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聖書テキスト |
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10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。 |
12 主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。13 また、息子七人、娘三人を持った。14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。15 ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。 |
16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。17 こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。 |
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始めに |
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愛老聖日の朝、会員の皆様を心から歓迎申し上げます。主が与えてくださった長寿を感謝し、今後のご生涯に豊かな祝福をお祈りいたします。 |
今日は、長寿を全うして祝福のうちに息を引き取ったヨブの後半生に光を当て、御言から学びたいと思います。 |
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A.ヨブの前半生(0−75歳?) |
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1.繁栄した時代 |
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ヨブの後半人生は140年(16節)と記されていますが、前半が何年であったか、つまり、試練に遭ったのが何歳ころであったか、その試練が何年間続いたかについて記述はありません。でも、ヨブが大変な資産家であったこと、10人の子供がいて、それぞれが家を構えていたことなどを考えると、試練が始まったのが70歳以下であったとは思えません。試練が数年継続したとすると、試練が終わったのは75歳前後かなと推測されます。いずれにせよ、これはアブラハムの頃の長寿時代を背景としていると考えられます。 |
ヨブの繁栄振りについて詳しくは述べません。ただ、まとめて言いますと、 |
・多くの家畜をもった大富豪(羊、駱駝、牛、雌ろばなどを数え切れぬほど)で、 |
・多くの使用人を使い、 |
・7人の息子、3人の娘という子宝に恵まれていた、 |
ということです。息子たちはそれぞれ家を構えていました。 |
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2.試練 |
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そのヨブがテストされるわけですが、試練は二段階でやってきます。 |
・全財産の剥奪と子供たちの死: 第一波は全財産の剥奪と子ども達の突然死です。 |
・健康の剥奪と妻の離反: 第二波は健康の剥奪と妻の離反です。とても耐え難い試練です。 |
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3.試練の中での錬磨 |
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・三人の友人の手痛い攻撃: 試練は続きます。三人の友が見舞いに来ますが、それぞれ、伝統的宗教観に基づいてヨブを糾弾するのです。ことばは丁寧ながら、彼らの動機も、論点も正しくはありませんでした。また、神についても一面的な理解しかもっていませんでした(7-8節)。 |
・ヨブの反論と反抗: それに反論するヨブも、ある時は絶望的になり、ある時はムキになって自己弁護を試みます。ことばがきつかったり、紳士的でないところもありますが、彼の心は神に向かって真実であり続けました。 |
・神の顕現とお扱い: 彼の自己主張の強さは、神の顕現と語り掛けによって完全に砕かれます。ヨブは変えられ、満たされます。 |
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B.ヨブの後半生(75−215歳?) |
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ヨブが変えられてから、回復のステップが始まります。 |
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1.主のご干渉と回復 |
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・友のためのとりなし: 第一のステップは、ヨブが、言葉をもって彼を苦しめた三人の友のためにとりなしの祈りを捧げたことです(10節)。三人の友は、決して正しい動機で語った訳ではありませんでした。しかし、主は彼らを赦し、彼らのために祈れとヨブに命じられました。ヨブは全き寛容さをもって彼らを赦し、とりなしの祈りを捧げた時、主もまた、ヨブを赦してくださいました。私たちが他の人の罪を赦すことと、私たちの罪が赦されることは(主の祈りにもありますように)連動しているのです。 |
・所有物の回復: 主は、この祈りを聞き届け、繁栄への回復の過程を始められました。新改訳第二版で「繁栄」が省略されていますが、正しくはこれが入るべきです。第三版で修正されたのは良い事です。さて、回復といっても、恐らく一気に全ての所有が戻ってきたとは思いませんが、ともかく、彼の持ち物は以前の所有よりも二倍になったのです。 |
・10人の子供と孫と曾孫: 第三は、子供が与えられたことです。興味深いことに、所有物は二倍ですが、子供は20人ではなく、10人です。二倍ではありません。おそらく、天国の子どもたちも合わせて二倍という考えなのでしょう。ヨブが、この地上的なものだけに目を留めるのではなく、永遠への希望に生きることを、「10人の」子供の事実から教えられたことでしょう。さて、その構成は、息子7人、娘3人と、以前の構成と同じです。そして、その娘たちは超美人であったこと、さらに多くの孫と曾孫まで見ることができたことが記されています。 |
