礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年11月21日
 
「すべての人に対して善を」
第一テサロニケ書連講(16)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ5章12-22節
 
 
[中心聖句]
 
  15   だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
(第一テサロニケ5章15節)


 
聖書テキスト
 
 
12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。 14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
22 悪はどんな悪でも避けなさい。
 
はじめに
 
 
前回は、5:6の「眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」という聖句を中心に、何時お出でになるか分からないけれども、確実にお出でになる主の再臨に備えて、私たちの生活を整えるべき事を学びました。

12節から22節までは、再臨の話題から、「キリスト者としての生き方」についての教えに戻ります。3:10で「信仰の不足を補いたい」と語り、4:1−12で具体的に述べたことの続きとも見られます。聖化の生活の具体的表れとも見ることができます。そして、これらはバラバラの勧告ではなく、15節の「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」という勧告が中心となっていると理解されます。12節以降を「全ての人に善を」という鍵のことばで開けて行きます。
 
A.指導者に対して(12-13節)
 
 
「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」
 
1.指導者への尊敬
 
 
・指導者とはどんな人々か?:
パウロがこの手紙を書いた時点(AD50年ごろ)は、未だ教会と言う集まりが出来たばかりでしたから、教会の運営組織とか、職位・職制というものは、当然出来上がっていませんでした。しかし、教会のメンバーを「指導し(直訳では、「前に立つ」)、訓戒している」、いわゆる指導的な立場の人々が存在していたことは確かです。今日のことばで言えば、牧師・長老という立場でしょうか。パウロは、教会においては、すべての人々が神の前には平等であることを説きましたが、それが誤解されて、指導的立場の存在を認めない、あるいは、認めても正当な敬意を払わない、という弊害が生じていたようなのです。それが、先に派遣して、帰ってきたテモテを通して報告されてきたのです。そこでパウロはこの勧めを致します。勧めの内容は二つです。

・認識:
第一は指導者を認めると言うことです。皆が平等なのだから、指導者などあってはならないと言う、行き過ぎた考えが支配していたようで、パウロは、「認めなさい」と先ず勧めます。ここで注意すべきことばは、「主にあって」です。彼らは自分からボランティアで奉仕しているのではなく、主に立てられ、主の権威をもって指導に当たり、主に仕える人々でした。指導者が不在では、教会の秩序が保てません。教える人がいなければ、真理が保てません。ですから、指導者を指導者と認めることが第一です。

・評価と敬意:
第二は指導者への深い敬意・尊敬と愛とが勧められます。「愛をもって深い尊敬を払い」とは、直訳すると「愛をもってこれ以上ない位の評価を行いつつ尊敬し」です。その評価は「その努めのゆえに」です。立場とか職名とかの故ではありません。個人的な好き嫌いの問題でもありません。その働きに対してです。彼が主の聖名によって指導し、教えるその事柄の故に、愛に基づく評価を行い、彼らを尊敬し、彼らを支える必要があるのです。もっと言えば、主を愛することが、主によって立てられた人々を愛し、尊敬することと繋がります。愛に基づかない評価は人を殺しまが、愛に基づく評価は、人を活かします。ウエスレアン注解は、「教会とその指導者の間の理解ある感謝の念、評価、そして愛は、世に向けての教会の伝道の仕事を勧めていくためには書くことの出来ない要素である」と語っています。

・課題:
さて、ここで実際の問題を考えます。もし、指導者が明らかに主の御心に従わず、権威のみを振りかざして群を痛めつけたとしたら、信徒達はどうすれば良いのでしょうか。黙って従うべきでしょうか、あるいは、黙って去るべきでしょうか。難しいことですが、これは、次の「戒め」と言う言葉が当て嵌まると私は考えます。慎重にことばを選び、丁寧に、直接指導者と向き合ってその誤りを指摘し、改善を期待することが第一歩でしょう。もし、その時に諫言が聞かれなかったり、或いは、そのことの故に攻撃されたならば、もう一つ上の指導者に訴えることはありえます。インマヌエルでいえば、ブロックアドバイザーと言う立場がその受け皿です。ともかく、あらゆることが愛を持って、正しいチャンネルと手続きで運ばれることが肝要です。
 
2.指導者と一般信徒間の平和
 
 
「お互いの間に平和を保ちなさい。」突然「お互い」が出てきますが、誰と誰とのお互いなのでしょうか。文の流れから言いますと、指導者たちと指導される人々との間の平和です。ここでは語られていませんが、何らかの緊張関係があったと想像されます。それらは証しにならないから、互いに平和を保つように努力しなさいとパウロは語ります。双方の理解、双方の譲り合いが必要なのです。
 
B.色々な信徒に対して(14節)
 
1.気ままなものに対し
 
 
「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め・・・」                  _
 
・気ままなもの:
この手紙の中で何度か、再臨の近さを言い訳にして、真面目に仕事に取組まず、信徒の間を回り歩いて徒食している人々の事が描かれています。「気まま」(アタクトス=秩序にはまらない)とは、「隊列から離れ、職務を中途で放棄する兵士を指す軍隊用語」です。この場合は、教会の通常の営みをほったらかしにして、大事でない事柄に力を注いでいる人々の事を指していると思われます。

