礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年1月30日
 
「全ききよめへの祈り」
第一テサロニケ書連講(19)終講
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ5章19-28節
 
 
[中心聖句]
 
  23   「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」
(Tテサロニケ5章23節)


 
聖書テキスト
 
 
19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。 22 悪はどんな悪でも避けなさい。
23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
25 兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。
26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをしなさい。
27 この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。
28 私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。
 
はじめに
 
 
前回は、19節「御霊を消してはなりません。」を取り上げました。私たちの不注意なことば、不敬虔な行動などによって内に居給う聖霊を憂えさせたり、そのお働きを止めてはならなりません。私たちは、霊的な敏感さをあらゆる面でもつべきです。

さて今日は、この手紙のしめくくり的な祈りを学び、この連講を終えます。
 
A.徹底的にきよく!(23節a)[イラスト@]
 
 
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」(Autos de ho theos tees eireenees hagiasai hyumaas holoteteis)

 
1.きよめるのは神ご自身:人間の努力ではできないきよめを、神は行ってくださる
 
 
パウロの祈りは、「デ」という小さな接続詞から始まります。新改訳聖書では訳されていません。この「デ」とは、「それで」とか「また」というふうに使われることも多いのですが、本来、前の表現を否定して「しかし」と考えるべき言葉です。前の節からの続きとすると、「悪を避ける」という努力や決意も大切だが、充分ではない、神ご自身のみ業が必要です、と繋がる「しかし」です。

きよめの業は、神ご自身がなさるということが、「アウトス」(自分で)と言う言葉で示されています。他の者に任せるのではない、人間自身の責任に任せるのでもない、ちょうど外科のお医者さんが、自分でメスを振るって手術をするように、神が私たちのガンである罪を除かれるのです。素晴らしいことではありませんか。

その神様は、平和の与え主であり、源であり給います。神はキリストを通して人類との平和を作り上げなさいましたが、その平和の関係を、きよめという形で深めなさいます。
 
2.クリスチャンのための祈り:残っている罪を除く
 
 
もうひとつ言えることは、この祈りは信仰者のための祈りであるという点です。パウロはテサロニケ信徒のために祈っています。未信者のためではありません。ということは、信仰者が、真にきよめぬかれるようにと祈っているということです。パウロは、テサロニケ信徒たちが、幾つかの点で未だきよめられていないと感じていました。性の倫理について、互いの尊敬や調和について、節制や勤勉について、足らないことを感じていました。パウロは、この点まで神の救いの恵みが及ぶように祈っているのです。私たちも、自分の怒りっぽい気質、憎しみ、嫉妬、ごまかし、などなど、考えてみると、きよめられなければ所を沢山持っていないでしょうか。パウロの祈りを自分に当てはめたいと思います。
 
3.中途半端ではなく・・・
 
 
パウロはここで「きよめてください」と祈っているのですが、「きよめる」と言うことばは「ハギアゾー」です。これは「分離する」という意味です。他のお仕事ではなく、神のお仕事のために取り分ける、という意味にも使いますが、この場合は、この世の汚れ、内なる罪、神の目的から離れた思い、言葉、行いを取り去って、心を尽くして神を愛し、隣人を愛するものにすることです。

しかも、このハギアゾーはギリシャ語のアオリスト形で表現されています。動詞のアオリスト形とは、継続的動作ではなく、一発勝負で行う動作のときに使われます。つまり、徐々にきよめてください、という祈りではなく、一度にスパッとやっつけてください、という祈りです。もちろん、神が業をなしてくださったからといって、信仰者がその後きよめの中に成熟し、また、きよめられ続けるという必要性も聖書全体のメッセージですから、一度手術すればそれでおしまいというわけではありません。ただ、神の側での完全なみ業を先ず経験し、そして、その維持のために信仰を働かせていくというのが聖書全体のメッセージです。
 
4.徹底的に:きよめられない部分がなく、しかも徹底して
 
 
きよめてください、と言う動詞を修飾する副詞は「全く」(ホロテロス)です。これは、ホロス(全部)とテロス(完全)という言葉の合成語です。すべての分野で、人を完全にするほど徹底的にきよめるという意味です。きよめられない部分が何も残らないまでに、という意味です。ルターは、これを「徹頭徹尾」と訳しています。人間が徹頭徹尾きよめられるはずはない、と考えるクリスチャンは多くいます。多くの場合、それは神の全能を信じないというよりも、きよめられると人間的でなくなるから、ほどほどにきよめてほしいと願っているからではないでしょうか。私は言います。神の与え給うきよめは、徹底的なきよめであり、しかも、人間を最も人間的にする道であるということです。今、鳥ウィルスが流行り始めました。千羽の鶏の950羽まで処分したから、まあ大体これでいいじゃないか、と関係者は言いません。疑わしきものを徹底的に処分し、しかも車で移動する場合にもタイヤを消毒すると言う徹底振りです。神はこれを私たちに当てはめてくださるのです。それによって、私たちがつまらない人間になるのではなく、最も活き活きした明るい、豊かな人間性を備えた人物に作り上げなさるのです。
 
