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聖書テキスト |
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12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。 |
16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 |
19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。 22 悪はどんな悪でも避けなさい。 |
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はじめに:文章の流れを見る |
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今日は、昨年11月にクリスマス講壇に入ってから中断していました連講に戻ります。前回は、15節の「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」のところで終わりました。今日はその続きとして16-18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」です。文語ではもっと簡潔で、「常に喜べ。絶えず祈れ。すべての事、感謝せよ。」です。覚えやすいだけではなく、クリスチャンとしての理想的なあり方を示すものとして、最も有名な聖句の一つです。いきなりこの節に入る前に、その前後の流れを見たいと思います。 |
12節から24節までは、「キリスト者としての生き方」についての教えと捉えることができます。これは、3:10で「信仰の不足を補いたい」と語ったパウロの重荷を具体的に示す教えです。特に、聖化の生活とは何かを示すものです。 |
・お互いの心遣い(12-15節): これは「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」(15節)ということばで纏められます。指導者への尊敬、信徒間の平和、気ままな人・小心な人・弱い人・悪をなすものへの配慮が勧められています。 |
・個人的な心の姿勢(16-18節): その後、私たちの個人的な心の持ち方として、「喜び、祈り、感謝すべき」ことが教えられます。 |
・弁別力の必要(19-22節): この後に、弁別力の必要が語られます。 |
・聖化への祈り(23-24節): 聖化への祈りで締め括られます。 |
さて、今日の本題である、16-18節に目を向けます。この三つの命令は、別々なものではなく、「神がすべてこのことを支配し、すべてを益としてくださる」という信仰から生まれる信仰者の心のあり方を述べています。では、一つ一つ見て行きましょう。 |
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1.いつも喜んでいなさい(16節) (pantote xairete=すべての時に喜び続けなさい) |
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・苦しみの中にも喜ぶ: この手紙を貰ったテサロニケの信徒も、また、この手紙を書いているパウロも、迫害という厳しい状況に曝されていました(2:14、3:3-4)。ですから、人間的に言えば、のほほんと喜んでいられる状態ではなかったはずです。しかし、パウロは、言います。喜べと。つまり、いかなる苦難も、主の与え給う喜びを打ち消すほど大きくはありません。パウロ自身、牢屋の中で、主を賛美し、祈りをささげていました(使徒16:25)。 |
・自然感情以上のもの: ですから、ここでパウロが言っている喜びとは、人間が自然感情として持っている喜びとは次元の異なるものです。通常、人間の喜びとは、現在的に良いものを持っている、心地よい環境にある、あるいは、希望に満ちた将来が約束されている時に起きるものです。当然それは、状況によって変わります。すべてが順調に行けば喜び、邪魔が入ると怒ったり、悲しんだりします。贔屓のスポーツチームが勝てば喜び、負ければがっかりする、という次元の喜びです。しかし、パウロが語っている喜びは、これとは別次元のものです。 |
・それは聖霊が齎す喜び: クリスチャンの喜びの源は聖霊にあります。ローマ14:17においてパウロは、クリスチャンの喜びは、飲食にあるのではなく、「聖霊による」のだと語っています。聖霊が私たちの心に宿り、聖霊が喜びを生み出してくださるのです。ガラテヤ5:22でも、クリスチャンの喜びとは、聖霊と歩むことによって生み出される賜物だと語られて今す。 |
・喜ぶ理由: クリスチャンは、現在的に言えば、罪赦された大いなる救いを持ち、将来的に言えば永遠的な命に活きる望みをもちます。また、すべてのことを相働かせて益となし給う神を知っていますから、喜ぶ十分の理由をもっています。ペテロの言葉を引用します。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Tペテロ1:5-9)正にクリスチャンこそは、「悲しんでいるようでも、いつも喜んで」(Uコリント6:10)いることができる不思議な存在なのです。一般的に言って、クリスチャンは厳しい環境に何時でも直面させられます。しかし、その環境に目を注ぐのではなくて、それらを支配しておられる主に目を注ぐ時、内から喜びが湧き上がってくるのです。 |
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2.絶えず祈りなさい(17節) (adialeiptws proseuxesthe=中断することなく祈り続けなさい) |
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・神に依存する人間: 「祈れ」と言う命令は、「喜べ」という命令に繋がっています。「喜べ」との命令が、自分自身や周りの出来事から目を離して、それらの背後にあって支配し、すべてをよきにしてくださる神に目を注ぐ姿勢を示唆しているように、「祈れ」と言う命令も、神のご支配への信仰から生まれます。私たちの力は全く虚しく、内におられる聖霊の力のみが働くものです。だからこそ、祈りが必要となってきます。つまり、私たちは、すべての活動において、神の力に全く依存的なのです。だから絶えず祈るべきなのです。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4:2)と記されている通りです。大きな出来事、小さな出来事、あらゆる環境にあって、祈りのことばが自然に口をついて出てくるものです。 |