・戒めなさい:
さて、教会内に「気ままな人」が存在したら、どうすべきでしょうか。一番楽なのは、目をつぶること、ほおっておくことです。これは、気ままな人を容認することになります。もう少し積極的なのは陰で祈ることですが、実際には、祈りましょうね、という言い方で陰口を叩くことです。これも解決がないだけではなく、事態を悪くするばかりです。反対の振り子は、そのような人々を弾き飛ばしたり、無視したりして追い出すことです。これには愛が伴いません。パウロは単純に「戒めなさい」と勧めます。では、どのように戒めるべきなのでしょうか。パウロは、ガラテヤ書で、目撃した人が、祈りをもって、柔和な心と態度で戒めることです。ある兄弟・姉妹が、キリスト者として、教会員として相応しくない言動を示したら、気がついた人が、その場所で、その問題に限って戒めることと私は思います。この序にと、昔の事まで遡ったり、多くの人々があなたの事をこういっていますよなどと他人のことばを引用して戒めるのは、余り賢いことではないと思います。単純に、率直に、真実さをもって、互いに戒めあうこと、これができるようになれば、教会は本当の愛の共同体となります。この面で、主の恵を頂きたいと思います。
 
2.小心なものに対して(14節b)
 
 
「小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」
 
・小心なものの存在:
「小心」の原語(オリゴプシュホス)は、文字通りでは「魂が小さくなったもの」です。一方において、いろいろなことで、落胆してしまう弱い人々も居ました。特に、再臨前に死んでしまった兄弟たちが、再臨の栄光に間に合わないのではないかと心配の絶えない人々もいたようです。

・励ましなさい:
小心な人は励ましが必要です。励ましとは、その人の傍に立って、必要な助言と慰めを与えることです。
 
3.弱いものに対して(14節c)
 
 
「弱い者を助け・・・」                         _
 
弱い人々:
テサロニケ書にはありませんが、ローマ書やコリント書においては、偶像に捧げた肉を食べると、自分の信仰が損なわれるのではないかと、鋭敏(すぎる)な良心をもって、びくびくしながら信仰をもっていた人々がいて、パウロはその人々を「弱い」信仰者と言っています。

パウロはその人々を理解し、助けなさいと命じます。弱っている人は助け(文字通りには、「行って肩に腕をまわして抱きしめること」)が必要です(ローマ15:1)。
 
4.すべての人々に対して
 
 
「すべての人に対して寛容でありなさい。」               _
 
そのすべての人々に対して、親切であり寛容である(文字通りには忍耐強くある)こと、包容力を持つことが大切です(ローマ14:3)。特に、現代社会は、弱い人々を切り捨てる弱肉強食の時代です。その時代にあって、教会は、あらゆる人々を受け入れ、包み込む存在でなければなりません。
 
C.悪をなすものに対して(15節)
 
1.報復しない:裁き給う神に委ねるから
 
 
「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ・・・」            _
   
 
クリスチャンでも悪意をもって接する人がいるのでしょうか。それとも、クリスチャン以外の人の事を念頭に入れているのでしょうか。私は双方だと思います。クリスチャンでも、主観的には愛している積りでも、受け取る側からはイジワル見えるような行動を取る人はいます。まして、主を知らない人々は、あからさまに敵意を表すものです。そのような人々がいても、それに対して報復的な態度を取らないことが勧められています。どうしてそんなことができるのでしょうか。それは、私たちが、最終的に裁き給う神を知っているからです。自分で報復するのは、このお方の領分を侵すことになるからです。
 
2.(まとめとして)互いの間、またすべての人に対して
 
 
「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」
 
・善を行うとは:
どの人に対しても、その人の立場に立って何が善であるかを考えて、それを行うことです。すべての人の最高の幸いを求める愛の道徳的理想に従って生きることに全力を注ぐことです。その人の祝福を祈ることです。ただ、悪に報いないと言う消極的な態度ではなく、善をもって悪に勝つと言う積極的な態度が求められます。パウロは、ローマ書12:21で。「善をもって悪に勝ちなさい」と勧めています。主は、報復の代わりに、祝福を祈れと語られました。

・いつでも:
善を「行う」のは現在形で、ずっと行い続けなさいという意味です。それに、「いつも」という副詞が付け加えられます。時々善を行うのではなく、私たちの習慣として、継続的行為として、「善を行う」姿勢が大切です。どんなに努力しても、それが理解されない場合もあるでしょう。しかし、パウロは、「善を行なうよう務めなさい。」と努力の必要を語ります。
 
おわりに
 
 
「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」と語られた時に、誰の事が思い浮かぶでしょうか。教会の中のある人でしょうか。家庭の中のある人でしょうか。職場や学校の仲間でしょうか。それ以外の人でしょうか。それが誰であっても、私は、互いの間で、すべての人に対していつも善を行っているか、そのように努めているか、立ち止まって考えましょう。そして、主のご愛を頂いてそれを今週の一つ一つのシチュエーションで実行しましょう。
 
お祈りを致します。