礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年11月28日
 
「信じる者の幸い」
待降節講壇(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカ福音書1章26-45節
 
 
[中心聖句]
 
  45   主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
(ルカ1章45節)


 
聖書テキスト
 
 
26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
 
始めに
 
 
今年も早いもので、もうクリスマスを臨むアドベントに入りました。今年は、クリスマスを待ち望んだ幾人かの人物を通して、主を待ち望む姿勢を考えたいと思います。
 
A.エリサベツの賛歌:その背景
 
1.エリサベツの人となり
 
 
・名前:
これは、ヘブル名で、「神は、私の誓い」(神の礼拝者)と言う意味です。因みに、西洋では、この人に倣った名前が多く見られます。一番有名なのは、イギリスの女王様でエリザベス二世です。その他短くした形でエルザとか、ベスとか、ベティとか、多くの女性がこの人に倣って名づけられています。いずれにせよ、その大元はエリサベツです。

・部族:
1:6を見ますと彼の妻は「アロンの子孫で」と紹介されています。アロンはレビ族の中の一支族で、その中でも祭司を務める家系でした。当然夫であるザカリヤとは同族です。この結婚は理想的といわれていました。因みに、36節には、ユダ族である「イエスの母マリヤ」との親戚であることが記されています。これは、マリヤの母方にレビ族がいたと説明されます。

・ザカリヤとの信仰生活:
エリサベツは、当然のように祭司であるザカリヤと結婚しました。ザカリヤは夫として申し分のない、敬虔な信仰者でした。「二人とも神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行って」いました。ザカリヤがかなり年老いてから初めて神殿の礼拝奉仕が許されたことから見て、祭司の中でも「出世した」人物ではなかったことが推測されます。多くの金持ち祭司が住むエリコではなく、「ユダの山地」に静に暮らしていたことも、彼らの生活態度を暗示させます。主を恐れ、従いつつ、日々の暮らしを営んでいたのでしょう。また、ただ真面目な生活をしたと言うだけではなく、来るべきメシヤを心から待ち望み、そのために祈っていました。

・悩み:
彼らには悩みが一つありました。それは、大きな悩みでした。子供が与えられなかったのです。イスラエル婦人にとって、「子なきこと」は恥ずかしいことだったからです。彼らは、子供が与えられるようにも祈り続けていました。
 
2.驚くべき知らせ
 
 
・ザカリヤへのみ告げ:
そのようなエリサベツにとって、夫ザカリヤが齎したニュースは正に晴天の霹靂でした。ザカリヤに籤が当たって、ある日の神殿礼拝をつかさどることになりました。祈りつつ備え、当然ながら、洗濯のきいた衣装をまとって、夫ザカリヤは家を出ました。どうなることかと気を揉んでいたエリサベツの許に戻ってきたのは、何もいえない、ただ手まねだけで合図しているザカリヤの姿でした。何が起きたのか、筆談やジェスチャーを通じて分かったことは、子供が与えられること、その子供が待ち望んでいた救い主の先駆者となると言うおどろくべきメッセージでした。

・エリサベツの信仰的受容:
このニュースをエリサベツは、信仰をもって受け入れました。そして間もなく、懐妊の喜びに与ります。

・マリヤの来訪:
丁度、妊娠6ヶ月ころのこと、エリサベツのお腹も要約目だつようになって来ました。丁度そのころ、予告無しに訪問したのがマリヤです。マリヤに受胎告知がなされた直後のことです。マリヤはその告知の中で、「あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女と言われていた人なのに、今はもう6ヶ月です。」ということばがマリヤを励ましたからです。マリヤは、何としてもエリサベツに会いたいと思いました。マリヤの住んでいるナザレから、エリサベツのいるユダの山地までは、どんなに早く歩いても三日、実際はそれ以上の旅行です。マリヤを迎えたエリサベツは、既に御使いによってその来訪の意義を知らされていましたから、説明不要、喜びに踊りました。自分だけでなく、お腹のヨハネも踊って、お母さんのお腹をキックしたのです。その時に歌われたのが、42−45節の賛歌です。優雅に歌ったのではありません。大声で叫び声を挙げたのです。
 
B.エリサベツの賛歌:その内容
 
 
「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
 
この歌は、マリヤが祝福された状態を感謝し、その挨拶の声が自分の胎内の子供までも感動を与えることを感謝し、最後に、信じる者の幸いを歌います。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」という御言を思い巡らしつつ、「信じるものの幸い」について語ります。
 
1.45節の正確な意味
 
 
先ず、直訳します。ぎこちないのですが、「主によって彼女に語られたことがらには成就がある、ということを信じきった女は幸いです!」となります。

・「ということ」(ホティ)の解釈:
「ということ」と訳されているホティには、「なぜならば」(because)という意味もあります。また、「ということ」という意味(that)もあります。後者ととると、文語訳のように「信ぜしものは幸いなるかな、主の語り給うことは、必ず成就すべければなり」となりますし、前者となると新改訳のようになります。私は新改訳が妥当と思います。

・信じた人:
さらに、信じ切った「人」は女性単数です。直訳すれば「信じた(一人の)女性は幸いです・・・。」となります。当然マリヤをさしています。

・信じきった:
「信じ切る」とは「信じる」のアオリスト時制です。つまり、主が語られたとき、信じるのだ、信じることに決めようと決断したことを示唆しています。

・主によって彼女に対して語られた:
「主によって彼女に対して語られた」とは、個人的な語り掛けを意味します。主と個人的に物語り、直接に語り掛けを頂くことを意味しています。
 
