礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年10月17日
 
「希望のある悲しみ」
第一テサロニケ書連講(13)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ4章13-18節
 
 
[中心聖句]
 
  13   眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
(第一テサロニケ4章13節)


 
聖書テキスト
 
 
13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
 
はじめに
 
 
前回は、4:11の「落ち着いた生活をすることを志し」という箇所から、地道で堅実な生き方の大切さとその証し的な意義をお話ししました。4:13からは話題ががらりと変わって、キリストの再臨への待望について大切な教えが語られます。
 
1.テサロニケ信徒の問題(13節a)
 
 
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。」
 
・再臨待望の切迫感と即刻性の混同:
テサロニケ信徒は、主キリストの再臨を今や遅し、と待ちかまえていました。多くの人は、それが自分の生きている間に起きるだろうと期待していました。主の再臨について切迫感(何時お出でになるか分からないと言う緊張感)を持って待ち望むことは良い事です。しかし、これを即刻性(それは、間もなくやってくるという考え)と間違えてはなりません。1:10には「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった」と記されているとおり、テサロニケ信徒は切迫感を持ってキリストを待ち望んでいました。それはそれとして素晴らしいことなのですが、即刻性と間違って、彼らが生きている間に来られるはずという期待が膨らんでいました。

・信徒たちの召天:
そして、そこに深刻な問題が起きました。テサロニケ信徒たちの内、幾人かが亡くなったのです。そのお葬式がどのようになされたかは分かりません。「キリスト教式の葬儀」などは確立されていなかった時代です。かといって非ユダヤ人が大多数であるテサロニケ教会において「ユダヤ教的な葬儀」が行われたとも思えません。彼らのギリシャ的葬儀をベースにして、福音的な要素を交えたものだったと推測されます。その形式はともかく、彼らの失望は、「今亡くなってしまった友達は、キリストが再び来られる再臨の時に立ち会うことができなくなってしまった。主の再臨という輝かしい機会に共に加われない」という、誤解から来る悲しみと落胆でした。
 
2.悲しむのは当然、だが・・・(13節b)
 
 
「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
 
・悲しむな、ではない:
「悲しむ」と言う動詞は、葬儀の時に大袈裟に泣く悲しみの事ではなく、内的な、そして、継続的な悲しみのことです。パウロが言っているのは、クリスチャンは人間として、信仰者として、悲しむのは当然ながら、絶望的な悲しみに陥ることはないと言うことなのです。ここでパウロの言い方を注意深く見てください。「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と言っているのです。一切悲しむな、天国の希望があるのだから喜びなさい、と言っているのではありません。天国行きはある意味で凱旋です。ですから、大きな希望を持って死者を送り出すのです。しかし、だからといって悲しみを押し隠してニコニコしなさいと言うのは、非人間的です。私たちは悲しんで当然です。特に、功成り名遂げて、平均寿命より多くの年を生きて大往生(?)という場合ではなく、若くして亡くなったケース、多くの子供を残して世を去ったケースなどは、遺族の気持ちを考えると胸塞がる思いです。悲しむものと共に嘆き悲しむのは当然です。ケニアでの話しですが、カマウさんという働き盛りの中年男性が病に倒れ、奥さんと3、4人の子供たちを残して召されました。別な教会の方でしたが、色々な形でお交わりを許されていたので、葬儀に出席しました。その方の牧師さんが威勢の良い方でありまして、葬儀の説教の前にこう言いました。「凱旋をした将軍は、号砲七発をもって迎えるのが軍隊のしきたりです。今、カマウ兄は天国に凱旋しました。ですから、ハレルヤの号砲七発をもって祝いましょう。」墓地の周りに集まった何百という会衆が一斉に「ハレルヤ」を七回叫びました。私は奥さんと子ども達のことを思っていたたまれない気持ちになり、説教を聴く前に、静にその場所を去りました。私が言いたいのは、クリスチャンでも、いやクリスチャンだからこそ、悲しんで当然だと言うことです。ただ、悲しみの質が主を知らない人々と違うと言うことなのです。

・「他の」人々のようではなく:
パウロはそれを、「他の望みのない人々のように悲しみに沈む」と表現します。「他の」(文字通りには、「残りの」)とは、キリストの復活の事実を知らない、従って生きておられる主を知らない、更には、私たちも主に続いてやがての日に甦ることを知らない、という意味での「他の」ということです。短く言えば、ノンクリスチャンのことです。

