礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年10月10日
 
「落ち着いた生活」
第一テサロニケ書連講(12)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ4章9-12節
 
 
[中心聖句]
 
  11   落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
(第一テサロニケ4章11節)


 
聖書テキスト
 
 
9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
 
はじめに
 
 
前回は、4:3の「神のみこころはあなた方が清くなること」から、私たちが不品行を避けるべきとお話ししました。今日もパウロの実際的な教えが続きます。
 
A.兄弟愛の実践(9-10節)
 
 
「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」
 
一ヶ月半ほど前に3:12に基づいてこの題で話しましたので、今日は繰り返しません。ただ、要点だけをここから引き出したいと思います。
 
1.愛は実践されている
 
 
@その愛は、自然の愛情ではなく、神から教えられた愛の実践でありました。パウロはこの「神から教えられた」(セオディダクトイ)と言う言葉を造り出しています。神から直接に与えられ、神から注がれた愛情であることを強調しています。

Aその愛は、テサロニケ教会内で、兄弟愛として実行されていました。

B更に、その愛の実践は、マケドニヤ州の全土の兄弟たちに拡大されていました。色々な形で周辺の教会に援助を行っていたのでしょう。しかし、テサロニケ信徒たちは、有り余る中から献金したのではありませんでした。むしろ貧しさの中から献金しました。第二コリント8:1-2によると、「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼ら(テサロニケを中心としたマケドニヤ諸教会)の満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」と言って、彼らがエルサレム教会救援の主動力となったことを感謝しています。
 
2.愛を増し加えるように
 
 
しかし、テサロニケ信徒たちは、その現状で満足することなく、愛に増進するように勧められています。
 
B.落ち着いた生活の必要(11節)
 
 
「11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」
 
1.勧告の背景
 
 
パウロがここで「落ち着いた生活をすることを志し」と思い出させているのは、テサロニケ信徒たちが、何となく落ち着いていなかったからです。もっと言えば、主イエスの再臨への希望に燃えていたので(1:10)、何時主が来られるだろうかとそわそわしていて落ち着かなかったのです。そのことが詳しく述べられ、叱られているのが第二テサロニケ3:7-12です。「あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。・・・私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」再臨を今か今かと待ち望むことは大切ですが、それゆえに、仕事も手につかない、部屋も片付かない、日常的な生活を整えることもしない、と言う風に舞い上がってしまっては、再臨待望も行き過ぎです。悪いことには、テサロニケ信徒たちの多くは互いを助ける愛に溢れていましたから、仕事を持たないで、他の金持ちクリスチャンの食客になるちゃっかりクリスチャンもいたのです。これは間違いです。主のお帰りを今か今かと待ち望みながら、しかし同時に、今なすべき務めを落ち着いて果たしていく、これが本当の再臨待望ではないでしょうか。
 
2.落ち着いた生活を志せ
 
 
この「落ち着いた生活をする」ということば(ヘースハゾー)は、単に「静かにする」という意味です。「志す」(フィロティメオマイ)とは「名誉を愛する」「・・・に向けて野心を持つ」と言う意味です。ある意味で、この二つは矛盾したことばの組み合わせです。大袈裟に言えば「頑張らないように頑張る」というようなニュアンスです。実際は、「静かにするように大志を抱く」という意味でしょう。静かにするには努力は要らないはずですが、パウロは敢えて努力せよと言っているのです。そして、パウロはその具体的なあり方を二つ挙げています。
 
3.仕事に集中せよ
 
 
「自分の仕事に身を入れ」(自分の事どもに忙しくあれ)は、英訳では“Mind your own business”です。自分の仕事に没頭せよ、が直訳ですが、この言葉の日常的な意味は、「お節介するな」です。さて、没頭すべき「自分の事ども」とは、なりわいのことです。聖書は、私たちの生業を重視しています。教会の仕事が霊的、世の中の仕事が世的という区別もしていません。私たちは、一般の会社であれ、商店であれ、工場であれ、役所であれ、携わっている仕事が一見神の国と全く関係の無いように見える職業であったとしても、それはみんな、主に仕える道なのです。このことを強調したのが宗教改革者でした。私たちはみな、色々な仕事に召されているのだ、その仕事を通して神の栄光を表すのだと主張したのです。それまでのカトリック教会は聖職者と信徒を区別して、前者は霊的な仕事に携わっているのに比べて、後者は俗的なものに携わっていると蔑視していました。宗教改革者は、そうではなくて、職業そのものが神の召しなのだとして、私たちのあらゆる活動を意味づけたのです。それを表すドイツ語がberufです。これは召しを意味しますが、同時に職業と言う言葉でもあります。英語ではcallingに当たります。職業に対する、このような積極的姿勢が、禁欲・勤勉・正直さとなって表れた、それが近代資本主義の倫理となったのだ、と社会学者であるマックス・ヴェーバーが意味づけています。