・親族と知人との交友回復: 試練の間、疎遠になっていたヨブの兄弟姉妹たち、そして友人たちがやってきて、ヨブを慰め、労わりました。ヨブの苦難の時、この人々はどんな態度だったでしょうか。それは、ヨブ19:13-19でヨブが悲痛な訴えをしていることからも明らかです。「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。私が自分のしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は私の口で彼に請わなければならない。私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。」私は、この部分がヨブ記の中で一番悲しい場面だと思っています。ですから、ヨブが繁栄を回復した時、この人々が手のひらを返すように擦り寄ってくるのを見るともっと悲しくなります。ヨブだって「苦しい時どうして慰めてくれなかったのか」と皮肉の一つも言いたくなったことでしょう。しかし、ヨブは大きな寛容をもって、ニコニコと彼らを迎えました。これも大いに教えられます。話は脱線しますが、落ち目になった人に石を投げてはいけませんね。その人こそ慰めを必要としているのです。ケニアで牧会している頃、大統領の片腕と呼ばれた側近が私たちの教会のメンバーでした。彼がある事件を起こし、大統領の不興を買って失脚しました。それからは誰も寄り付かず、それまで蟻のように集まって来た親戚・友人もぱったり彼の家に来なくなりました。権力者に睨まれる恐さを皆知っていたからです。私は外国人でケニア政治に無知でしたから、しばしば牧会訪問をしました。後になって彼が回復した時、「あの時は本当に嬉しかった」と男泣きをされました。私は私の無知ゆえに感謝しました。閑話休題。 |
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2.報われた後半生 |
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こうした回復の過程とその結果を纏めたのが12節です。「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」のです。先ほど述べましたように、彼の生涯は210−215年であったと思われます。前半が75年、後半が210年です。後半の長さが2倍であったことも象徴的ですが、長さが問題ではなく、祝福された人生であったと言うことが重要です。ここから、「後の人生の祝福」について三つのポイントからお話しします。 |
・祝福は増進する: 主の祝福はいつも増し行くものであって、減ることはありません。ヤコブ4:6に「神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。」とあるとおりです。また、箴言4:18にも「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」と記されているとおりです。ウェスレアン注解は、ヨブの物質的繁栄について、「おそらくそれは、主としてその時代に、神による弁護を他の方法では理解できない人々の恩沢のためであったろう」と説明しています。全ての場合、物質的繁栄が祝福の尺度ではありませんが、ヨブの場合、主はこの道を選ばれたのです。 |
・試練は練られた品性を生む: 「神は私を調べられる(試みられる)。私は金のように、出て来る。」(23:10)とヨブ自身が期待していたように、彼は練り鍛えられ、より一層謙り、より一層主を信頼する器に変えられました。パウロは、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3-4)と語り、ペテロも「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものである」(Tペテロ1:7)と断言しています。 |
・感謝とともに忍耐は勝利する: 信仰と忍耐をもって試練を通過したものに、より豊かな祝福が待っていることを覚えたいと思います。ヤコブ5:11を見ましょう、「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」 |
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おわりに |
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1.感謝とともに前半生を振り返ろう |
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アラコキ以上の私たちにとって、前半生は終わったといって差し支えないと思います。涙の谷を通り続けた方もあると思います。厳しい試練を経て、漸く70の坂を越えた方もありましょう。辛い悲しいことばっかりだったと言う方もありましょう。或いは、感謝と勝利の連続だった、と言う方もありましょう。その両方が入り混じった人生であったと言う方もありましょう。いずれにしろ、かくも長きに渡って助け続けてくださった主に心から感謝を捧げましょう。「ここまで主が私たちを助けてくださった。」(Tサムエル7:12)と記念の塚を立てましょう。 |
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2.希望をもって後半生を展望しよう |
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現状としては、肉体的には衰えを感じ、経済的にも年金は保証されるのか、住まいはどうなるのか、私を支える家族は大丈夫か、など不安を抱えている方も少なくないと思います。それら全ての不安材料があったとしても、私たちは「日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)の事実の故に、主を賛美しましょう。「あなたがたが年をとっても、・・・しらがになっても、わたしは背負う。」(イザヤ46:4)と約束してくださる主の故に安んじましょう。そして、ヨブに対するように「前の半生よりあとの半生をもっと祝福」してくださる主に信頼しましょう。 |
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