礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年10月31日
 
「いつまでも主とともに」
第一テサロニケ書連講(14)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ4章13-18節
 
 
[中心聖句]
 
  17   このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(第一テサロニケ4章17節)


 
聖書テキスト
 
 
13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
 
はじめに
 
 
前回は、4:11の「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」という箇所から、死別の悲しみの中にあっても希望を持つべき事を学びました。今日は、その希望の内容が更に詳しく語られている15節以下を学びます。
 
1.死者が再臨に遅れてしまうことはない(14-15節)
 
 
「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」
 
・テサロニケ信徒の心配は無用:
再臨の時に眠っている人々が後れを取ることなく、それどころかイエスと一緒に来るという素晴らしい希望が示されます。テサロニケ信徒の持っていた心配は、先に召天してしまった友達が、輝かしい希望である主イエスの再臨の時、一緒に喜びを分かち合えないというものでした。パウロはこれを否定して、生きている私たちが、既に召天した兄弟たちに先だって主キリストとの再会の特権に与ることはないと言明します。

・それは、主イエスの言葉に基づく:
15節の「主の言葉」とは、パウロの言明の根拠です。この言葉とは四つの福音書に記されていない主の言葉を引用したものと思われます。

・パウロは、生きたまま再臨を迎えると期待していたか?:
「生き残っている私たち」という表現から、パウロは生きている間に再臨があると確信していた、と考える人々もいますが、必ずしもそうとばかり捉える必要はありません。別な場所でパウロは、(キリストにある死者のコースとしての)復活に言及しているとこともあるからです(Tコリント6:14「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」、Uコリント4:14)。ここで言おうとしていることは、主イエスが再び来られるとき、主に在る者たちはみんな一緒にその来臨を祝うということです。
 
2.キリストは堂々と来られる(16節a)
 
 
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」
 
キリストの再臨は密かに起きる隠れた出来事ではなく、だれにも分かる形で起きるものであることを示します。現今、再臨のキリストと称する指導者がいますが、これは偽物です。統一教会の指導者などがその例です。主の再臨は、だれでもわかるようなはっきりした形で訪れます。ここでは3つの合図について言及されています。

・号令:
将校が戦闘にある兵士たちに、船長が漕ぎ手に対して、戦車の長が馬に対して命令を与えるイメージです。これは主ご自身の叫びであると思われます(ヨハネ5:28−29「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」)。

・声(み使いの声):
天使長が宣言を発する声です。

・ラッパ:
宗教的な行事に際して厳粛で威厳に満ちたメッセージの前触れと見ることができます(Tコリント15:52「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」)。

これら三つの合図は、主の再臨が密やかに起きるという考えを否定するものです。主イエスは、王として、堂々たる威厳をもって来られます。
 
3.死者は栄光の体に甦る(16節b)
 
 
「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり・・・」
 
先ほどキリストにある死者は、生きて残っている人々に後れを取らないと言いましたが、それどころではなく、まず、死者が初めに甦ります。

・死んで、キリストと共に憩っている人々:
「キリストにある死者」という表現に注目しましょう。「キリストを信じて死んでいった人々」というのではなく、「死んでいるが、今もキリストと共にある死者」という意味です。何という明るい死生観でしょうか。死者はどこかわからない暗い所にいるとか、幽明界をさまよっているとかいうのではなく、キリストと共に憩っているのです。今でも幸いな状態ですが、かの日にはもっと幸いな状況に移しいれられるのです。

・彼らはその場で栄光の体に甦る(Tコリント15:52):
墓の中にいる人々が主の声を聞き、その場所から甦るのです。
 
4.生きている人は引き上げられる(17節a)
 
 
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
 
・「引き上げる」とは、動物が獲物を捕まえて運び去るイメージ:
「引き上げられ」(ハルパゾー)という言葉は動物が獲物を捕まえて運び去るイメージです。鳥で言えば鷲が小動物を捕まえて大急ぎで運び去る感じです。

・生きている人々も栄光の体に変えられる:
これが可能となるためには、今のままの肉体で運び去られるのではなく、栄光の体に変えられる必要があります。それらは、ローマ8:23「私たちのからだの贖われること」、Tコリント15:50―53「私たちはみな眠っているのではなく、変えられるのです。」、ピリピ3:21「キリストは、・・・私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」)に詳しく描写されています。

