礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年8月22日
 
「神の言として受け入れる」
第一テサロニケ書連講(7)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ2章9-16節
 
 
[中心聖句]
 
  13   あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
(第一テサロニケ2章13節)


 
聖書テキスト
 
 
9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。
13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。
 
はじめに
 
 
昨週は、2:8から「いのちまでも与えたい」という、信仰者として、また、伝道者として、真に崇高なスピリットを学びました。テサロニケ教会が模範的だった、ということは幾度か申し上げましたが、伝道する側、それを受ける側が丁度野球のバッテリーのように呼吸があっていたのです。今日もそのテーマの続きです。
 
A.伝道者の生活と教え(9−12節)
 
1.パウロの働き:自給伝道(9節)
 
 
「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」
 
 
テサロニケ教会の開拓に当たって、パウロ達は自分の生活費は自分で稼ぐと言う意味での「自給方針」を貫きました。その業とは「天幕作り」です。パウロの仲間たちは、それを助けたことでしょう。テサロニケのような大都会で天幕作りや天幕修理が業として成り立ったかどうかは良く分かりませんが、ともかく、「昼も夜も」働いて、新しい信徒達の負担にならないように努めました。パウロが語っている「労苦と苦闘」とは、形だけの働きではなく、本当に汗水たらして働く苦労でした。念のため言いますと、パウロは、頑なに信徒からのサポートを断っていた訳ではありません。ピリピ教会からのサポートは喜んで受けました。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」(ピリピ4:16)しかし、若い教会からは、負担とならないように何も貰わない主義を貫きました。彼が手ずから働いたもう一つの理由は、テサロニケ信徒に「私たちを見ならうようにと、身をもって・・・模範を示すため』(Uテサロニケ3:8)でした。
 
2.パウロの振る舞い(10節)
 
 
「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。」
 
 
パウロ達は、その生活面でも「敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまった」のです。もちろん、これは、人に見られることを意識して(本心を隠して)真面目ぶったと言うのではありません。

◇清さ(ホシオース):神が見ておられることを常に意識して、その期待に沿うようにという動機で生活すること

◇正しさ(ディカイオース):人の前に、期待される道徳的水準を保つこと

◇無傷(アメムプトース):人々から、言いがかりをつけられるような一点の曇りもない状態

この三つの要素は、パウロ達が自然のうちに身についた生き方でありました。
 
3.パウロの勧告(11-12節)
 
 
「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」
 
 
パウロがテサロニケ・クリスチャンに与えた勧告の様子がここに描かれています。

◇父のような権威と優しさ:
最近は、父親のイメージが変わってきまして、「頑固親父」とか「雷親父」と言う言葉は、殆ど死語になりました。でも、パウロが「父のように勧告し」と語っているのは麗しいですね。お父さんだけがもつ権威と優しさが、そのことばに含まれています。

◇個人的な勧告:
パウロは、テサロニケ信徒を十把一からげに扱うのではなく、それぞれの異なる個性と問題を意識しながら、一人ひとり異なるアプローチをもって勧告を与えました。教会において一人ひとりの魂が如何に大切に扱われているかを示します。

◇神に相応しく生きなさいという内容:
パウロの勧告は、どうやったら世の中で成功者になるかとか、家庭や社会で上手に振舞う生き方を教えたのではなく、「ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように」ということが、その勧告の基本でした。勿論、伝道者の中には経済や社会の実体験に基づいた実際的な勧告や指導ができる人がいるかもしれませんが、皆ができる訳ではありません。しかし、御国と栄光とに召してくださっている(現在形)神を意識し、常にそのお方に応答しながら日常生活を送るという基本形を絶えず思い起こす伝道者の務めは大切です。

◇パウロの勧告の態度は、勧め、慰め、命令:
三つの動詞が使われていますが、これも対象者によって使い分けられているのです。どの道を進むべきか迷っている人には、明確な方向を示す勧めを与えました。落ち込んでいる魂、悲しんでいる魂には慰めを与えました。また、シャキッとしていない魂には、権威をもって命令を与えました。
 
B.テサロニケ人の素直な応答(13節)
 
1.パウロを通しての神の使信(13節a)
 
 
「私たちから神の使信のことばを受けたとき・・・。」          _
 
 
一般的に言えば、自分の語る言葉を「神の言葉」と言い表すのは、とても「おこがましい」ことです。勇気(あるいは蛮勇?)を必要とします。それが分かっていながら敢えて「神の使信」と表現したからには、それなりの理由があります。パウロは、自分のメッセージが神から与えられた福音であるとの確信をもっていました。9節で「神の福音」と言っているのがその表れです。また、自分が神から遣わされている、神から遣わされているものは神の言葉を語ると言う確信を持っていました。1:5に「力と聖霊と強い確信によった」と言っている通りです。
 
2.テサロニケ人は「神の言葉として」受容(13節b)
 
 
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、・・・それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。」
 
 
パウロが感謝しているのは、自分が神の使信として語ったその内容を、テサロニケ人が文字通り神の言葉と受け取ったことです。他の場所の伝道を見ると、すべての人がテサロニケ人のようだった訳ではありません。疑いつつ聞いた人もいれば、慎重な人々もいれば、反発する人もいました。そんな中でテサロニケ人は、真っ直ぐにこれを神の言葉と受け取り、信じ、従い、実行したのです。

