礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年2月6日
 
「私も、私の父の家も、罪を犯し」
ネヘミヤ記連講(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記1章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  6   まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
(ネヘミヤ記1章6節)


 
聖書テキスト
 
 
1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、2 私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、5 言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。
6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。
8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。
11 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。
 
A.ネヘミヤ連講に当たって(メモの「ネヘミヤ記について」参照※)
 
 
※メモ「ネヘミヤ記について」は、こちらをクリックして下さい。

 
1.ネヘミヤ記を学ぶ意義:神のコミュニティ建設
 
 
テサロニケ第一が終わり、次の連講としてネヘミヤ記を選びました。ネヘミヤは、エルサレムの城壁を建て直すという大事業と共に「神の民」というコミュニティを建て直しました。現代において、私たちは教会というコミュニティを立て上げようとしています。その意味で、このネヘミヤ記の学びは大きな光となることでしょう。
 
2.ネヘミヤという人物
 
 
・名前:
ネヘミヤという人は、紀元前5世紀に生きたユダヤ人です。名前の意味は「主の憐れみ」です。

・信仰深い家庭背景:
父の名前はハカルヤですが、この人については何も分かりません。ハナニという兄弟いて(1:2)、後にエルサレム市長となりました(7:2)。ネヘミヤは、ペルシャ生まれ、ペルシャ育ちのユダヤ人でしたが、敬虔な両親に育てられ、イスラエルの歴史に通暁していたと思われます。それは、彼の祈りの中に反映されています。

・ペルシャ帝国時代:
さて、ネヘミヤ時代の世界帝国は(アッシリヤ、バビロンが滅びた後の)ペルシャでした。ペルシャの王はアルタシャスタ(歴史ではアルタクセルクセス)で、その支配はBC465-424年でした。BC450年ごろのペルシャは、エジプト、ギリシャ、シリア地方の反乱によって不安定な状況にありました(「地図」参照)。そのような背景がユダヤ人を支持し、ユダヤ人の支持を得たいと言うアルタシャスタ王の姿勢の背景にあったと考えられます。

・アルタシャスタ王の献酌官:
ネヘミヤは、ペルシャの首都シュシャン(スサともいう)において、アルタシャスタ王の献酌官を務めていました(1:11)。献酌官とは、王さまの生死を握る大変な高官です。王さまの飲み物・食べ物の毒見役でもあり、相談役でもあったからです。彼は王の信任を得てユダヤ総督となり、エルサレムの城壁再建と言う事業を成し遂げます。また、捕囚から帰還して間もないイスラエル社会を「神の民の共同体」として纏め上げます。
 
3.ネヘミヤ記:ネヘミヤの備忘録
 
 
そのネヘミヤの備忘録がネヘミヤ記です。13章あるネヘミヤ記のそこここに、「私がこれを行った」という一人称単数の書き方があり(1:1)、「・・・してください」(例・5:19)という祈りが散りばめられていることからもそれが分かります。ネヘミヤ記の内容については、別紙のアウトラインをご参照ください。
 
B.ネヘミヤの祈り(1:1-11)
 
 
今日は、第一章の「ネヘミヤの祈り」を学びます。
 
1.祈りのきっかけ(1-3節)
 
 
「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
 
・出来事の背景:
時代については「第二十年のキスレウの月」とありますが、これは、ペルシャ王アルタシャスタの即位から20年、つまり、BC445年です。「キスレウの月」とは、ユダヤ暦の9月、太陽暦で言えば12月です。「シュシャンの城」とは、ペルシャの首都シュシャン(スサ)における王宮のことです。そこでネヘミヤは、王の献酌官として、いつもと同じ勤務を続けていました。

・ニュースを齎した人々:
そこに、故国パレスチナからのニュースが入って来ました。「故国」と言いますが、ネヘミヤの「生まれ故郷」ではありません。彼の属しているユダヤ人社会のホームグラウンドという意味です。ちょうど在日の韓国人の方々が、何世代に亘って日本に住んでいても、矢張り彼らの故郷が韓国であるのと似ています。ニュースを齎したのは「親類のひとりハナニと一緒にユダからやって来た数人の者」でした。