聖書に戻ります。パウロは、自分の仕事に身を入れなさいと語ります。私たちは職場に遣わされたものとして、仕事を通して神の栄光を表すのです。仕事は単に、収入を得るための必要悪ではありません。病院の現場で、会社で、商店で、工場で、学校で、それぞれお仕事を持っておられる方々、そこでどのように勤勉に、正直に働くか、また、周りの方々への愛と配慮を示すかが問われています。
 
4.自分の手で働け
 
 
「手で働く」という勧めも意味深いものです。テサロニケ信徒たちの多くは自由市民でした。手を使って仕事をするのは奴隷たちでしたから、彼らは手を使って掃除したり、ものを造ったり、汗を流すことは卑しいことと考えていたのです。パウロは、自分がテントメーキングをしたこと、主イエスが大工さんであったことも含め、クリスチャン達に、先頭に立って手を使えと励ましているのです。
 
C.落ち着いた生活の目的(12節)
 
 
「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」
 
12節では、落ち着いた生活を送る目的が述べられます。それは二つです。
 
1.外の人々への証しのため
 
 
「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ」とは、単純に、ノン・クリスチャンの人々に対してクリスチャンとしての証しを立てることです。「立派に」(ユースヘモノース)とは、ユー(良い)とスヘーマ(格好)との合成語です。「振舞う」と訳されている元の言葉は、「歩む」です。つまり「いい格好をして日常生活をしなさい」ということです。間違って取ると、格好だけ良くしようとする偽善にも受け取られかねませんが、そうではなくて、落ち着いた生活を送ることがノンクリスチャンの人々への良い証となる、という当たり前の真理を語っているだけなのです。つまり、クリスチャンでございますと言いながら、実際には他のクリスチャンの愛に甘える依存的な生活を送っているクリスチャンを見たら、ノンクリスチャンたちは躓くだけでしょう。ノンクリスチャンたちが、クリスチャンの働きぶり、生き様、その真実な愛を見るときにのみ、彼らは福音にひきつけられます。私たちが社会に存在している大きな意義はそこにあります。木下泰子氏はその講解の中で「クリスチャンであっても勤務をさぼりがちな会社員や学業に不熱心な学生のまわりにいる人々が、彼らの生活ぶりを見て主の素晴らしさを認め、キリスト教の偉大さに打たれることなど皆無であろう。」と厳しいコメントを加えています。
 
2.自立的生活をするため
 
 
もう一つの目的は、「乏しいことがないようにするため」です。つまり、クリスチャンが他の人に頼ったり、物品を乞い歩くことがないようにということです。兄弟愛に甘えて他のクリスチャンに頼るというのは、自立した社会人としての証しを損ないます。ウェスレアン注解は「クリスチャンは寄生虫的であってはいけないし、また食客的であってもならない。」と言ってます。勿論、長い人生の中には、他の人の好意に頼らざるを得ない状況もありうるでしょう。しかし、生活上の習慣として、あの人が来ると、決まって何か物を乞いに来るという評判が立っては、クリスチャンとしての証しは立ちません。必要なものを自分の手で稼ぎ、その稼いだもので満ち足りているという当たり前の経済生活の証しを立てたいものです。
 
おわりに:限りない兄弟愛と自立精神のバランスを保とう
 
 
私たちは互いに助け合う兄弟愛を惜しみなく実行しましょう。同時に、その兄弟愛を悪用して(つまり、主にある兄弟は私を助けてくれるのが当たり前と言う甘えた考え方に陥らず)、他の人に頼らない自立的な生き方をきちんと確立しましょう。

この二つが健全なバランスを保っていくためには、聖霊の与えなさる知恵と恵みが必要です。主のみ助けを仰ぎつつ、互いの愛を実践し、同時に、日々の仕事に真剣に取組みたいと思います。
 
お祈りを致します。