礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年12月12日
 
「光について証しする」
待降節講壇(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネ福音書1章6-12,19-23節
 
 
[中心聖句]
 
  7   この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
(ヨハネ1章7節)


 
聖書テキスト
 
 
6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。 20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。 21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」 22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」 23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
 
はじめに
 
 
主イエスのご降誕に関わった人物から、その人となりを学びました。アドベント第一ではエリサベツに、第二ではヨセフに、そして、第三の今日はヨハネに焦点を当てます。
 
A.バプテスマのヨハネの登場
 
 
「神から遣わされたヨハネという人」(6節)             _
 
1.旧約と新約を繋ぐ要(かなめ)
 
 
ヨハネ1章前半は、キリストの受肉(神が人となり給うたこと)の神秘を述べているところです。その説明の中で、バプテスマのヨハネと言う人物が登場します。(このヨハネはイエスの弟子であったヨハネとは別人物で、区別するためにバプテスマのヨハネといわれています。)ヨハネの活躍は、クリスマスとは関わりありませんが、ここでヨハネが突然のように登場するのは、ヨハネが旧約の預言者の最後の人物であるからであり、新約の福音の先駆者として活躍したからです。つまり、旧約と新約の繋ぎ役として役割を果たしたからです。

その紹介文が6-8節です。「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」この中で、証と言う言葉が3回繰り返されています。ヨハネの証について触れる前に、ヨハネの誕生から活躍までをザッと振り返ります。
 
2.ヨハネの誕生と成長
 
 
・奇跡の子として誕生:
祭司ザカリヤとエリサベツが年老いて生んだ奇跡の子として、イエス誕生の半年前に誕生します。彼はメシヤの先駆者となるべきことが父に告げられており、その道に歩むべく訓練を受けます。

・ナジル人:
ヨハネは、ぶどう酒を飲まず、髪を切らないナジル人としての戒律を守り、自分の使命を強く自覚しながら成長します。

・荒野での修行:
彼はユダヤの荒野に行き、(多分修道的生活を送っていたクムラン・グループと交わりつつ)霊的修行に励みます。彼の父ザカリヤのような祭司の道を歩むのが当然なのにそれを捨てて、荒野の生活を選んだのです。食べ物はその辺に沢山いるイナゴと野蜜、普通の着物ではなく、ラクダの毛の着物身に纏い、腰には皮帯を巻きつけ、野人としての風貌をしていました。誰から見ても、これは、旧約時代に活躍し、預言者運動の元祖であったエリヤを思わしめるものでした。
 
3.活動開始
 
 
・悔い改めのメッセージ:
主イエスはおよそ30才のころ、故郷を離れて公の活動に入られましたが、その約3年前、ヨハネは荒野において、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさいと説教を始めました。神の言葉に飢え渇いていた多くの人々は、野を越え山を越えて彼の許に集まってきました。

・大センセーション:
彼はそこで悔い改めのしるしとしてのバプテスマを授け、これがまた、全国的なセンセーションを巻き起こします。彼が、自分の立場について述べているヨハネ1章のことばから、救い主の先駆者としての彼の役割を見たいと思います。
 
B.光ではなく・・・
 
 
「彼は光ではなかった。」(7節)                 _
 
この1章の中でヨハネについて述べるとき、「・・・ではなく」という否定的な表現が多いことが特色です。
 
1.「光ではない」:キリストの「引き立て役」
 
 
ヨハネの役割は、光ではなく、その光について証言をすることでした。つまり、彼は神がもたらす救いに関して、脇役に徹したのです。食べ物のコマーシャルの中に、本来の食べ物よりもお酒が目立とうとして叱られる不思議なものがあります。「お前が目立とうとしてはだめなんだ。」と叱られる内容です。それを見ながら、ヨハネを思い出しました。かれは、徹底的に「キリストの引き立て役」であり、キリストの紹介者としての自分の役割に徹底していました。そのことは、15節にも記されています。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」つまり、自分よりも勝れたかた、更に自分よりも前に存在された方と規定しています。実際ヨハネは、主イエスよりも半年前に生まれた方なのに、イエスが永遠的な存在であると言うことを証しているからに他なりません。
 
2.三重の否定
 
 
19−27節に、ヨハネは、エルサレムから派遣された宗教家達の質問に答えて、自分の立場を明確に答えます。それは、三重の否定から始まります。

・「キリストではありません。」:
当然ながら、ヨハネは、旧約聖書に予言されたメシヤではありません。でも、荒野での活躍から、キリストはこの人ではないか、と多くの人々に囁かれたことは確かです。だからこそ、自分はキリストではない、と明言する必要があったのです。

