・昼の子供が恐れることはない: 泥棒は大体夜やってきます。真昼間に堂々と唐草模様の風呂敷をかつぎ、手拭を頬かむりにして(ちょっと古いでしょうかね)やってくる泥棒はいません。パウロは言います。私たちは昼の子供、神の光の中を歩んでいる子供なのだから、夜にしか襲わない泥棒を心配する必要はない、と。つまり、主イエスの再臨を戦々恐々とした思いで待つのではなく、堂々とお待ちすればよいです。クリスチャンがクリスチャンらしい生き方をしているならば、何も恐れることはありません。 |
・「眠らないで」目を覚ましていること、しかも「慎み深く」あること: そのためには、「目を覚まし続ける」ことです。当然のことながら、主を待ち望むために、一睡もしないと言うことではありません。睡眠がなければ、人間は死んでしまいます。ここでの覚醒と言うことは、霊的な意味での覚醒です。「目を覚まして」の前には、「眠らないで」としるし、それに続いては「慎み深く」と言う言葉が使われていることに注目しましょう。「眠る」とは、キリストの再臨への無関心を示します。「酔う」とは、無責任な行動を示します。「目を覚ます」とはそれに対比して、注意深く、待ち望む心を持つことです。「慎み深く」とは、精神的に落ち着いた気持ちの事で、主の再臨が近いと言う思いから、舞い上がって日常生活が手につかなくなるようなことから守られるべき事を示唆しています。 |
・5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女: ここで思い出すのは、花婿を待つ10人の乙女のたとえ話です。5人は賢く、残りの5人は愚かでした。賢い乙女たちはランプに予備の油を持っていました。他の5人は、ランプこそ持っていましたが、予備の油がありませんでした。どんな状況でも間に合うようにと言う用心深さがなかったのです。実際、花婿の到着は大変遅れて、真夜中になりました。10人とも眠りこけていましたが、それは問題ではなかったのです。むしろ、飛び起きた時に予備の油を使って補充をしたか、それは計算外だからと町へ買いに行かねばならなかったかという違いです。主イエスの締め括りは厳粛です。他の5人は永遠に切歯扼腕するし、最初の5人は永遠の幸せに入るという大きな違いが齎されました。このたとえ話で大事なのは、主がこの愚かな乙女に対して「私はあなたがたを知らない。」と突き放されたことです。油を携えるという事は生命的に大切なことだったことが分かります。 |
・「目覚める」べき勧め: 「目覚めよ」という命令を新約聖書全体から学びますと、幾つかの内容を伴った行為であることがわかります。 |
◇第一は、堅く信仰に立つことです。(Tコリント16:13「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。」) |
◇第二は、悪魔に対して警戒を怠らないことです。(Tペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」 |
◇第三は、祈りを継続することです。(エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」コロサイ4:2「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」マタイ26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」) |
◇第四は、僕としての務めを怠らないことです。(マタイ24:42-45「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」ルカ12:37「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」) |
◇第五は、聖霊の油を絶やさないようにすることです。(マタイ25:13「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」) |
◇第六は、間違った教えに警戒することです。(使徒20:30-31「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」) |
◇第七は、死にかけた信仰を回復することです。(黙示録3:1-2「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」) |
・救いの完成を待ち望む姿勢: パウロは、眠らない、夜に生活しないと言うネガテイブな言い方から、積極的な言い方に転換します。それが「しかし」という言葉です。これに続いて「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」これらの武具はエペソ6章にある完璧な武具と対照されます。でも大切なのは、中身です。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶと」を身につける、とは、パウロの得意な信仰・希望・愛の三角形を示します。特に、現在的な救いを頂きながら、その完成を望みつつ歩む、求道者的な姿勢を指していることを汲み取らねばなりません。 |