礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年9月12日
 
「信仰の不足を補う」
第一テサロニケ書連講(10)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ3章6-13節
 
 
[中心聖句]
 
  10   私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
(第一テサロニケ3章10節)


 
聖書テキスト
 
 
6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。 8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。 9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。
10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。 12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。 13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。
 
はじめに
 
 
昨週は、8節の「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」から、私たちクリスチャンは、目に見えないネットワークで繋がれていること、共に生きることができるという感謝、共に生きるという責任感をまなびました。今日のテキストは、その延長です。
 
A.パウロの祈り(10節)
 
 
「10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」
 
1.昼も夜も熱心に祈る
 
 
・テモテの報告を喜ぶ(6-9節):
テサロニケに遣わされたテモテがコリントにいるパウロのところに帰ってきて、彼らがパウロたちに対して温かい気持ちを持っていること、信仰に堅く立っていること、パウロたちに会いたがっているというニュースを伝えました。それを聞いたパウロは、生き返るような喜びを感じました(6-9節)。

・フォロアップの祈りを続ける:
多分、多くのクリスチャンは、ここで安心して、感謝、感謝で終わってしまいます。パウロは違います。素晴らしい報告に胸躍らせながらも、フォロアップの祈りを続けるのです。しかも、「昼も夜も熱心に」です。教えられますね。さらに「熱心に」ということばは、「あらゆる測定基準をはるかに超えて」というパウロ独特の造語です。私たちの祈り会では、多くの祈りの課題が出され、感謝の報告がなされます。感謝はそれで終わらないで、新たな祈りへと導く、そのような祈り会が良き連鎖を生みます。私たちも「熱心に」祈り続けたいものです。さて、パウロの祈りの内容は、下記の二つです。
 
2.早く会いたい
 
 
クリスチャンの交わりの根本は、互いの顔を顔を合わせ、目と目を見つめながら、互いに励まし、共に祈ることである、と先週も申し上げました。パウロは、テモテがテサロニケ信徒たちがパウロたちに会いたがっているというニュースを聞いたことで、彼らの顔を早く見たい、共に交わりたいという願いをいっそう強くしました。
 
3.信仰の不足を補いたい
 
 
・信仰の不足とは:
再会への願望は、ただ、顔を合わせて、良かったねと手を取り合って喜ぶためではなく、現実的な理由に基づいていました。それは「彼らの信仰の不足を補いたい」という願いからのものです。「信仰の不足」とは具体的に何のことでしょう。100%信じなければならないのに部分的にしか信じないという量的なものではなさそうです。テサロニケ信徒たちの「信仰の働き」は、1章において大いに賞賛されているからです。ここでいわれている「不足」は複数です。幾つかの面で遅れていたのです。つまり、若い信仰者たちが短期間の牧者の滞在で教えられていない部分、訓練されていない部分がかなりあったのです。教えという点から言えば、主イエスの再臨に関するやや極端な考えがありました。また、道徳的分野での不十分さもありました。つまり、彼らの信仰を道徳的な面で適用するとこのいう面において充分でなかったと考えられます。特に聖書を知らない異教的環境にどっぷりと浸かっていたテサロニケ信徒たちは、最近クリスチャンになったことは素晴らしいのですが、性的な純潔さに於いて信仰を働かす点では、欠けていたのではないかと思われます。それが4章に於いて詳しく述べられています。ですから、この句は、4章に至る序論とも考えられるのです。

・補う:
この言葉はカタルティゾーで、実に広い意味を含んだ言葉です。辞書によりますと、「繕う」「整える」「調整する」「修理する」という風に使われます。この場合は、「改善する」というニュアンスです。
 
B.三つの祈り(11-13節)
 
 
「11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。 12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。 13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」
 
前半の感謝の部分を締め括祈りがここで捧げられます。その内容は三つです。
 
1.再会できるように
 
 
・父なる神と主イエスのお働き:
この手紙の前半(1−3章)で、パウロはしきりにテサロニケ信徒に会いたいと言う希望を表明しています(2:17-18、3:6、9)。ここではその願望を「祈り」と言う形で表しています。ここで注目されるのは、父なる神と主イエスを同列においていると言うことです。しかも、「道を開く」と言う動詞は単数形です。父と御子が別々に働くのではなく、一緒に働いて道を開いてくださいます。神が道を開いてくださる時に、私たちは進むことができるのです。

