礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年1月23日
 
「限界に挑戦する」
総会礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
歴代誌第一 4章9-10節
 
 
[中心聖句]
 
  10   「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」
(T歴代誌 5章10節)


 
聖書テキスト
 
 
9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
 
はじめに
 
 
第63次教会総会を迎えました。ということは、丸の内教会が誕生して63年を迎えたことを意味します。1948年に信仰によってゼロから出発した丸の内の群れを、主は祝し、拡大させてくださいました。1973年には、広尾に会堂を与え、主都中央教会として確立を許してくださいました。2003年には、この中目黒に土地と新会堂を与えて、新しい出発の機会を与えてくださいました。

この会堂に移りましてから七年余りが経過し、落ち着いた教会活動が許されています。それはそれで感謝なのですが、一つの危険があります。それは、現状に満足し、それ以上の成長を止めてしまうことです。

この総会に当たって、ヤベツの祈りが示されました。特に心に留まったのは、その祈りの中の「地境を広げてくださいますように」というくだりです。この言葉を中心にいくつかのコメントを加え、総会メッセージと致します。
 
1.ヤベツという人物
 
 
・砂漠のオアシス:
ヤベツという人物が登場するのは、イスラエルの系図が紹介されている歴代志第一の1-9章までの真ん中辺です。砂漠のように無味乾燥で、カタカナがずらずらと並んでいる中で、この4:9-10の二か節だけがオアシスのように潤いのあるエピソードとして紹介されています。

・「苦しみの子」:
このヤベツは、お母さんが苦しみの中で生んだ子供でした。どんな苦しみか書いてありませんが、相当の難産で、その故に身体的にハンディを持って生まれてきたと想像されます。名前自体が「悲しみ」「苦しみ」です。尤も、ヤベツの語根であるヤーバツ(ybz)の意味が不明なため、ヤーツァブ(yzb=悲しませる、痛める)をひっくり返したものと考えられます。日本語ではちょうど、種(タネ)をネタとひっくり返して言うようなものです。ヤーツァブの名詞であるヤツェブとは「悲しみ、痛みをもたらす人」「悲しみ」「痛み」です。多分、「かなしみ」君ではちょっとストレートすぎるので「かなみし」君としたのかなと私は想像します。ともかく、こんな名前が付けられ、しかもハンディを負って一生を過ごすということ自体が苦しみだったことでしょう。
 
2.ヤベツの祈り
 
 
・祈りの人ヤベツ:
しかし、このヤベツは、そうした「運命」に挫ける男ではありませんでした。生い立ちの辛さがあればあるほど、彼は神を恨むどころか、神により頼み、その災いを逆転しようという積極的発想を持ちました。

・大胆な祈り:
その祈りが、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」という祈りでした。ずいぶん欲張った祈りです。
@大いなる祝福:中途半端ではない、大いなる祝福を祈りました。
A地境の拡張:これは後に触れます。
B神の臨在と干渉:神の御手が共にあるように
C災いからの脱出:これ以上の苦しみから逃れること

・真剣な祈り:
ヤベツは、この祈りを大声で呼ばわって言ったのです。ひそひそとこそこそと祈ったのではありません。お母さんにも聞こえ、兄弟達にも聞こえるくらいの大声で、しかし、彼らにあてつけに祈ったのではなく、直接神に向かって祈ったのです。神は彼の祈りを聞いてくださいました。それを叶えてくださったのです。
 
3.地境の拡張について
 
 
・地境の拡張は原則ありえない:
そもそも、といっては何ですが、イスラエルにおいて、地境の拡張という発想は馴染みのないものでした。というのは、イスラエルの土地制度というのは先祖代々固定したもので、土地を売買するということはありえないというものだったからです。それは、土地は神に属し、神から家族ごとに割り当てられたという考えに基づいていました。従って、先祖の地境を移してはならない、という教えが申命記、箴言などに繰り返し強調されています。例えば申命記 19:14には、「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」とありますし、申命記 27:17にも「『隣人の地境を移す者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい。」とあります。箴言22:28には、「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。」とあります。箴言 23:10にも「昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑にはいり込んではならない。」とあります。土地が借金の担保として他人の手に渡った場合でも、決められた年には、元の所有者の所に返ってくるべきものでした。