受容に関して13節で二つの動詞が使われていることに注目します。第一は「受けたとき」というものです。パラランバノーという動詞ですが、これは、集会に来て説教を聞いている状態を示します。つまり、集会から出て行かないで聞いているという第一歩の受容です。第二は「受け入れてくれた」という動詞です。先々週にお話ししましたが、これはデホマイという動詞で、大切なお客さんを家に迎えるというイメージです。喜んで受け入れ、賛成し、信じ、そして従う姿勢が含まれています。テサロニケ人の態度はそうであったのです。

このことばは、主イエスがなさった播種のたとえ話を思い起こさせます。種は神の言葉です。それが様々な土壌に蒔かれると、それなりの結果が生まれます。第一の踏み固められた道端は、みことばを聞いても心に留めない人々のことです。サタンがその真理の芽を啄んでしまいます。第二の石地とは、みことばを受け入れるのですが、深く考えもせずに軽い気持ちで受け入れる人々のことです。喜んで受け入れるまではよいのですが、根がないものですから、太陽が昇ると暑さに耐ええず、直ぐにかれてしまいます。第三の茨のジャングルとは、世の思いが既に心を占めていて神の言葉を塞いでいる状況です。種は芽を出し、成長し始めましたが、茨に邪魔されて実を結ぶことはできませんでした。そのように、第四はの良く耕された柔らかい土とは、素直な心でみことばを受け入れ、これを守ることによって、百倍もの実を結ぶ魂のことです。

テサロニケ人は、パウロのことばを文字通り「神の言葉として」、つまり、大切な神の真理を示す言葉として素直に受け入れました。また、服従すべきものとして、喜んでうけとり、それを実行したのです。これは驚くべきことです。反対に、説教者のことばを人間的にだけ聴く人には、それだけの効果しかありません。今日の話は恵まれたとか、面白かったとか、感動的であったとか、先生のネクタイが派手だったとかいう感想、心洗われたような気持ちというようなコメントをする人々がいますが、私から言うと皆不完全です。神の言葉として私の心に深く刺さりました、というのが説教者への応答であるべきです。
 
3.生きて働く神の言葉(13節c)
 
 
「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」        _
 
 
神の言葉は、正に種のようなものです。一旦心の中に受け入れられると、芽を出し、成長し、花を咲かせ、実を実らせます。しかし、これは自動的にこうなるのではありません。受け取った側の協力的な姿勢、信仰の継続が条件です。その時にのみ、御言は実にいのちをもって働き出るのです。
 
C.テサロニケ人の受けた迫害(14−16節)
 
1.同国人による迫害(14節)
 
 
「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。」
 
 
テサロニケ・クリスチャンは、ユダヤ人が、ユダヤにある教会を迫害したと同じような厳しい迫害を受けました。迫害者は同国人(この場合は、ギリシャ系の人々)でしたが、それはパウロの伝道を妨げる目的でパウロをつけねらっていたユダヤ原理主義者の影響によるものでした。その迫害の強さは、ユダヤ人のそれと変わらないものでした。しかし、神の種をしっかり心に持ったテサロニケ・クリスチャン達は、迫害の中を雄々しく耐え抜きました(1:3、6)。
 
2.ユダヤ人の罪と裁き(15-16節)
 
 
「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。」
 
 
パウロはここで、ユダヤ人の迫害に触れます。全てのユダヤ人がそうではありませんでしたが、一般的に言ってユダヤ人は、福音に対して拒否反応を示しました。第一に主イエスに対して、また、同国人である預言者たちに対して、また、パウロ達福音の使者に対して反対運動を起し、殺害を行いました。神に従って、神のために熱心であったはずの(そして自分の意識としては、神に従いつつ)神の敵となったのです。何という悲劇でありましょうか。

彼らの救われがたい頑なさは、非ユダヤ人に対する態度に表れていました。自分たちだけが神の民であると信じていたユダヤ人にとって、異邦人にまで救いが及ぶというキリストの福音は、とんでもない逸脱であり、許されざるものだったのです。<この自文化優越主義(エスノセントリズム)は形を変えてどの国にもありますが、日本のそれは、戦争とその敗北という鉄槌を通しても、中々直っていないように思えます。>自らもユダヤ人であるパウロが「彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。」と言わねばならなかった心の痛みと苦しみは察するに余りあります。
 
おわりに:みことばと私との関係を考えよう
 
 
みことばに対する私たちの態度・姿勢を吟味しましょう。みことばは、私に取って何のようでしょう。足のともしび、道の光でしょうか。鏡のように私の心のあり方を示すものでしょうか。悪の道に進もうとする誘惑を留める歯止めでしょうか。私の心の状況に従って、そのどれでもあります。大切なことは、私がみことばから離れないこと、開かれた心をもってみことばの説教を聴くこと、その前に心を注ぎだして吟味すること、みことばの約束を握り、信仰をもって祈ることです。
 
お祈りを致します。