・「道を開く」(真っ直ぐにする):
「開く」と言う動詞(カトュスオー)は、「真っ直ぐにする」という意味です。曲がりくねった道を、真っ直ぐにして通りやすくしてくださいます。私たちがどんなに切望し、手を尽くしても、神が道を開いてくださらなければ、進むことはできません。反対に、人間的にはどんなに難しくても、神が道を開いてくだされば進むことができます。私たちの中で、何らかの課題・道筋の困難を抱えていて、神が道を開いてくださるように祈っているケースがありませんか。主は、必ず、ご自身の御心に適ったときに、御心に適った方法で、道を開いてくださいます。
 
2.愛の増加のために
 
 
・愛の標準:
その愛の標準として、「私たちがあなたがたを愛しているように」と言い切っているところが素晴らしいではありませんか。私たちは愛に乏しいですが、などと「謙遜」していません。神が注いでくださった愛について、神に栄光を帰しながら事実を述べているのです。主が命を捨てて彼を愛してくださったことが分かりましたから、彼も命を捨てるまでにテサロニケ信徒たちを愛することができたのです。

・相互の愛:
そしてそれはテサロニケ信徒にも注がれている、しかし、それが溢れるようにというのが祈りです。テサロニケ信徒たちは、多くの迫害に直面していましたが、その迫害は彼ら相互の愛を強める働きをしていたと思われます。パウロの祈りは、彼らが、自分たちに注がれている愛を増やすように、そして、その愛が他の人々に溢れてくるようにということでした。

・すべての人への愛:
「すべての人」とは、教会外の人々、そして迫害する人々をも含んでいます。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろうものを祝福しなさい。」(ルカ6:27:28)の実践が「全ての人への愛」なのです。
 
3.聖化のために
 
 
・聖化の標準:
聖化の標準は、「神の御前」です。人間的な合格点、他人から見ての合格点、自分で考えての合格点ではなく、全て心の中までお見通しの神の前に立ちうる聖さです。それが「聖く、責められるところのない」という水準の意味です。徹底的な聖さを持ち給う神のみ前で、「聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」という祈りは、果たして現実的でしょうか。それとも、単なる願望なのでしょうか。パウロの祈りは理想を披瀝した願望を述べただけとは思いません。かれはこの祈りを意味していました。それは、人間の力ではできないが、神がこれを可能としてくださると言う信仰があったからです(5:24)。

・聖化のゴール:
何時そうなるのでしょうか。多くのクリスチャンは段々そうなっていけばよいと考えます。しかし、この御言を見るとき、「キリストが再び来り給う時」がそのゴールです。再臨の時は知らされていません。今であるか、明日であるか、一週間後か、一年後か、数年後か、数十年、数百年後か、全く分かりません。しかし、それは何時くるか分からないという切迫感が大切です。つまり、主が何時お出でになっても良いように何時でも備えして待つべきなのです。今はいい加減なクリスチャン生活を送っていて、再臨のとき急に清められるわけではありません。

・内面的聖化:
「心を強くして」という表現は、聖化の分野が内面的なものであることを示唆します。外側の生活がきよく、責めがないのは良い事ですが、そればかりに気をとられると、頑張りとか偽善とかが入り込んでしまいます。そうではなくて、新鮮な思いで、「心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして主を愛し、隣人を愛する愛」を持ちたいものです。また、その愛に表れる心の聖さをいただく必要があります。どうやってでしょうか?そのためには、「心を強くして」頂くことです。端的に言えば、信仰の心を強くしていただくことです。キリストの贖いの完全さを素直に全面的に受け止める信仰こそ、「心を強くする」内容です。
 
終わりに
 
 
・「信仰の不足」を自己吟味しよう:
私たちは「信仰の不足」を感じていないでしょうか。全くないと言う人は、逆に自己満足と言う大きな「不足」があります。では、どの分野で「不足」しているでしょうか。自分で悟れといわれても、中々分からないものですが、主よ、私の心を探ってくださいと祈りつつ、御前に静まりましょう。主が語ってくださいます。

・主の憐れみを信じよう:
そして、その「信仰の不足」部分に、主の憐れみを乞いましょう。主の恵は豊かです。
 
お祈りを致します。