・「非常識な」祈り:
ですから、ヤベツの祈りは、常識を超えた祈りと言わねばなりません。兄弟が多くいて、土地が細分化され、しかも、弱者であるヤベツには、一番小さい部分があてがわれていたのかもしれません。ヤベツは、それに敢えて挑戦しました。つまり、常識への挑戦、限界への挑戦、不可能への挑戦だったのです。いかなる形であれ、自分の土地を広げて下さいと、大胆に祈ったのです。

・主の喜び:
主は、この祈りを嘉してくださいました。神は、真実な訴えには必ず耳を傾け給います。特にヤベツのように、ヤコブのように、食い下がって祈る方を、主は喜びなさいます。具体的なプロセスは書いてありませんから分かりません。ともかく、ヤベツは土地持ちとなり、小さいとき疎んじられていた兄弟達からも重く見られるようになりました。
 
4.私たちへの挑戦
 
 
・自分で「限界」を定めてしまう傾向:
私たちも、常識の壁、能力の壁、かつての経験値という壁、いろいろな壁に囲まれています。ここまではできるが、これ以上は無理だ、と言う具合に、自分で自分の地境を定めている場合が多いのです。ネット社会に入りまして、殆どすべてがインターネットで決済される社会になりました。それでも、私の年でパソコンなんて無理だ、私で言うとアイフォーンとかは手に負えないとか自分で限界を決めてしまうことがあります。それはそれで良いのですが、しかし、主の御用のために必要ということになれば、その限界は乗り越えるべきものなのです。

・ヤベツに倣おう:
ですから、大胆に、ヤベツのように、限界と言うその壁を破ってくださるように祈ろうではありませんか。個人の生活でも、家庭でも、事業でも、自分で定めた限界を打ち破る祈りを捧げましょう。主が私たちの地境を広げくださるように祈りましょう。聖書の中では決して有名ではない、たった二か節しか言及されていない全くマイナーな人物ヤベツが、彼の捧げた真実な祈りと、それに対する神の答えの故に、こんなにも大勢の人々への励ましとなっているというのは驚くべき事です。きっと一番驚いているのは天国のヤベツ自身ではないでしょうか。私は「ヤベツの祈り」という本の著者であるウィルキンソン氏の、やや一面的な「成功信仰」強調にいささか危惧を感じますが、ヤベツの単純な祈り、信仰には敬服しています。特にウィルキンソン氏が「地境を広げてください」というヤベツの祈りを、私達に適用して「証の機会を広げて下さい」と祈っている所に興味を覚えました。あの人はダメ、福音に関心はなさそう、あの人は性格が頑固そうだから福音を受け入れるはずが無い、私はとてもシャイだから福音を伝えることなんてできない、と限界を感じましたら、「私の証の地境を広げて下さい」と祈ろうではありませんか。

・教会の挑戦:
教会としても、この年、昨年のように5つのミッションステートメントを掲げました。どれ一つをとっても実現可能な易しいものではありません。しかし、私たちは新約聖書の示している教会の姿はこれであるということを確信しこれらのステートメントが主のみ心に適ったものとして掲げ、捉えました。具体的には後ほど説明しますが、教会一丸となって、この実現のために祈り、共に労しようではありませんか。今の日本は教会の内も外も閉息感が支配していて退嬰的なまた悲観的なムードが支配しているように見えます。その現実を重く受け止めながらも、それに支配されない信仰が必要ではないでしょうか。ヤベツのように、私を大いに祝福し、私の地境を広めて下さいと大胆に主に祈り、確信に立って進もうではありませんか。
 
お祈りを致します。