・ニュースの内容(メモの「ネヘミヤ時代の年表参照」):
エルサレムに居る人々(これは元々捕囚を逃れて残留していた人々と、捕囚が終わって帰還した人々との混成旅団であったと思われますが・・・)が「非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」と報告しました。エルサレムが火で徹底的な破壊を受けたのがBC586年で、ネヘミヤの活動はその140年後ですから、このニュースがエルサレムの破壊と滅亡のニュースでないことは確かです。そうではなくて、帰還者が神殿を建設した516年前後に仮に作られた城壁が更なる破壊を受け、安定した生活が脅かされている状態を指しているものと思われます。この当時、町の城壁が壊れ、門が焼かれて開けっ放しということは、今日でいえば、ドアが壊れ、壁に穴が開いたままの家に住んでいるような不安な状態にあることを意味していました。一体誰がこのようなイジワルをユダヤ人に行ったのでしょうか。それはこのネヘミヤ記の文面から容易に想像がつきます。周辺のサマリヤ人、アラビヤ人、アモン人がユダヤ人の故国への帰還と定着を喜ばなかったからです。彼らはエルサレムの安定を喜ばず、その破壊を絶えず狙っていました。

 
2.ネヘミヤの嘆き(4-5節a)
 
 
「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。」
 
・嘆きと服喪:
ネヘミヤは「すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈り」ました。何と純粋な魂だろうかと私は感動を受けました。かつてエルサレムが徹底的に破壊された時、エレミヤも同じように嘆き悲しみましたが、ネヘミヤの慟哭はそれに等しいものです。ネヘミヤが聞いた破壊のニュースは、140年前のそれと比べればずっと小規模であったと思いますが、ネヘミヤは純粋に国を憂い、同胞の痛みを自分の痛みとしました。

・断食:
断食の習慣は、捕囚時代に一般化したと言われています。特に、エルサレムが陥落した10月10日(今の1月ごろ)は、その悲しみを覚えて皆で断食する習慣が定着していました。その断食をネヘミヤは実行したのです。考えて見ましょう。ネヘミヤもその家族も、捕囚以来140年外国で生活しています。ちょうど、在日韓国人の人々が戦争以来60年余り日本におられるのと似ています。在日3世、4世が生まれつつあります。ネヘミヤは先祖がバビロンからペルシャに帝国が移ってから5世代位になっていたことでしょうか。故国の土を一度も踏んだことの無いディアスポラです。それでも、故国の痛みを自分の痛みとして受け止めました。

・祈り:
祈りの内容が5節以下です。
 
3.ネヘミヤの訴え(5節b-6節a)
 
 
「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。」
 
・天地の創造者・支配者に対して:
ネヘミヤは、天地宇宙を支配し給う偉大な神に目を止めました。

・契約を守る真実な方として:
その神は、約束を守られる方であると言う神の真実に訴えました。神の真実に訴えるという事は、「もしあなたが答えられなかったら、あなたの評判が落ちますよ」という(ことばは悪いですが)一種の脅しです。自分の都合や必要から訴えるのではなく、神の聖名と評判の為に祈ったのです。「ここでイスラエルの民を見捨てたら、約束に忠実と言うあなたの性質と矛盾するのではありませんか」と迫ったのです。ここにネヘミヤの訴えの迫力があります。私たちの祈りもこのようでありたいものですね。「私が困っていますから、私の家族が大変ですから、私の国が大変ですから助けてください。」という祈りは、クリスチャンでなくても多くの人がしています。しかし、私たちはもう一歩進んで、神の側に立って祈りたいものです。
 
4.ネヘミヤの告白(6節b-7節)
 
 
「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯したイスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。」
 