・その後は?:
「千年期前再臨説」によると、患難時代、千年王国時代と続く:これが「空中再臨」と呼ばれるものです。この出来事の後に、艱難時代、そして千年王国が来るという解釈が「千年期前再臨説」と呼ばれるものです。聖書学者の中に、この立場を取る人もいますし、千年期が先にあってキリストが来られるという千年期後再臨説を取る人もいます。はっきりした形の千年期はないという無千年期説を取る人もいます。今日はこの問題には触れません。なぜなら、パウロがここで述べようとしていることは、そのような終わりの日の出来事の詳細ではないからです。

・「レフト・ビハインド」は起きるのか?:
さらに、この記事と、「一人は取られ一人は残される」(マタイ24:40)という主イエスの言葉を結びつけて、残されたものの悲劇を想像するお話が良く作られます。「レフト・ビハインド」という空想的な小説はその一つで、映画化されて話題になりました。20xx年x月x日、突然飛行機のパイロットがいなくなって、9.11以上の大騒ぎになり、運転席から運転手が突然消えて自動車事故が続発する、その他もろもろという、今イエス様を信じないと大変な目に遭うよ、」という伝道目的の映画です。私自身の感想から言いますと、こういう恐怖を煽る伝道方法はあまり好きではありません。そうした課題が起きうるということは真剣に、また、深刻に考える必要がありますが・・・。しかしながら、パウロがこの手紙で強調しているのは、残された者の悲劇ではなくて携え挙げられた者の光栄です。

・「携挙」という言葉は、新約聖書でここだけ:
もうひとつ付け加えると、聖書は私たちの将来に対する好奇心を満たすための本ではなく、再臨の主に備えて生きていくという現在的な生き方を教え導く書であるということです。さらに携挙という言葉は、新約聖書ではこの場所だけで使われています。ですから、一か所の言及から、あまり沢山の想像を巡らしてはなりません。
 
5.いつまでも主と共にいる幸い(17節b)
 
 
「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
 
最後の日の一連の出来事の内容や順序は、そんなに大きな問題ではなく、この文章で一番大切なのは、「私たちがいつまでも主とともにいる」という栄光に満ちた真理です。人間の中には、いつまでも一緒にいると息苦しくなるというような友達がいるかもしれません。最初の内は良いけれど付き合っていくうちに、荒が目立ってしまうということがあり得ましょう。しかし、主イエスと一緒にいることは

・私たちを尽きない恵みの深さへと導く:
私たちを尽きない恵みの深さへと導きます

・主イエスの計りがたい愛を一層究めていく:
主イエスのご愛は計りがたいものですから、日々が主のご愛の発見となることでしょう

・「証し会」のバラエティ:
主を中心とした交わりの喜びは限りないバラエティに富んだものとなることでしょう。天国での「証し会」は、主がそれぞれの生涯に成し遂げて下さった驚くべき証しの連続で、飽きることがない日々となることでしょう。

→この希望が、課題を乗り越えさせる力:
この希望が、私たちの今の戦い、苦しみ、悲しみを乗り越えさせる大きな力となります。
 
6.この希望によって慰め・励まし合おう(18節)
 
 
「18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
 
特に、身近な友を失って悲しみの中に沈んでいるクリスチャンたちにとって、この希望の故に、互いを慰め合うことができます。私たちも、この年に何人かの友を天にお送りしました。とても淋しいものです。肉親の方にとっては一層であると思います。しかし、主の大いなる慰めを期待しましょう。そして、悲しみの中にある友に、この希望をのベ合うことで互いを励まし合いましょう。
 
おわりに
 
 
纏めます。このメッセージを捉えながら、自問してみましょう。

・私たちの備えは?:
「世の終わりのラッパ鳴り渡る時」を締めくくりの賛美で歌いますが、私たちが今日主の再臨を迎えたとしたら、何のわだかまりもなく、「イエス様、お待ちしておりました。これからあなたと共にいつまでも過ごします。感謝です。」と言い切れるでしょうか。それとも、ちょっと具合が悪い、ちょっとどころか、たいへん具合が悪いです。謝らなければならない人と和解ができていません。あの人に不義理をし、この人に借金をしたままです。言い表していない罪を押し入れにしまったままです。何とか猶予をください。」と言わねばならないでしょうか。もし、そのような状況でありますならば、明日と言わず、今日きちんと主の前に整理しましょう。

・この希望に励まされよう:
今、いろいろなことで挫折している方はおられないでしょうか。絶望している方はありませんか。どんなに現状が苦しくても、主と共に過ごすこの大いなる希望をもっている限り、へこたれないで済みます。希望を持ちましょう。

・この希望で互いを励まそう:
私たちの周りに、落ち込んでいる魂がありませんか。特に、親しい方を失って、悲しみに沈んでいる方はいませんか。この希望を持って、その方を励ましましょう。
 
お祈りを致します。