礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年1月2日
 
「あなたは祝福となる」
年頭講壇
 
竿代 照夫 牧師
 
創世記12章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  2,3   2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなた(の名)は祝福となる。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
(創世記12章2,3節)


 
聖書テキスト
 
 
1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
 
1.だれでも祝福を願う
 
 
明けましておめでとうございます。年の初めには特に、多くの人がその年の祝福を願うものです。昨年は悪いことが色々あったが、今年こそは良い年となるようにと願います。そんな気持ちが、日本で見られる初詣の習慣の根底にある気持ちなのでしょう。

さて、2010年は、近隣諸国との軋轢が表面化した年として覚えられることでしょうし、年が明けたからといって見通しが明るくはありません。国内の政治状況も社会経済状況も楽観できません。そうした中で、私の心にある切なる祈りは、(教報一面に書きましたとおり)「神が私たちをあわれみ、祝福し、み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」(詩篇67:1)という祈りであり、それは、「あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるため」(2節)という目的のためです。私たち一人ひとりへの祝福は、周りの人々に及びます。私たちの教会の祝福は、多くの方々を主に引き付ける結果となります。インマヌエル始め諸教会が聖化の恵みに真実に生き、祈り合い、協働することが、この混乱した日本と世界に対して大きな祝福となるからです。
 
2.祝福を約束されたアブラハム
 
 
この様な思いをもって新年を迎えるとき、主は大いなる励ましの約束を下さいました。祝福は、切に求め続ける対象ではなく、私たちは既に祝されているのだという事実を再確認させられたのです。その根拠は、私たちの信仰の父祖であるアブラハムへの神の約束であり、この約束は信じるすべてのものにしっかりと受け継がれているからです。「世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、・・・アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」(ローマ4:16)とあり、また、「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)とある通りです。
 
3.七重の祝福<イラスト7つ>
 
 
2−3節の間に祝福と言う言葉が5回出てきます。「祝する」(バーラク)と言う言葉は元来「跪く」という意味を持っており、人が神の前に跪いて、神をほめたたえると言う形で使われていました。それが、「神が人に恵を宣言する」という意味になったのです。2−3節には神がアブラハムに対して恵を施す祝福の約束が七通りに与えられています。(ここでは、まだ最初の名前であるアブラムで呼ばれていますが、私はより広く知られている後の名前アブラハムで通します。)

@重要な国民の先祖となる:
「大いなる国民とし」という約束です。「大いなる」とは、アブラムが、数においても、影響力においても、霊的な意味でも重要な国民の先祖となることを意味していました。実際、彼はユダヤ人、アラブ人の先祖となりました。霊的な意味では、すべてのクリスチャンの先祖です。

A祝福される:
霊的に、物質的に、また、家族関係において祝福されることです。実際、アブラハムは、信仰によって義しいものとみなされ、神の友と呼ばれるほどに神と近く歩みました。これだけでもものすごい祝福です。さらに、その持ち物においても、近くの王様たちに匹敵するほどに、多くの家畜・僕に恵まれました。家族関係においても、老齢ではありましたが子宝に恵まれ、多くの人の父となりました。

B名を大いなるものとする:
文字通りには、有名になる、名前が歴史に残るということです。最初の名前「アブラム」は「高揚された父」という意味で、それだけでも偉大です。さらに、「アブラハム」となりました。その意味は、多くの国民の父と言う意味です。アブラハムはその名前をその意味とともに覚えられました。それはアブラハムの名誉という個人的なものではなく、信じる者を祝福される神が、アブラハムという個人を模範にして人々にアッピールするためです。

C自分が祝福となる:
新改訳聖書では、「あなたの名は祝福となる」と訳されていますが、どうして「名」が入ったのか分かりません。私の知っているどの訳にも「名」がありません。単純に「あなたは祝福となる」と訳すべきと思います。もっと言えば、彼の存在が祝福となる、祝福の源となることです。彼に注がれた祝福が回りに溢れてくるのです。この意味で、私たちが家庭に存在することが家庭の祝福となり、会社に存在することが会社の祝福となり、学校に存在することが学校の祝福となるのです。クリスチャン議員が国会に存在することが政治家全体の祝福となるのです。

