しかし、反面、気配りのために神の言葉を伝えるものとしての純粋さ、権威を失ってはなりません。神の言葉を宣べ伝える時、純粋に「神がこのように語り給う」と割引無しに、ストレートに語るものでなければなりません。今日でも、福音を伝えながら、こうした人間的動機が入り込んでくる危険性、余地は大きいのです。主の憐れみを求めねばなりません。

■神のテストを受けながら:
私たちキリスト者の生活と奉仕における根本的な動機は、「神に喜ばれるように」という一点です。しかも、「心をお調べになる神」を喜ばせようとして生き、そして仕えるのです。「調べる」(ドキマゾー)という言葉は「(火をもって)テストする」「吟味する」という意味です。不純物を焼き尽くす火をもって動機を験すお方が神様です。その神様に「認められて」(これもドキマゾーの受身完了=テストに合格したものとして)福音を委ねられた伝道者が、その神様に動機をテストされながら仕えている、と言っているのです。完了形があり、現在形があります。ここに厳粛さがあります。私たちの心の思い、動機の全てを細かくご存知である神の前に生きる、その神に仕えるのが、伝道者のみならず、クリスチャン全ての生き方です。朝ごとに、「私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」(詩篇19:14)との祈りをもって一日をはじめましょう。そして一日の終わりには、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、わしの思いわずらいを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23−24)と祈るものでありたいと思います。
 
3.愛の心から(7−8節)
 
 
「7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」
 
 
■母のように、優しく:
パウロは男でしたが、細やかさという点から言いますと、彼は母性的であったようです。テサロニケの新米クリスチャン達を、母(トロフォス=保母)のような細やかな心をもって「養い育てた」(サルペー=温める)のです。

■いのちまでも与えたい:
その母としてのケアが、「命までも与えたい」という表現となりました。悲壮な意味での犠牲ではありません。母が子供を愛して、その子のために命を惜しまないように、愛の犠牲を払っているのです。命を捨てるというのではなく(そうでしたら、一回で終わってしまいます)、全生命(英語ではlife=生涯です)を傾けて仕えたことを示しています。それが「なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」という言葉に表れています。「愛する者」(アガペートイ)とは、神の愛(アガペー=神が己の全てを与えなさる愛)をもって愛する対象のことです。彼らの時間・労力・財力・関心・祈りの全てをもって愛する愛の対象のことです。テサロニケ人は、パウロたちの(神的な)愛の対象となったのです。
 
終わりに:
 
 
■命を与えてくださった主に感謝しよう:
愛の大元は、主が私たちを愛してくださったからです。ここにクリスチャンライフの原点があります。先週のキャンプ・ファイアで、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)というみことばを子どもたちと共に暗記しました。主は、重ね々々主に背いたイスラエルに対して、この言葉をかけられたのです。何と勿体ないことでしょうか。その愛が私にも向けられていることを感謝しましょう。

■命を与えるまでに友を愛そう:
神の愛が、この私にも向けられている、とするならば、私たちは隣人に対してパウロと同じように、命を与えるほどまでに愛するのは当然ではないでしょうか。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Tヨハネ3:16)
 
お祈りを致します。