5.パウロは祈りの答えを信じていた
 
 
さて、パウロはこの祈りを真剣で現実的課題として祈っているのです。そうあればよいなあという単なる(到達不能な)理想として祈っているのではありません。私は、霊感された著者が、そのような願望的な祈りを記すはずはないと単純に信じています。つまり、パウロは、これが可能と信じて祈っているのです。そんなことは理想に過ぎないと一蹴してしまうのは、人間の浅知恵でありましょう。主の全能を信じましょう。
 
B.きよく保って!(23節b)[イラストA]
 
 
「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(kai holokleeron yumoon to mneuma kai he psyuche kai to sooma amemptws en tee parousia tou kuriou heemwn Iesou Christou teereetheiee.)

祈りの第二の部分については、簡潔に触れるだけにします。
 
1.きよめの中に保たれるように
 
 
きよめへの祈りに続く祈りは、保たれるようにとの祈りです。この祈りは、前半の祈りの補足で、全ききよめがなされた後に、その状態が保たれるようにとの祈りです。神のきよめの業は、一度にはっきりとなされるものですが、それで終わりではありません。「きよめられた」クリスチャンでも、誘惑の中に生き続けます。それに負けて罪に陥る可能性をずっと持っています。きよめられることは、罪が不可能になってしまうのではありません。人間が自由である限り、罪を犯す可能性を持ち続けます。その罪に陥ることの無いようにとパウロは祈るのです。
 
2.全存在がきよく
 
 
パウロは、きよく保たれるのは「霊、魂、からだ」だといいます。「霊、魂、からだ」という時、必ずしも人間がこの三要素によってなりの三元論を主張しているわけではありません。私たちの全存在を指しているのです。つまり、私たちの人間性すべて、愛情、意志、想像、動機、生活、もちろん体の使い方のすべてがきよく保たれるようにとの祈りです。

全存在と言う意味を補っているのが、「全く」(ホロクレーコン)ということばです。ホロクレーコンとは、各部分が全部欠けなく揃っている、というイメージです。私たちの生活・心・仕事・家庭のどの部分を切っても、それが主に仕え、主を愛する目的のために用いられるようにとの祈りです。
 
3.責められるところなく
 
 
パウロは、「全く」ということばを更に「責むべきところなく」ということばで説明します。これは、完全無欠な、欠点のない(つまらない)人間になることを祈っているのではなく、私たちの動機において、神を愛する愛、となり人を愛する愛という動機において、責められることがない状態を祈っているのです。これは、信仰者として可能であり、必要なことです。
 
4.キリストの再臨に備えよう
 
 
きよめの生活は、キリスト再臨を意識するときに現実となります。つまり、私たちがその日を意識しながら、その日に向けて完全に保たれるようにとの祈りです。その日にパッと完全になるのではなく、或いは、その日に向けてタイムテーブルのように徐々にきよめられていくのでもなく、その日がいつ来てもよいように完全な状態で待ち望むことが祈られています。
 
C.神は必ず答えてくださる(24節) [イラストB]
 
 
「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Pistos ho kalwn yumaas, hos kai poieesei.)

 
1.私たちはきよめに向けて召されている
 
 
神が私たちをクリスチャンとして世の中から呼び出してくださった(召していてくださった)のは、聖い生活を送るためです。「神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」(4:7)と記されている通りです。
 
2.神は、その目的を実行なさる
 
 
このみ業を保証するものは、人間の努力によるのではなく、神の力です。神は私たちに無理をせよと命じなさる方ではありません。神は救いを実行なさる力あるお方です。私のこの弱い性格は絶対直らない、私の悪い癖は絶対直らない、とダメだしを自分に突きつけている人がいませんか。神は私たちを徹底的に救いなさるお方です。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)と約束されている通りです。
 
3.神の真実が、きよめの保証
 
 
神は真実ですからそれを行ってくださいます、とパウロは、自分の祈りの答えを保証します。神は、御言に対して忠実です。これを行うと約束されたことを、間違いなく実行なさいます。もし、仮に私たちのがわでこれに応答すべき分野があるとすれば、それはただ一つ神の真実に応答する信仰だけです。
 
おわりに
 
 
「この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」(27節)という締め括りのことばの重みを味わいましょう。この手紙が周りの信徒たちにも回し読みされるようにとの要請です。つまり、この内容はテサロニケ信徒だけに当てはまるのではなく、周りの信徒、ひいては私たちにも適用されるべきなのです。私たちも神からの教えとしてこれをしっかり受け取らなければなりません。

この祈りを私たちの祈りとして、真実に祈ることをもって、連講を閉じます。ご一緒に祈りましょう。