礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年2月13日
 
「この人の前に、あわれみを」
ネヘミヤ記連講(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記1章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10   ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。
(ネヘミヤ記1章10節)


 
聖書テキスト
 
 
1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、2 私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、5 言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。
6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。
8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。
11a ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」
11b そのとき、私は王の献酌官であった。
 
はじめに
 
 
昨週からネヘミヤ記講解を始めました。エルサレムの城壁を建て直すという大事業と共に「神の民」というコミュニティを建て直したネヘミヤから、現代において、教会というコミュニティを立て上げようとしている私たちが光を与えられるためです。
 
1.祈りの背景(1-3節:復習)
 
 
紀元前5世紀のペルシャの王宮で献酌官をしていたネヘミヤのもとに、故郷であるエルサレムの惨状を知らせるニュースが届きました。
 
2.ネヘミヤの嘆きと告白(4-7節:復習):自民族の罪を背負う
 
 
ネヘミヤは、「すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈り」ました。ネヘミヤは、今城壁が壊され、門が焼かれて困っているエルサレムの惨状が、彼と彼の父の家の罪の結果であると告白しています。ネヘミヤ自身がその罪に関わったわけではありませんが、連帯責任として、自分も加わっているのだということを真実に、謙って告白しています。自分と自分の民族の罪を一体化して捉えるという、この贖罪的精神こそ、主イエスが十字架において私たちの罪を背負われた贖いの精神に通じるものであることを学びました。
 
3.約束への訴え(8-9節)
 
 
「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。」
 
・モーセへの約束を持ち出す:
ネヘミヤは、更に進んで、イスラエルが罪を犯して離散の憂き目に遭うとしても、神がそれを赦してくださるという神ご自身のモーセに対する約束に訴えます。8-9節は申命記30:1-4の要約的引用です。まず、その箇所を見ましょう。「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、2 あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、3 あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。」

・「付則条項」に訴える:
モーセに与えられた契約は、神とイスラエルとの間の約束です。その基本は、イスラエルが主に従うとき祝される、主に逆らうとき呪われる、という典型的な契約スタイルです。しかし、この契約には、それに違反して呪われて、諸外国に散らされたたとしても、イスラエルがくいあらためて主に立ち返り、主に聞き従うならば、回復がありうることが付則条項のように約束されています。ネヘミヤは、この付則条項に訴えるのです。実際、ネヘミヤの時代には、この約束が成就し、イスラエルの民は多数故国に帰還していたのですが、ネヘミヤは、地理的な帰還にとどまらず、民族としての回復の約束に注目し、それをアッピールポイントとしました。
 
4.贖われた民としての訴え(10節)
 
 
「これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。」
 
・エジプトからの贖い:
ネヘミヤは、イスラエルが神の御手によって贖われた民であると言う事実に訴えます。イスラエルの現状から見ても、過去の行状から見ても、とても神の民と呼ばれるに相応しいものではない、しかし、神の「偉大な力とその力強い御手をもって、贖われた」民ではないか、と訴えるのです。この過去の恵みを忘れることは、神のご性質と矛盾するではないか、と神に迫るのです。本当にすごい迫力をもった祈りです。この贖い「パーダーハ」とは、「代価を払って奴隷状態から買い戻す」と言うことばです。歴史的には、イスラエルがエジプトでの奴隷状態から救い出された出来事をさしています。申命記7:8に「主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」と記されている通りです。

・捕囚からの贖い:
この場合は、エジプトからの贖いだけではなく、バビロン捕囚からの釈放も意味されていました。エレミヤ31:10-11にはこう記されています。「諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。』と。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」つまり、イスラエルは奴隷状態であったエジプトから、捕囚の状態であったバビロンから、神の力強い御手によって贖いだされた民であったのです。

・贖われたしもべ(たち)の祈り:
イスラエルは贖いだされた主のしもべ、主の民であるという、神との親密な関係を持ち出して訴えます。そのしもべたちが心を合わせて祈っている目標が、イスラエルの全面的回復でした。このような祈りに答えなさらないはずはない、と神を説得しようとしているのです。この祈りのことばに、ネヘミヤの迫力を感じます。
 
5.ピンポイントの祈り(11節a)
 
 
「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」
 
・王への接近を試みる:
ネヘミヤは、この祈りを、それは非常に具体的でリクエストで終わります。それは、今日、アルタシャスタ王の前に立つ、その時(訴えを成すことに)成功させて下さい、震えたり、おどおどしないで訴えを正しく語ることが出来るように、と言う具体的なものでした。