・罪の告白から始まる:
ネヘミヤの祈りは、一面大胆ですが、他面、非常に謙った祈りです。かれはその祈りを罪の告白からはじめました。ネヘミヤ自身は先祖の罪に直接関わってはいませんでした。年代的に言っても、イスラエルの捕囚は、BC8世紀ころから続いた代々の王さまと民の偶像礼拝によるものでした。北イスラエル国がBC722年アッシリヤによって、南ユダ国がBC586年バビロンによって滅ぼされたのは、彼らの罪の故でした。ネヘミヤはその罪の結果として起きた捕囚世代に生まれ育ったのです。捕囚によって民は偶像礼拝を悔い改め、そこから足を洗って、唯一神の信仰を確立しました。ですから、ネヘミヤは、「自分は、先祖の罪とは関係ない」と言い得る立場だったのです。しかし、です。ネヘミヤは、このエルサレムの窮状の中に民族の罪の結果を見、それをわが身に背負ったのです。罪の告白の大切さについてはソロモンが「捕囚を想定して」その際の悔い改めの大切さを述べているところです。「彼らがあなたに対して罪を犯したため・・・あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地・・・に、捕虜として捕われていった場合、彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、捕われていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、・・・私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。」(歴代誌第二6:36-39)

・私たちの戦争責任:
今から70年余り前に始まった(正確には始めたと言うべきでしょう)日中戦争、それに続く太平洋戦争の原因について、色々な考え方がありうるでしょう。不可避的なものであったか、避けられ得たものであったかについても意見が分かれましょう。戦争観について「自虐的過ぎる」という言い方をする人もありましょう。どのような評価がなされるにせよ、中国・韓国・フィリピンを始め、多くのアジアの国々が日本の加害行為に対して癒しがたい傷を負っているという事は事実として認めねばなりません。それは、「軍部のやったことで、私たちには関係ない」のでしょうか。「70年前だから、もう忘れても良い」のでしょうか。私は、このネヘミヤの祈りの中に、過ちを犯してしまった先祖たちと自分とを一体化して、神の前に悔い改める謙ったスピリットを見ます。彼は「私と私の父の家とは」と言いました。「私」の中に先祖があり、先祖の中に私がある、その厳粛な反省と悔い改めから日本は出発すると私は思います。反省すべき点はない、あったとしてもそれは私とは関係のない遠い親達の罪だ、と突き放しますと、結果として同じ轍を踏むことになるのです。真実な悔い改めこそが本当の意味で回復の道なのです。神は謙り、悔い改めるものを喜び給います。

・「同化する」姿勢:
罪を犯したものと私とを一体化するというこの態度は、主イエスがもっておられたスピリットでもありました。主イエスは洗礼を受ける罪人の中に入り込み、one of themという態度を取られました。彼は罪人達の一人に数えられた(イザヤ53:12)のです。その究極が十字架による贖いでした。ネヘミヤが具体的に何を祈り、どう答えられたかは、来週お話ししますが、今日はこのネヘミヤの祈りの姿勢を学ぶのにとどめます。
 
終わりに:祈りの対象者と自分を一体化して祈ろう
 
 
私たちは多くの「必要のある」あるいは「困っている」人々のために祈ります。祈ること自体は大切なのですが、もっと大切なのは祈りの姿勢です。気をつけませんと、私たちは自分を高い場所において、困った人、弱い人、罪深い人のために上から祈ってあげるという姿勢になってしまいます。これは誤りです。ネヘミヤに、また主イエスに学びましょう。「私も私の父の家も罪を犯しました」と、祈りの対象に自分を同化することが祈りの姿勢で一番大切なことです。弱い人と自分を同化してともに助けを求めましょう。困った人と自分を同化して切実に主の助けを祈りましょう。罪深い人と自分を同化して、その罪を共に担いましょう。主は、その謙りのスピリットを喜び、祈りを聞いてくださいます。
 
お祈りを致します。