礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年8月29日
 
「あなたがたの顔が見たい」
第一テサロニケ書連講(8)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ2章17節-3章5節
 
 
[中心聖句]
 
  20   あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
(第一テサロニケ2章20節)


 
聖書テキスト
 
 
2:17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。
 
はじめに
 
 
昨週は、13節から、テサロニケ人がパウロの説教を、「神の言葉として」素直に受け入れた、その柔らかい心について学びました。今日はその続きで、パウロがテサロニケ信徒たちを深く愛していたことが語られます。その表れは三つでした。
 
1.あなたがたに会いたい(2:17-18)
 
 
「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。」
 
・ピッチャー(パウロ)とキャッチャー(テサロニケ信徒たち)[イラスト@]:
パウロとテサロニケ信徒の間は、丁度呼吸の合ったバッテリーのようなものでした。伝道するパウロを超スピードで投げるピッチャーとすれば、その投げる球をしっかり受け取るキャッチャーがテサロニケの信徒たちでした。パウロは、自分がお話しした説教を、神の言葉として真っ直ぐに受け取ってくれたテサロニケ信徒たちに心から感謝していました。

・迫害によって引き離される:
パウロは、テサロニケ信徒達のお父さんであり、お母さんでありました。父として、何でも良い事悪いことをはっきりといって聞かせました。母として、困っている時に助け、慰めました[イラストA]。

そこに事件が起きました。パウロの伝道を快く思わないユダヤ人たちが、「パウロ達は全世界で騒ぎを起こしているとんでもない悪い連中だ」とテサロニケの人々に言いふらしたのです。とうとうその騒ぎが市役所にも知られ、パウロを捕まえて牢屋に入れろ、と言う騒ぎになりました。そこで仕方なく、テサロニケ信徒たちは、夜中にこっそりとパウロを町から外に出したのです。パウロを追い出したユダヤ人たちは、テサロニケ中の人々をそそのかして、クリスチャン達をいじめました[イラストB]。17節で「引き離された」といっていますが、これは「孤児のように取り残され」という意味です。小さな子供を持った両親が子供から引き離されたら、両親は淋しいだけでなく、とても心配をしてしまいます。特に、残されたテサロニケ信徒たちがいじめられていることを知って、ますます心配になりました。

・訪問を計画:
パウロはそのような熱い心をもってテサロニケ信徒達のことを心配していました。ふつう、どんなに仲の良いお友達でも、引っ越したり、別な学校に行ったりすると、段々忘れてしまうものですが、パウロは違いました。いつでもテサロニケ信徒達のことを考え、お祈りしていました。ですからパウロは、もう一度テサロニケ人と顔を合わせて会いたいものだと切に願いました。当然でしょう。実際に訪問する計画まで立てました。

・サタンの邪魔:
しかし、この計画を「サタンが妨げ」ました。「妨げる」という言葉は、道の途中に障害物を置いて、通行人を妨げる行為をイメージしています。それが具体的にどんな状況であったかは説明されていません。パウロがテサロニケを去った時よりも強い迫害の嵐が吹いていたことがその主な理由であったと考えられます。いずれにせよ、その邪魔が「サタンの業」だとして、説明されています。私たちが主のご計画を進めようとするときに、それを喜ばない大きな陰の力が働きます。私たちはそれを認識しなければなりませんが、反対に、過度に恐れてもなりません。サタンは働いていますが、全能ではありません。彼の力は、神である主のみ許しの範囲内でしか発揮できません。丁度、獰猛な犬でも、鎖につながれていて、その範囲に入らなければ私たちは安全である、と言うのと似ています。私たちの主はサタンの業を打ち砕いて下さったからです。
 
2.あなたがたは私の誇り(2:19-21)
 
 
「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」
 
・主イエスが再臨されるときに:
パウロはここで、中々訪問ができないけれども、それは、彼がテサロニケ人を忘れたのではなく、いつでも祈りに覚えているよ、そして大切に思っているよ、というメッセージを伝えます。その祈りによって、距離を越えた交わりを持っていることも伝えます。そして、仮に地上で会えなかったとしても、天国で会うことができる、その時にテサロニケたちを一番最初に見つけ、イエス様にこういうつもりだ、ということも伝えました。「イエス様、このテサロニケの信徒たちを見てください。この人々は、ものすごい迫害の中でも、しっかり信仰を持ち続けた人々です。私も色々なところで伝道しましたが、この人々は、私の宝物のような人々です。あなたの恵みによって、私はこのような人々を供え物としてお捧げします。こんな人々と信仰生活を共にできたことを感謝します。」という積りでした。その表現が三つです。

@望み=福音を宣べ伝えた結果として、¥キリストにささげる魂のこと。教師の望みは、素晴らしい学徒を送り出すことであると同じように、伝道者の望みは、回心した魂を主にささげることです。

