礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年9月26日
 
「聖さは主のみこころ」
第一テサロニケ書連講(11)
 
竿代 照夫 牧師
 
Tテサロニケ4章1-8節
 
 
[中心聖句]
 
  3   神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。
(Tテサロニケ4章3節)


 
聖書テキスト
 
 
1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
 
はじめに
 
 
前回は、3:10の「信仰の不足を補いたい」から、私たちの不足とは何か、どうしてそれが補われるのか、という大切な学課を学びました。さて、4-5章は実際的な問題に対するパウロの勧告です。
 
A.神を喜ばせる歩み(1-2節)
 
 
「1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」
 
1.実際的適用に入る(1節a)
 
 
・転換のことば「終わりに」:
1節は「終わりに」から始まります。1-3章の感謝、回想、祈り、から転換して、テサロニケ信徒たちが抱えている問題に切り込んで、実際的な勧めに入るための転換です。パウロの手紙のパターンとして、最初が理論的部分、それを終えると実際的適用に入ります。ここも例外ではありません。ここから命令形が多く使われるようになります。

・真剣なお願い:
さて、ここでパウロがあることを「お願いし、また勧告します」と二重のことばを使っていることからも、その真剣さが伺えます。どうしても聞いてもらいたいことなのです。
 
2.「神を喜ばす歩み」
 
 
・「神を喜ばす」:
「神を喜ばす」とは、神の栄光をあらわし、神の御心を行うことです。これがクリスチャン生活の中心です。私たちの生活原理の中心はここにあります。つまり、私たちの心を見ておられる神を意識し、恐れ、愛し、その喜びとなる道を歩むことです。この中心軸がしっかりしていませんと、人の前ではきちんと行動し、誰も見ていないといい加減な行動を取ると言う二重的な生活が始まります。誰が見ていてもいなくても、誰が賞賛してくれてもくれなくても、主の喜びを求める生き方に歩みましょう。

・「歩み」:
「歩み」とは、実際的な日常生活のことです。特別な機会に、特別な心をもって何かをするというのではなく、私たちの家庭や、職場や、学校や、近隣社会や、友人関係の只中で、どのように振舞うかと言う実際的な場面を言っています。
 
3.勧告における配慮
 
 
・模範を示す:
「私たちが歩んでいるように」とパウロは自分たちの模範をしめします。蟹の母さんは、子どもたちに真っ直ぐ歩けと命令しますが、自分は真っ直ぐ歩けません。しかし、パウロ母さんは、自分たちは、主に従って歩んでいると言うへりくだった確信を持っていました。ですから、「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように」ということが出来たのです。

・褒めながら励ます:
「事実今歩んでいるように」とは、誉め上手のコーチのようです。今良くやっているね、その調子で益々進むといいよ、と励ましているのです。お前はダメだ、だからこうやるんだ、というタイプのコーチはうまくいきません。実際、パウロはテモテから、テサロニケ人たちの良き行いについて報告を受けていました。それおそれで感謝なのだが、もう一歩すすんで欲しいと注文しているわけです。

・権威を理解させる:
「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたか・・・」パウロが教えたようにと言っていますが、それは人間としてのパウロの教えではなく、「主によって」(キリストの御心を受けて、それを伝えるという意味で)、主イエスによって、つまり、キリストの命令として一つ一つの勧告をテサロニケ人に授けたのでした。ですから、これから語ることも、主による命令として受け取って欲しいと語ります。
 
B.聖き歩み(3-8節)
 
 
1.聖潔は・・・
 
 
「3a 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。・・・ 7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」
 
・神の御心(3節a):
3節に「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」と記されています。聖(ハギアスモス)とは、聖くする働き、罪から神への離別、純化、聖化の齎す状態のことです。神は私たちが心と生活のすべての面で聖いことを求めておられます。ここの文脈では性の純潔が強調されているのですが、この面だけ潔癖ならば他はだらしなくてもいいというわけではありません。性の面だけでなく、私たちの生活の全部の分野で聖でなければなりません。そうは言いながらも、性の純潔が、聖化の実践に於ける大切な、そして第一の試金石であることは強調しておく必要があります。

