礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年9月5日
 
「立つのも倒れるのも一緒」
第一テサロニケ書連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ3章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  8   あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。
(第一テサロニケ3章8節)


 
聖書テキスト
 
 
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。
6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。
10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
 
はじめに
 
 
昨週は、17節から、パウロがテサロニケ信徒たちを深く愛していたこと、それなのに、彼らから引き離されていたので、かれらの「顔を見たいと切に願って」いた心情を学びました。(予想される迫害の故に)自分は行くわけには行かない、しかし、どうしても自分の気持ちを伝えたいという願いから、弟子のテモテを派遣しました。今日のテキストは、そのテモテの報告と、それを聞いたパウロの感想です。
 
1.テモテの派遣(1-5節)=再述
 
 
「そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」
 
・テモテを派遣する:
パウロは、迫害に苦しみつつ信仰を保っていテサロニケ信徒たちを励ますために、直弟子のテモテを派遣しました。テモテならば、自分と同じくらいの気持ちを持って牧会をしてくれると信頼していたからです。テモテの使命は
@信仰を強めること
A励ますこと、
B苦難によって動揺しないように守ること、そして
C苦難に遭っているテサロニケ信徒たちが信仰に立っているかどうかを知ること、でした。

・キリスト者は苦難に遭うのは当たり前:
パウロはここで、キリスト者が苦難に遭うのは避けがたいことだと釘を差します。「苦難に会うように定められている」「苦難に会うようになる」と言っているのです。世の罪にどっぷりと浸り、皆が滅びの道を歩いている時に、反対の方向に歩くのがクリスチャンですから、皆から邪魔者扱いにされるのはある意味で当然です。テモテの派遣は、その苦難にあるテサロニケ信徒たちを励ますことでした。
 
2.喜ばしい報告(6節)
 
 
「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。」
 
さて、そのテモテが、喜ばしい報告を持ってコリントにいるパウロのところに帰ってきました。「今」と言う言葉で、テモテの帰還が「今しがた」のことであって、テモテ帰還の直後にこの手紙を書いていることが分かります。報告が齎した喜びがさめやらぬ内に筆を取った訳です。さらに「あなたがたのところから私たちのもとに帰って来て」ということばは、テモテが正式にテサロニケ教会のメッセージを携えて帰ってきたことが示唆されています。さて、その報告が三点ここに述べられています。

・信仰と愛を保っている:
クリスチャンとしての信仰、主イエスへの信仰をしっかりと持っていること、また、キリスト的な愛をもって互いを愛し合っていることが第一の内容でした。彼らは「互いに愛し合うことを神から教えられて」(4:9)いたからです。そして、その信仰と愛とに成長しているというニュースがパウロの心を暖めました。

・良き思い出を持っている:
パウロが感謝しているのは、テサロニケ信徒たちはパウロたちの事を「親切な心をもって」(Kind remembrance)パウロ達を覚えていることでした。これも伝道者の心を暖めるものです。つまり、テサロニケ信徒たちは、パウロ達の思い出を大切な宝物のように語り合っていると言うのです。素晴らしいことですね。私たちも、自分の名前がでるたびにいやーな記憶が人々の間に蘇ってくるというのではなく、スウィートな思い出が蘇ってくる、そのような人になりたいものですね。

・再会を切願している:
パウロたちの側では、彼らと会いたいと切に願っていました(2:17)。しかし、それが片思いではなく、彼らのほうでもずっと同じ願いをもち続けていたことを聞いて、更に心温まりました。「会いたい」「会いたがっている」という言葉の中に、クリスチャンの交わりの原点を見る思いです。勿論交わりというものは、祈りを通して、距離を超えてもなされるものですが、矢張り、顔と顔を合わせて語り、祈ることに勝るものはありません。できる限り、この地上で、顔を合わせ、声を掛け合い、共に祈るという交わりの豊かさを、私たちも深めたいと思います。最近は携帯でのコミュニケーションが殆どになっていて、同じ職場で、同じ部屋にいながら携帯で連絡を取り合うことが起きているそうです。面と向かうと何もしゃべれないというようなコミュニケーションスタイルは異常です。クリスチャンは、真の交わりの原点に立ち返らねばなりません。
 
3.パウロの喜びと感謝(7-9節)
 
 
「このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。」
 
・苦しみの中で慰められた:
パウロたちは「あらゆる苦しみ」(肉体的な苦しみ)と患難(精神的プレッシャー)のの中でも、テサロニケ信徒達の信仰の内容を聞いて慰められ、励まされました。丁度この時、パウロ達はコリントにおける大変な苦難に直面していました。伝道しても中々成果が上がらない、反抗的なユダヤ人に遭って妨害・迫害を受ける、経済的にも苦労がある、などコリントでの苦労は並大抵のものではありませんでした。これらは使徒18章に詳しく記されています。その苦難が強ければ強いだけ、テサロニケ教会からのグッドニュースは大きな慰めと励ましだったことでしょう。私たちは、パウロのような伝道者は、神からの直接的な慰めを頂くのだから、状況によって魂は微動だにも動かされないだろうと想像しがちです。しかし、パウロも人です。特に、指導者としての孤独を強く感じていたことでしょう。人からの慰めと励ましを必要としていました。私たちも誰かに対する慰め手、励まし手として存在していることを忘れてはなりません。