A喜び=魂の救いは、天上で大きな喜びを齎すことが主イエスによって語られています。私たちはその喜びに与るのです。

B冠=競技や戦争の勝利者に与えられる月桂樹の冠、結婚式の時に花嫁に与えられる冠のことで、その意味は、喜び、誇り、誉れです。[イラストC]

・今でも:
パウロがは、テサロニケ信徒たちを誇るのは、将来的なことだけではなく、今もそうである、と繰り返します。「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」

@誉れ=栄光(19節で冠といったことと意味は同じです)
A喜び=19節の繰り返しです。

・私たちが誰かから誉められると・・・?(イザヤ43:4)
私たちは、誰かから、「あなたは私の望み、喜び、誇りの冠、誉です」と言われたことがありますか。英語ではI am proud of you.と言う表現で子どもたちを誉めます。すると、子供たちも次の学期で頑張ります。夫婦でも親子でも、お互いに誉める、励ますと言うことは大切です。けなしたり、無視したりすると、人間は萎縮してしまいます。植物でも、毎日きれいだね、と声をかけると、元気になるそうですよ。いや、私は誰からも誉められたことがない、と言う方が居るでしょうか。がっかりしないでください。神様が私たちを特別に贔屓していてくださるからです。イスラエルがどんなに背いていても、「私の目にあなたは尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語られたからです。まして、私たちが真実に従い、主を畏れて歩んでいたら、神様は、私たちを宝物よりも大切だとおっしゃってくださるでしょう。
 
3.あなたがたを助けよう(3:1-5)
 
 
「そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」
 
・テモテを派遣する:
自分はどうしても会いたい、しかし自分が行ったら、目立ちすぎて、テサロニケ信徒たちへの迫害がもっと大きくなるかもしれない。だから、行く訳には行かない。しかし、テサロニケ信徒たちに伝えたいことがある。そのディレンマを解決するために、パウロは弟子のテモテを派遣することにしました。テモテならば、自分のようには目立たないから、問題を起こすこともない、しかも自分と同じくらいの気持ちを持って牧会をしてくれると信頼していたからです。

・テモテの役割:
テモテの使命は四つでした。
@信仰を強めること、
A励ますこと、
B苦難によって動揺しないように守ること、そして
C苦難に遭っているテサロニケ信徒たちが信仰に立っているかどうかを知ること、
でした。

・キリスト者は苦難に遭うのは当たり前[イラストD]:
パウロはここで、キリスト者が苦難に遭うのは避けがたいことだと釘を差します。今広くキリスト教界で流行っているのは「繁栄の福音」という耳触りの良い、しかし、福音の本質から遠く離れた福音の提示です。主イエスを信じることで良いことがどんどん起きますよという利益誘導型の伝道です。聖書は信じる者の祝福を語っていますから、これは全く非聖書的とは言えませんが、偏っているという点で大きな問題があります。明らかにパウロはキリストを信じるということは、キリストの苦難に与ることだという福音の方向を見失ってはいませんでした。「苦難に会うように定められている」「苦難に会うようになる」これは避けがたいことだ、と言っているのです。その理由は明白です。

世の罪にどっぷりと浸り、皆が滅びの道を歩いている時に、反対の方向に歩くのがクリスチャンですから、皆から邪魔者扱いにされるのはある意味で当然です。この会衆の皆さんは、家庭の中でただひとりだけクリスチャンと言う方、クラスでクリスチャンはただひとり、職場でもそう、隣近所でもそう、と言う人々が殆どでしょう。皆が悪いことをするとき、それに合わせて一緒に悪いことをしますか。みんなが噂話をするとき、一緒に誰かの悪口を言いますか。皆が誰かをいじめる時、一緒にいじめますか。新約聖書の時代だけではなく、今の時代も、勇気をもって「ノー」と言える人が必要です。そのために逆にいじめられることもあるでしょう。しかし、主は私たちと一緒にいてくださることを信じて、信仰を貫きましょう。 テモテの派遣は、その苦難の目的を再確認するための大切なくさびのような意義を持っていました。テモテの報告については、来週学びます。
 
終わりに
 
 
・互いを誇ろう:
私は、牧者として、中目黒の信徒たちを誇り、喜び、望み、冠と思っています。皆さんも、互いを見て、どうもあの人はまずいななどと批判的にならず、こんな人が今時いるなんて感謝だ、と互いを誉めあいましょう。そしてそれを口に言い表しましょう。

・神が私たちを誇っておられることを感謝しよう:
神様が私たちを特別に贔屓していてくださることを感謝しましょう。イスラエルがどんなに背いていても、「私の目にあなたは尊い。私はあなたを愛している。」と語られたからです。その神様の期待と、お互いの期待に答える私たちでありたいものです。
 
お祈りを致します。