礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年12月19日
 
「『みどりご』に注目」
聖誕節講壇
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書9章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  6   ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
(イザヤ9章6節)


 
聖書テキスト
 
 
1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
 
はじめに
 
 
クリスマスおめでとうございます。「今年は」というべきか、「今年も」というべきか、暗い出来事が次々に起き、出口のない大きな濁流の中に運ばれているような社会情勢が続いています。その様な中で、二千年前にベツレヘムの馬小屋で生まれたキリストの誕生を祝うクリスマスの意味の大きさをひしひしと感じます。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる(た)。ひとりの男の子が、私たちに与えられる(た)。」何という驚くべき予言でありましょうか。この予言の言葉から、飼葉桶に生まれた幼子に関する思い巡らしをして、クリスマスのメッセージと致します。
 
A.この予言の背景
 
 
イザヤは、BC8世紀のイスラエル(正確には、南のユダ国)で政治的な預言者として活躍した人です。当時の世界で最大の脅威は、世界帝国にのし上がったアッシリヤでした。アッシリヤは、北イスラエルも含めた中東諸国をどんどん呑み込み、南ユダ国にも攻め込んで、首都エルサレムを包囲しました。イザヤは、このような恐怖の時代にあって、「やがて平和が支配する、その平和は一人の男の子の誕生と支配によって可能となる」といいます。この男の子の誕生は、神が強力な武力によってではなく、平和の理念によって世界を治めなさるという平和主義の象徴なのです。実際に、イザヤの生きていたBC701年、神の奇跡的干渉によってユダは救われました。その平和の到来が5節で予言されています。6節は、5節の平和の到来の思想を受けて、「何故なら」と言う言葉で始まっています(新改訳には訳出されていないので残念ですが)。神は平和を回復される、何故なら、メシア的な子供を誕生させなさるから、と繋がっているのです。
 
B.みどりごに目を注ごう
 
1.神の真実を見る:予言が七百年後に成就
 
 
実際に、メシア(キリスト)が誕生されたのは、イザヤの時代から七百年後でした。けれども、イザヤは、キリストが誕生を望遠鏡で遥かに見、しかも、それが確実に起きるという前提に立って、それが現在の困難な政治状況への救いの徴と捉えたのです。預言というものは、時を超越しています。新改訳聖書では、「生まれる。与えられる。」と現在形、あるいは将来的な見通しとして訳されていますが、忠実に訳せば、「生まれている。与えられている。」なのです。これは預言的完了形とも言える言い方です。実際の出来事としてはイザヤ預言の七百年後なのですが、イザヤはこれを、恰も今日起きた出来事のように捉えて喜んでいます。そして、イザヤから下って七百年後、これはベツレヘムにおいて実現しました。神は、ご自分が(預言者を通して)語られた約束に忠実であられます。神の言葉は必ず成就するということを示すのが、飼葉桶に眠るイエスでした。
 
2.神の謙りを見る:「神が人となる」(受肉)の意味するもの
 
 
「ひとりのみどりごが・・・生まれる。」とは、何という素朴な書き出しでしょうか。成人した逞しい男が白馬に乗ってラッパと共に現れるというのではなく、預言されたメシアは、普通の人間として、何の変哲もない赤ちゃんとして登場するというのです。赤ちゃんというのは、正に何の助けもない、ひ弱で、頼りない存在です。メシアがこんなに頼りない、普通っぽい登場で良いのでしょうか。私はそこに神の知恵があるように思います。クリスマスは、「神の謙り」の表れなのです。神が人の形をもって現れなさった、この驚くべき真理を「受肉」と言いますが、それは神の謙りなのです。イザヤの予言から七百年後、ベツレヘムの馬小屋で誕生されたキリストは、栄光の神が、罪深い人間に限りなく近づいてくださること、そのために力なき赤ちゃんの姿を持って世に現れたことを示しています。ここに神のメッセージがあります。軍事力と軍事力の衝突、騙したり騙されたりの政治的駆け引き、人間的権威を振りかざして人を支配しようという醜い渦巻きからかけ離れて、恵みと愛と平和の原理で世を治めようという意図を、このみどりごによって示されたのです。神は、力をもって世を治めることもできるお方です。しかし、そのむき出しの力を用いずに、愛と平和の原理をもって世を治めようとしておられます。
 