2.信じなかった者の不幸
 
 
信じたものの幸いとは、裏返して言うと、信じなかったものは不幸だなあという意味が籠められています。

・ザカリヤ:
エリサベツの夫ザカリヤは、主のことばを信じませんでしたので、口が利けなくなっていました。エリサベツは、その夫をちらりと横目で眺めながら、このことばを叫んだことでしょう。ザカリヤは「その時が来れば必ず実現すべき」(御使いを通して語られた)神の言葉(1:20)を信じませんでした。その結果ものが言えず、筆談か身振り手ぶりでしかコミュニケーション出来なくなったのです。その夫の姿から、信じないものの悲しさを日常生活の中で痛感していたことでしょう。

・トマス:
そのほかにも、信じないものの不幸について、聖書は多くの例を示しています。トマスはDoubting Thomasという名前で、不信仰者の代名詞となってしまいました。主イエスの復活を疑って叱られました。尤も、彼の場合には、叱られた後で直ぐに信じたため、より深い信仰者となりましたが・・・。

・イスラエル王の側近:
サマリヤでイスラエルの王様の側近であった将校は、サマリヤが包囲されて深刻な食料危機に陥った時に、「主はこの危機を24時間以内に救って、豊かな食料を供給なさる」という預言者エリシャの予言を聞きました。しかし彼は「たとい神が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と疑問を挟んだのです。奇蹟は起きました。24時間も立たない内に食料は供給されました。人々が食料を求めて殺到した時、警備係を命じられたその将校は、山の様な食料を見ながら、群衆に押しつぶされて死んでしまいました。

私達はいかにしばしば、必ず実現する神の言葉を信ぜずに、神の恵みを受け損なっていることでしょうか。これらの例は私達に多くの反省を与えるものです。また、人間の中に潜む不信仰の気持ちの強さを物語ります。
 
3.信じるとは
 
 
・祝福の神を信じる:
私達もマリヤと同じように、不可能と思われることに囲まれています。人間的に考えれば気違いになりそうなほどの課題と戦っています。 しかし、あなたは祝福される、あなたを祝福するものは祝福され、あなたを呪う者は呪われる(創世記12:1-3)の約束がアブラハムのみならず私達にも適用されていることを信じましょう。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)との聖言を信じ切って進もうではありませんか。

・神の言葉の真実性を信じる:
神においては言葉イコール行動である。
1)神は覚えておられる。神の言葉は天地が滅び去っても決して滅びることはありません(マタイ24:35)。神は約束を忘れなさることはありません。ザカリヤの賛歌の中に「われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」(1:73)と歌われている通りです。世の思想は変わり行きます。何を信じていいか分からない不確定な時代と言われています。その中にあって変わらない神の言葉を持っている幸いを再確認したいと思います。
2)神は誠実である。彼のお名前はアーメンであり、忠実で、真実な証人です(黙示録3:14)。パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Uテモテ2:13)と宣言しています。

・神の全能を信じる:
神は全能である。約束したことを実行なさる力を持ち、それを発揮なさいます。神において、語ることと行動は一つなのです。「光あれ」と宣言されると「光があった」のです(創世記1:3)。
 
4.信じたマリヤの祝福
 
 
さて、信じた者の幸いに戻りましょう。

・マリヤの質問:
マリヤは神の奇蹟的な処女懐妊という知らせを素直に受け取りました。彼女の反応は表面から見るとザカリヤの疑問と似ているようですが、良く見ると異なります。ザカリヤは「そんなことが起きる筈がない。」というトーンで質問しています。これに比べてマリヤは「それは良いでしょう。でもどの様な道筋で起きるか説明してください。」といったものです。同じ質問でも、衆議院の予算委員会の野党質問のように、何でも反対してぼろを見付け出そうという質問と、与党質問のように、趣旨は賛成、でもその計画を詳細に知りたいという応援的な質問があります。国会では前者の質問の方が遥かに面白いのですが、私達は神に向かってこのようではいけませんでしょう。

・マリヤの応答:
マリヤは「神にとって不可能なことはないのです。」という充分な答えをいただいた時、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と議論を止め、主の御心に従順に素直に従って行こうとその気持ちを顕わしました。処女降誕とはマリヤのみならず、多くの人々への躓きでした。そんな非科学的な事を言うから、キリスト教は受け入れられない、と多くの人々の攻撃のターゲットでした。しかし、今の生化学ではこれが有り得ないことではないことが示されています。さらに、信仰的な角度から言えば、メシヤが通常の誕生をする方が私には信じられません。神であり、人でもあるというメシヤがこのような方法で生まれなさったのは、ごく自然と私は思うのですが如何でしょうか。いずれにせよ、マリヤはこういう事情を全部弁えて信じた訳ではなく、単純に「神の言葉であるから」信じたのです。このような単純な信仰の故に、マリヤは「女の中で最も祝福された者、救い主の母となる」という光栄を与えられたのです。
 
終わりに:課題の大きさを認めつつも祝福の約束を信じよう
 
 
私達もマリヤと同じように、不可能と思われることに囲まれています。家族の救い、経済的不況の中でのサバイバルなどどれ一つとっても容易な問題はありません。しかし、あなたは祝福される、あなたを祝福するものは祝福され、あなたを呪うお者は呪われる(創世記12:1-3)の約束がアブラハムのみならず私達にも適用されていることを信じましょう。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)との聖言を信じ切って進もうではありませんか。
 
お祈りを致します。