・「エリヤではありません。」:
ヨハネがエリヤの再来だ、というのは、ある意味で本当です。実際環境や風貌からして、エリヤは荒野に住み、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人」(U列王1:8)として、知られていたからです。さらに、エリヤは救い主の前に、主の霊をもって表れ、救い主の道備えをする(ルカ1:17、マラキ書4:5「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」)ということも予言されていましたから、この表現はある意味で真理です。ですから、ヨハネは、自分のエリヤ的役割を認めながらも、エリヤそのものではない、と明言します。

・「あの預言者ではありません。」:
「あの預言者」というのは、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)とモーセに語られた予言に基づいています。実質的にはメシヤのことです。ヨハネは当然、そうではない、と答えました。
 
3.私たちも脇役
 
 
・創造の目的は神の栄光を表すため:
「ヨハネだけでなく、私たちも脇役」などと言うと、人間個人の価値や尊厳を否定するのかと面白くない方もあるでしょう。でも被造物である人間は、創造という大きな業から見れば脇役なのです。しかし、貴い、光栄ある脇役です。イザヤは述べます。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)と。

・贖いの目的はキリストの光を示すため:
パウロはもう少し詳しく言います、「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Uコリント4:6-7)と。私たちは、救われた後も依然土の器です。脆く、卑しい存在です。しかし、内に持っている宝なるキリストのゆえに輝くことができ、それを見る人々が、私たちではなく、宝なるキリストを認めるのだ、というのです。これこそ、本当の証し人です。
 
C.光を証しする
 
 
「光についてあかしするため、すべての人が彼によって信じるため」(7節)
 
ヨハネは、自分に光を当てず、キリストに光を当てました。
 
1.キリストが光
 
 
9節に、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とありますように、キリストは、万民を照らす本当の光として世に来てくださいました。どんな意味での光でしょうか。

・神を示す光:
イエスは、目に見えない神を私たちに教える光でした(18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります)。

・恵みと愛を与える光:
恵みと愛を与える光でした(16節には「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とあります)。

・命を与える光:
8:12には、永遠の命を与える光であるとも宣言されています。どのように命を与えて下さるのでしょうか。それは、「世の罪を除く神の小羊」(1:29)として、ご自分の命を捨てるためでした。さらに、その贖いの恵を私たちに注ぐために「聖霊によってバプテスマを授けて」(1:33)くださるのです。
 
2.道を備える
 
 
・「見えない」声:
ヨハネは、積極的に「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と自己規定をしました。これは、声です。声は見えません。聞かせたら、それで使命を終わって消えてしまいます。ヨハネが自分はそのようなものだと自覚していました。キリストが公の奉仕を開始して、人々の注目が自分からイエスに移っていくことを、何の嫉妬も淋しさも感じないで心から喜ぶ、そのような発言を繰り返しています。「彼は盛んになり、私は衰える」

・道を備える声:
しかし、これはハッキリした声です。キリストを受け入れるために、曲がった道を真っ直ぐにし、高いところを削り、低いところを埋め立てなさい、と。具体的には、悔い改めをもってキリストを受け入れる心の備えをしなさい、とこれ以上はっきりとは言えないほどの明瞭さを持って語りました。しかも具体的に。例えば、取税人に対しては、定められた税額よりもごまかして高く取るな、とか、お金のゆとりのある人は、貧しい人に施しなさい、とか、兵士たちにたいしては、その力を背景に人をゆすったりしてはいけない、という具体的な教えを与えました。
 
3.多くの人が信じた
 
 
ヨハネが悔い改めと言うダイレクトなメッセージを通して人々の心を整えたために、また、救い主がどんな人であるか、どんな仕事をしてくださるかを証言したために、「すべての人が彼によって信じる」結果が生まれました。
 
おわりに:私たちも「ヨハネ」となろう
 
 
・内なるキリストを人々に示す:
自分がキリスト的な、つまり、中心的な役割に立って目だとうとするのではなく、内にいてくださるキリストを紹介するのが私たちの役割だと言うことを自覚しましょう。もし、私たちの周りの誰かが、私たちに良い評価を与えたとしましょう。その時にどんな反応をしますか。「いや、それほどでもありません」と謙遜の振りをするのも一つでしょう。しかし、もし、私たちが、「自分には良きものが一つもない、それが一つでもあるとすれば、それはイエス様のお陰だ」と本気で頷いているならば、栄光を主に帰して、「ありがとうございます。でも、それは主イエス様のお陰なのです。」という形で主を証しすることが出来ます。

・証し的な日常生活を:
光として来られた主を、心から賛美すると同時に、私たちの行動とことばと態度をもって、光なるキリストを証しするものとなりましょう。
 
お祈りを致します。