3.神の支配を見る:メシアの4つのタイトル
 
 
このみどりごは、主権者、指導者として現れました。それが彼のタイトルに示されています。「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」勿論赤ちゃんの時からではなく、主イエスは、成人して、公の務めに当たるようになってからではありますが、世の支配者となられました。そのタイトルが四つ記されています。

1)全知(をもって、助言を与える方):
「不思議な助言者」とは、メシアが神の不思議を述べ伝えるメッセンジャーとして、神の勧告を私達に伝達する役割を持っておられたからです。

2)全能(をもって、力ある働きをする方):
「力ある神」とは、メシアが全能の力をもって世を治めるお方であることを意味します。

3)永遠的な存在(をもって、全てを満たす方):
「永遠の父」とは、神だけがもっておられる永遠性を示します。人間は限られた時間、空間の中に生きています。それと比べて、神は始めなく終わり無く、いつまでも存在し給う永遠のお方です。この永遠の神が父性を持っておられる。被造物を生み出し給うお方として、愛と配慮と計画とを持った、人格的なお方であることを示します。

4)支配者(平和を齎す方):
「平和の君」とメシアが呼ばれる理由は三つあります。

@彼が平和的:彼自身が平和的なお方であり、平和的な方法で平和を齎すお方だからです。イザヤ11:8には「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」として、子供の無邪気さ、無害性がコブラやまむしをも友達とする平和な国の光景が描かれています。

A命を捨てて和解の道を開く:キリストは、ご自分の犠牲の死を通して、神と人、人と人の和解の道を開かれました。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させて下さったからです。地にある物も天にある物も、ただ御子によって和解させて下さったのです。」(コロサイ1:20)

B平安を与える:キリストは、平和の心をもって私達の心を支配して下さるお方です。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)
 
4.神の愛を見る:「みどりご」はプレゼント
 
 
1)私たちすべてに宛てて:
この「みどりご」は、プレゼントとして与えられました。それが、「与えられた」ということばに表されています。その送り先は「私達のため」です。このみどりごは、私達のために(私達の益のために)うまれ、私達に対して(ギフトとして)与えられました。イザヤが「私達のために」と言ったときには、全ての人間を指していました。私にも、あなたにも、みんなのための贈り物です。今年は誰も何もプレゼントはくれなかったと淋しい思いをしている人はいませんか。そうだったとしても、神はあなたへのプレゼントを忘れておられません。

2)価値あるプレゼント:
「みどりご」という超素晴らしいプレゼントです。この方は、罪によって損なわれた私達をその罪から救い、清き生涯を送ることが出来るようにするお方です。私達が抱えている全ての問題の中心である罪について、根本的な解決を与えてくださいます。私たちはクリスマスにプレゼントのやり取りをしますが、その習慣の始まりは、正に一番素晴らしい、一番価値のある神からのプレゼントでした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)と記されておりますように、父なる人類に対する神の最大のプレゼントがイエス・キリストだったのです。

3)私たちのすべての必要の満たしの約束:
パウロは、このプレゼントをいただいたことは、他のどんな必要への満たしの保証であると捉えました。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)つまり、神がその愛する御子を惜しまないで私達すべてのために渡し切って下さったとすれば、それに添えて私たちの必要としていることを御子と一緒に下さると確信したのです。彼自身は今苦しい環境に生きているが、神から助けと慰めと、物理的な治癒力と心の平安を全部与えられている、これって素晴らしい恵ではないか、というのです。ですから彼は、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」と言っているのです。
 
おわりに:「みどりご」を通して、神の恵みと助けの豊かさを見、信じ、捉えよう
 
 
二千年前の今日、ベツレヘムの馬小屋で生まれたみどりごに注目しましょう。その中に、神の大きな恵みを捉えましょう。神の助けを捉えましょう。

今日、色々な難しい問題にぶつかっている人はいませんか。貧しさの中に落ち込んで、明日の食べ物すらめどが立たない人はいませんか。孤独をかこって、誰も自分は顧みないと僻んでいる人はいませんか。どんな人であっても、二千年前のベツレヘムの薄暗い馬小屋で、飼い葉桶の中に眠っている幼子を見つめましょう。そこに示された神の愛と恵の大きさを知りましょう。現実の生活では、色々な不足があり、困難、迫害があるかも知れませんが、御子に添えて万物を下さる神の愛と、その資源の豊かさと、その御力の無限を信じて、明るい信仰をもって進もうではありませんか。
 
お祈りを致します。