・召された目的(7節):
7節で「神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」と言って、パウロは、神の召しの目的を再確認します。私たちが神によって救われたのは、究極的に神の聖を頂くためなのです。世がどのように変わろうとも、私たちへの神の召しはきよくなるため、と目的は変わらないのです。神のご計画は「聖い民」の創出なのです。
 
2.不品行を避けよ
 
 
「3b あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたところです。・・・ 8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」
 
<4節の翻訳の課題:「からだ」か「妻」か>:
4節で「自分のからだ」と訳されていることについては、聖書学者でも二分されていて、片方は「妻」と訳し、他方は新改訳のように「からだ」です。原語(スケウース=器)はそのどちらの可能性も示唆しています。私は、文脈的にみて新改訳と同じ方が自然と考えます。

・体を聖く保て(3節b-5節):
その体は不品行の道具ではなく、また異邦人(神を恐れない人々)のような情欲におぼれた生活ではなく、聖く、また尊く保たねばならないとパウロは言います。聖くとは、体を主にささげたものとしての使用、尊くとは聖霊の宮としての尊厳を現わします。体を自己満足の道具と考える異邦人の考えに影響されてはなりません。性生活は人間の大切な、また祝福された生活の一部です。隠し事、秘め事ではなく、神の祝福による夫婦間の愛の表れです。しかし、性欲は、主が私たちに与えてくださっている抑制力を健全に用いる時にのみ美しいのです。

・なぜ不品行はいけないのか?:
不品行(ポルネイア)とは、結婚外の性行為のことですが、それが何故いけないのか、この部分でその理由が三つ述べられています。

@兄弟姉妹を踏みにじる(6節a):
第一の理由は、不品行が兄弟姉妹を踏みにじる(=ヒッペルバイノー)正確には、からだの上を乗り越える=踏みつける)からです。映画や小説では結婚外の男女の結びつきを美化しがちですが、実際はそんなに甘いものではありません。肉体的にも病気と言う形で、或いは精神的にも大いに自分を傷つけ、相手を傷つけます。相手の伴侶者を傷つけ、自分の伴侶者を深く傷つけ、子供たちを、また、教会の兄弟姉妹を傷つけます。それを聖書は「踏み躙る」と表現しています。

A神の罰を受ける(6節b):
「主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。」不品行は神の裁きに結果します。不品行は、一時的には満足感や充実感を与えるかもしれませんが、最終的には、神の裁きに遇う結果となります。

B神を拒むことになる(8節):
神の召命の目的は、私たちをきよくするためということを先にお話ししました。私はクリスチャンとなりたいが、聖化なんかご免だ、という人がいたら、それは神を拒むことなのだとまで言っています。拒むという言葉は「横に置く」という意味です。大切な人が大切な命令を行っているときにそっぽを向いているようなものです。私たちはぜひとも聖化の問題を真剣に考え、自らのものとするべく祈り、実践したいものです。
 
おわりに:聖さを与えて下さる主に信頼して祈り、歩もう
 
 
きよくあることを拒むのは、きよく歩むための一切の力を聖霊によって与えてくださるお方をないがしろにしてしまいます。聖霊はご自身が聖であるだけではなく、私たちを火を持ってきよめるきよめ主であられます。聖霊のお働きを信じ、委ねましょう。私たちの力は弱いものです。異性の誘惑に対しても、私は真面目人間だから大丈夫と言う人はいません。自分の力で戦うのではなくて、主が与えておられる(現在形で、継続的付与を意味する)聖霊により頼みなさい、と語っておられます。その神の万全の備えを知りながら、自分は弱いものです、と言い訳しながらその備えを活用せず、罪を楽しむものは、聖い神を侮るものです。

主が今与えておられる聖霊に信頼し、その聖めをいただいて歩みましょう。
 
お祈りを致します。