D自分を祝福する者たちが祝福される:
アブラハムを支持する者が増え、彼らが祝福されるという約束です。神がもし彼の味方であれば、恐いものはありません。

E自分をのろう者が呪われる:
アブラハムに反対するものが、祝福を失うことで、敵意が消滅すると言う、ものすごい約束です。前のDとともに、この約束を本気で信じると、私たちの内から恐怖や思い煩いを取り去られます。興味深いことに、Dの約束は複数形が使われているのに対して、この約束は単数形です。祝福してくれるものの方が、呪う人よりもはるかに多いのだよ、と主が励ましてくださっているようです。

Fすべての民族が自分によって祝福される:
アブラハムの信仰と献身を通して、キリストの救いが示され、その結果、世界中すべての民が祝福されます。そのキリストはアブラハムの子孫から生まれます。キリストの福音は全世界に宣べ伝えられます。それは現実に起きていることです。

 
4.アブラハムへの約束=私たちへの約束
 
 
もう一度、ガラテヤ3:29を引用します。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」私たちがキリストに属する限り、私たちはこの約束の相続人なのです。ローマ4:16も引用します。「世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、・・・アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」つまり、アブラハムへの約束は、キリストを信じて、キリストのものとなる私たちに対する約束とイコールなのです。これは驚くべきことではありませんか。この事実を本気で捉えたならば、恐いものなしです。この年、主のお約束を信じましょう。
 
5.祝福には、条件がある(1節)<地図>
 
 
2−3節の祝福の約束は、「そうすれば」ということばに続いています。何をすれば、なのでしょうか。それは、1節にある命令のことです。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』」

ここには、「出なさい」と「行きなさい」と二重の命令があります。

@出なさい:
アブラムは、BC2千年頃カルデアのウル(ユーフラテス川の河口近く)という所で生まれ育ちました。そこは月の神を拝む偶像崇拝の中心地でもありました。そこから家族一同で川のはるか上流のハラン(あるいはカラン)に移り住みました。この12:1の命令は、そこから更に引っ越すようにとの新たなもので、全家族と言うよりも、アブラムとその下にあるものだけに与えられたものです。「出なさい」と言う命令は、アブラムが慣れ親しんだ習慣や考え方との決別を意味していました。さらに、温かい家庭的な交わりとの決別も意味していました。通常、温かい家庭の交わりは大切です。しかしこの場合、アブラムは真の神とともに新出発をするために、その家庭から離れるように命じられたのです。この年、どんな習慣でも、関わりでも、主がそこから離れなさいと語っておられるものはありませんか。思い切って古いものを捨て去って、新出発をいたしましょう。

A行きなさい:
更なる困難は、行く先が分からないのに出発しなさいと言う命令でした。それこそが、「導いてくださる神」への信頼の証でした。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)と記されている通りです。2002年1月私達は、30年間住み慣れた広尾の土地を去って御茶ノ水の仮集会場に引っ越しました。複数の土地候補についての調査と交渉は続いていましたが、決定ではありませんでした。正に信仰による出発でした。あれから9年、主は今ここで献堂8周年を迎えようとしています。主の聖名をさんびいたします。
 
6.アブラハムは従った(4-5節)
 
 
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。」(4-5節)

「アブラムは・・・出かけた。」とは、何と単純な言葉でしょうか。議論も無く、躊躇も無く、質問もありませんでした。直ちに主の命令に従ったのです。その単純さがアブラハムの祝福の秘密でした。
 
7.私たちも、主に従い続け、「祝福」とさせていただこう
 
 
この一年、主の語ってくださるご命令に対して、喜んで、躊躇なく従い続けるものでありたいものと思います。その時、私と言う存在を通して、豊かな祝福が周りに及ぶことでしょう。その約束を確信し、明るい信仰をもって2011年を始めましょう。
 
お祈りを致します。