・生きることができた:
テサロニケ信徒たちが堅く立っていたことでパウロ達は生きている価値を見出しました。「堅く立つ」(ステーコー)とは、しっかりと立つ、立ち続けるという意味です。間違ってはいけませんが、それはテサロニケ信徒たちが、しっかりしていたとか、堅固だったという強調ではなく、「主にあって」という言葉が示すように、主と結びつく信仰の継続、確かさです。彼らの性格がどうであったかということが問題なのではなく、彼らがしっかりと主イエスキリストに結びついていたその信仰の継続性、信仰の徹底性が評価されているのです。一番最初に話しましたように、テサロニケ教会は色々な点で諸教会の模範でしたが、彼らは特別何かが勝れていたのではなく、教えられた主イエスに対する単純で全面的な信仰を淡々と持ち続けたことが偉かったのです。また、その信仰を見せびらかすこともしませんでした。伝道者と信徒は運命共同体のようなものです。信徒が堅く信仰に立つと、伝道者も生きられます。反対に、信徒がふらふらすると、伝道者は死んでしまいます。共に立つか倒れるかの運命共同体なのです。「生き甲斐がある」と訳されている部分も、元々は単に「生きている」だけです。ウェスレアン注解は「悲しみのどん底から、蘇りの命にも似た喜びの高さにまで昇っていった」と記し、さらに、「彼の心、彼の命は、彼の回心者達の霊的成長に結びついていた」と説明します。つまり、パウロの全生涯は、他の人々のために向けられていたからなのです。その意味で、信徒たちと伝道者は、立つのも倒れるのも一緒なのです。

・「最後の一葉」:
この真理を示す興味深い物語を思い出しました。それは、O・ヘンリーの「最後の一葉」と言う短編です。多くの方はご存知でしょう。画家のジョンジーが肺炎を患って、生きる気力も失ってしまいます。心身ともに疲れ切り、人生に半ば投げやりになっていたジョンジーは、窓の外に見える煉瓦の壁を這う、枯れかけた蔦の葉を数え、「あの葉がすべて落ちたら、自分も死ぬ」と友達のスーに言い出すようになる。彼女たちの階下に住む老画家のベアマンは、ジョンジーが「葉が落ちたら死ぬ」と思い込んでいることを伝え聞きます。ある夜嵐が訪れ、朝には蔦の葉は最後の一枚になっていました。その次の夜にも激しい風雨が吹きつけるが、しかし翌朝になっても最後の一枚となった葉が壁にとどまっているのを見て、ジョンジーは自分の思いを改め、生きる気力を取り戻します。実は、最後に残った葉はベアマンが嵐の中、煉瓦の壁に絵筆で描いたものでした。ジョンジーは奇跡的に全快を果たしますが、ベアマンは肺炎になり、最後の一葉を描いた二日後に亡くなります。この蔦の葉とジョンジーが、生きるのも一緒、倒れるのも一緒というつながりを示すのです。

・感謝を捧げた:
さて、パウロはこのコメントから進んで、心に湧き上がる感謝の気持ちを表します。「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。」これは、「悲しみのどん底から、蘇りの命にも似た喜びの高さにまで昇っていった」(ウェスレアン注解)ことなのです。彼の感謝は、ただ、よかった良かったと言う感謝ではありません。テサロニケ信徒の間になされたことは、いわば、人間の業を超えた神の業だ、そうならば、その業をなし給うた神に対して心から感謝の気持ちを表そうと思ったのです。彼は、このような喜びと感謝をどう表現してよいか分からないほどだったと言っています。これは、クリスチャンの喜びが何にあるのかという大切な課題を指差します。パウロにとって、喜びの理由は、他の魂の救いと成長でした。
 
4.パウロの祈り(10節)
 
 
「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」
 
・早く会いたい:
・信仰の不足を補いたい:

この二点については、来週扱うことにします。
 
終わりに
 
 
今日の主題聖句にもう一度目をとめましょう。一人ひとりがしっかりと主にあって堅く立つことが、どんなに大きな励ましを他の人に与えうるかを教えられます。

・共に生きる感謝を持とう:
私たちは、このような生きた共同体に加えられ、共に生きるものとされたことを感謝したいと思います。

・共に生きる責任を自覚しよう:
それは、私たちが互いに対して責任を持っていることも意味します。私の信仰は私だけのものではなく、他を励ますという意味も強くあることを覚えつつ、主にあって堅く立つものとなりたいと思います。
 
お祈りを致します。