・絶望的悲しみでもない:
この人々は、「望み」がありません。具体的には復活の望みのことです。キリストを知らない人でも、来世に対する漠然とした願望はあるかも知れません。ですから、「私のお墓の前で、泣かないでください。私は千の風になって吹き渡って行きます。」という歌に共感し、慰めを見出します。しかし、それはあくまで漠然とした願いに過ぎません。心の奥底に、大切なものを失った喪失感、もう二度と会えないだろうと言う絶望が大きく存在します。そして、特に日本の場合には、その死者の世界に私たちを引き込もうとするという恐怖感が加わります。それが、葬式における沢山の忌みごとになって表れます。葬儀から帰ったときに塩を玄関に撒いたり、火葬場に行く時と帰るときと別なコースを辿って死霊が追いかけてこないように気をつけたり、弔辞の中に「繰り返し」とか「重ね重ね」と言う言葉を入れないように気をつけたりと言う死への恐れが葬儀の中で沢山見られます。これが「悲しみに沈む」という意味です。絶望の渕の中に沈み込んでしまうのです。
 
3.悲しみを乗り越える希望(14節)
 
 
「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」
 
・「眠り」という表現の示すもの:
先にも述べましたが、クリスチャンは悲しんでよいのです。アブラハムだって、サラに先立たれて悲しみました。ヤコブも、愛妻のラケルを失った時大いに嘆き悲しみました。預言者エゼキエルもその妻が一夜にして打たれて死んでしまったときに、声を偲んで嘆きました。しかし、それらの悲しみの根底には希望がありました。特に新約の光を与えられているクリスチャンは、悲しみの只中にあっても、悲しみに打ちひしがれてしまわない、それを乗り越える希望が与えられています。それは「眠り」という表現にも表れています。死んでも、体の復活を信じている故に、一時的なお別れをしただけなのです。細かいことを言いますが、この「眠っている」という動詞は現在形(現在進行形)です。すでに眠ってしまった人ではなく、「眠っている」(或いは休んでいる)人です。グリム童話の眠り姫ではありませんが、やがて起きることを期待して眠っているのです。

・希望の根拠@――キリストの復活:
14節前半を見ましょう。「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。」さらに、この第一テサロニケ書の後に書かれた第一コリント書15章において、パウロはクリスチャンの希望の基礎は、キリストの復活の事実であると力強く述べています。これを述べるときの言葉遣いに心を用いましょう。彼は、既に無くなったクリスチャンについては「眠っている人々」と言いますが、キリストについては、もっとストレートに「死んで」と言います。キリストの死は眠るような最後ではありませんでした。私たちの全ての罪を一身に背負い、残酷で、苦しい死を遂げられました。そのどん底から甦ったのが主キリストです。昨週はチリの炭鉱で地下700メートルに閉じ込められていた人々が救出され、世界中の話題となりました。その救出を成し遂げたカプセルは「フェニックス」(不死鳥)と名づけられていたそうです。私たちも感動しました。さて、聖書によれば、キリストの復活は初穂(第一号)であって、クリスチャンの復活はそれに続く第二号、第三号、第四号、なのだと語ります。キリストの復活が事実的であったように、私たちの復活も事実的なものであると言うことです。ローマ書にはもっと明確に、「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)と記されています。死の解決の保証は、キリストの死と復活の事実と、そのキリストと信仰によって結び合わされることから与えられます。何という光栄でありましょうか。

・希望の根拠A――再臨待望:
確かな事実の上に立っているだけでなく、そのキリストが再び来られるという希望に結び付けられたものです。それを述べているのが14節後半です。「それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」「イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られる」とは、主を信じつつ世を去ったものたちが、生き返ってキリストの再臨に加わることです。ですから、今生きていてキリストの再臨に会う人と、既に死んでいて復活によってキリストと共に生きてキリストと共にその日を喜ぶ人とは、全く同列に光栄に預かるのです。そして、それが何時どのように起きるかについては、15節以下に述べられております。これについては、次回触れます。ともかく、私たちの復活信仰は、あやふやなものではありません。キリスト復活というついては、次の学びに委ねたいと思いますが、今言えることは、私たちの復活信仰は、既に起きたキリストの復活と、これから起きるキリストの再臨とに結びついた、確かなものだと言うことです。
 
おわりに
 
 
死後の世界について、その確かさとその意義をしっかり語るのは、キリスト教以外に見ることができません。クリスチャンの一番の幸いは、死の問題に対して解決が明白についていることです。

パウロは、このことに無知であってはいけません、と勧めています。あなたは、恐れずに死に直面できますか。もし、何か引っかかることがあれば、言い表し、主の赦しと救いを頂いて、恐れから解き放たれましょう。もし、大丈夫と言うことであれば、それを私たちの生き方の中に反映させ、感謝、喜び、平安をもって、この人生にぶつかって行きましょう。
 
お祈りを致します。