・祈りの心の継続: 祈りとは単なる願い事の羅列ではなく、神との交わりであり、父なる神の臨在の自覚です。私たちは祈りのことばを四六時中声に出すことは不可能です。また、一日24時間跪いていることも不可能です。パウロは、そのような祈りの「形」の継続を勧めているのではありません。彼が勧めているのは、神に全く依存し、その力を依り縋ると言う祈りのスピリットの中に生きることなのです。それは可能であり、必要であり、そして恵みです。 |
・「祈りの時」も必要: 一日祈りのスピリットにいれば、祈りのために聖別す「祈りの時間」は要らないのでしょうか。全く反対です。祈りのスピリットに生きていれば、それは当然、特別な時をとって主の前に跪き、祈りを口に出す、特に執り成しのための時を持つという行動に現れるはずです。個人として、いわゆるデボーションの時を持つ、朝に昼に夕に、また夜に時を買い占めて祈ることは必要であり恵みです。また、共に祈る祈りを大切にします。祈祷会への出席は義務というよりも喜びとなるはずです。グループでの祈りにも力が入るはずです。絶えず祈りましょう。 |
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3.すべての事について、感謝しなさい(18節a) (en panti euxharisteite=すべてのことにおいて、感謝し続けなさい) |
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・感謝の源: 三つの命令の最後は感謝です。これもまた、福音の中心的な真理から湧き出てくるものです。世の人々は、喜ばしい出来事のときには楽しくなり、悲しむべき出来事の時には呟きます。しかし、神がキリストを通して私たちをすくってくださると言う真理が分かりますと、態度が変わります。神はその御目的を成就なさりつつあり、その証拠が私たちの生活の中に現れるのですから、そのすべてに対して感謝が湧いて参ります。 |
・「すべて」には、あらゆる環境が含まれる: すべてのことの中には、喜ばしいことも悲しいことも、富める環境も貧しい環境も、健康な状態も病の床も、皆含まれています。患難は嬉しいものではありません。しかし患難の只中にあっても、それを大いなる目的のゆえに許しなさる神の愛のゆえに感謝することができます。 |
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4.これらは私たちへの神の求め(18節b) (touto gar theleema theou en Xristw Ieesou eis hymaas=これこそ、あなたがたに対して神がキリスト・イエスにあって望んでおられることです。) |
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・「これ」とは: 「これこそ・・・神がキリスト・イエスにあって望んでおられること」とあります。「これ」というのは単数ですから、「感謝をすること」と限定して解釈する人もいますが、私は、喜び、祈り、感謝のすべてに関わるものと思います。というのは、この三つは、先に見たように三つの別々な命令ではなく、神の支配と恵みをしっかりと捉えるという点では同じ心の態度の三つの現われだからです。 |
・神の求め: パウロは、喜び・祈り・感謝が「神の望んでおられること」だと言います。「望んでおられること」とは、「テレーマ(意思、御心)」です。神は、クリスチャンが呟いたり、祈りを怠ったり、恩知らずであることを望みません。神の期待(というよりはリクエスト)は、喜ぶクリスチャン、祈るクリスチャン、感謝に溢れたクリスチャンを見ることです。 |
・ジョン・ウェスレー: ジョン・ウェスレーは、「クリスチャンの完全」の中の「メソジストの人柄」という項目で、こう語っています。長いですが引用します。 「メソジストとは、心を尽くし、精神を尽くし、・・・主なる神を愛する人である。神がその人の心の喜びであり、魂の望みである。・・・心の内に広がっている全き愛が恐れを締め出し、その人はいつも喜んでいる。・・・(第一ペテロ1:3-4の引用の後)この希望を持ち、不死の命に満たされた者は、すべてのことに感謝する。それは、これが何であろうとキリスト・イエスにあって父なる神の御心が自分に求めていることであると知っているからである。順調な時も苦しみの時も、病める時も健やかな時も、生きている時も死ぬときも、その人は心の底から全てのことを善に変えてくださる神に感謝し、その御手に・・・心も身体も全く委ねる。・・・その人は「絶えず祈る」。いつでも何処でも、その人の心は神を仰ぐ。誰にも何事にも妨害されず、中断されることは無い。ひとり静まる時も仲間といる時も、休息中も仕事中も、お喋りをしている時も、その人の心は主とともにある。」(「キリスト者の完全」p.41-43) |
・キリスト・イエスにあって可能: 「キリスト・イエスにあって」ということばが、この命令に重さを加えます。キリストにあってとは、キリストがそれらを可能にしてくださることを示します。私たちは、いつでも喜んでいるとか、絶えず祈るとか、すべてのことに感謝するなんて人間のできる業ではない、そんなのは無理だ、と決め付けがちです。そうかもしれません。でも、キリストにあってそれは可能です。キリストの贖いに目を向け、キリストの贖いを心から信じ、活けるキリストを信仰によって捉えますと、喜び・祈り・感謝がいわば自然となってきます。 |
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おわりに |
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・怒り、焦り、呟きの原因を反省しよう: この年、この御言を標語とした方もあるでしょう。そうでない方もあるでしょう。どちらにしましても、喜び、祈り、感謝するクリスチャンとなりましょう。反対に、喜ぶよりも悲しみに沈み、祈るよりも焦り、感謝するよりも呟くクリスチャンとならないように、主の助けをいただきましょう。 |
・喜び、祈り、感謝を実行しよう: 喜び、祈り、感謝するクリスチャンに対してサタンの付け入る隙はありません。風邪のウイルスがどんなに流行っていても、抵抗力があり、また、手洗い・うがいを続けると、それに感染されないように、どんな薬に勝って、喜び、祈り、感謝を続けますと、勝利が与えられます。信じましょう。 |
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