・王様も「この人」:
「この人の前に、あわれみを」と祈っていることばがとても興味深く思います。「この人」とは、勿論アルタシャスタ王のことです。自分の王様を「この人」と眺めているところにネヘミヤのクールな側面を見ます。彼が本当の意味で恐れるのは神様だけです。ですから、主イエスも語られた「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言うことばと共通です。私たちが恐れるのは神以外の者ではありません。

・「あわれみ」を祈る:
しかし同時に、「あわれみを」と祈っているところに、彼の慎重さをも見ます。つまり、ネヘミヤは王様を恐れてビビッては居ませんでしたが、同時に、王さまの気まぐれさ、その権力の強さを決して軽視していませんでした。王様こそ、生殺与奪の権を持つ人物であり、その影響は絶大なものがあったからです。この王さまの心を動かせば物事が動くと言うことを十分知悉していたのです。そこに神の干渉を祈りました。この王様が心を動かして、エルサレム回復を許可し、更に、それに力を貸してくれるような事態を想定して祈ったのです。私にも、そのような際どい交渉に臨む経験がありました。この中目黒教会の土地を譲っていただく時の交渉がそうでした。Hさんという大地主の方がここを所有しておりました。Hさんは特にこの土地を売る必要もなく、計画もありませんでした。ですから、当然、不動産屋さんに広告も頼んでいませんでした。Hさんの取引銀行の方が、「もしかしたら、この土地をHさんが『公益の目的のためならば』売ってくれるかもしれないので、仲介してもよい。」と話を持ちかけてくださいました。交渉の時、銀行の方は、「Hさんは当銀行の最上の顧客なので、怒らせないで欲しい。」と二、三度念を押しました。私たちも緊張してその交渉に臨みました。その時の祈りを思い出します。「この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

・自分を成功者にして!:
「しもべに幸いを見せ」とは、字義通りですと「僕を成功させて(ツァラク=繁栄させる、成功させる)ください」ということばです。詩篇1:3に「そのなす所、みな栄える」と同じことばです。ネヘミヤは、自分の名誉のためでもなく野心のためでもなく、主の栄光のために自分のプロジェクトを成功させてくださいと大胆に祈りました。ネヘミヤの祈りは豊かに答えられた。その詳しいいきさつは来週学びます。因みに中目黒の土地のことをいいますと、初対面であったHさんは、大の旅行好き、写真好き、動物写真好きで、ケニアにも何度も旅行された方ということが分かりました。すっかりケニアの話で盛り上がり、土地の話になったときは、一も二もなく「どうぞ」で決まりました。神様は不思議なお方です。

・時間限定で:
ネヘミヤは、この祈りの中で、「今日」と付け加えました。一般的な祈りを一般的にするのではなく、「今日は仕事日なので王様に仕えます。今日、エルサレムの城の再建の話をしたいと思いますから、そのような環境を整えてください。そして、その時に、幸いを得させてください。」という具体的な祈りでした。主はそれを聞いてくださいました。念のため付け加えますが、ネヘミヤが悲しいニュースを聞いたのがキスレウの月(太陽暦で12月)、王さまの前に出たのがニサンの月(2:1、今でいえば3月)ですから、約三ヶ月のインターバルがありました。この間祈り続けていたのでしょうか。王様への給仕はどうなっていたのでしょうか。或る注釈者の説明は、「この期間は非番であった」というものです。
 
6.自分の立場(11節b)
 
 
「そのとき、私は王の献酌官であった。」                         _
 
・王の相談役:
11節の前半で、終わっても良いのですが、彼は「そのとき、私は王の献酌官であった。」と一言加えました。当時の献酌官がどんなに高位のものであったかと言う点については、先週お話しました。今の内閣で言えば、官房長官くらいに当たります。アッシリヤの献酌官について、彼は王様に告ぐナンバーツーの権力を持っていたという記述もあるくらいです。ネヘミヤがユダヤ人でありながら、そのようなくらいに進むことができたこと自体が奇跡です。

・宦官であったかも:
私が参照した注解書には、もう一点、ネヘミヤは宦官であっただろうと付け加えております。宦官とは、王様に仕える仕事柄、男性の機能を奪われた人々のことです。もしそうとしますと、ネヘミヤは、通常の人生の楽しみを奪われたハンディを持った人と考えられます。特にユダヤ人社会では、宦官は仲間はずれにされていました。彼は、しかし、その主に対する献身と素晴らしい人格のゆえに、そのハンディを持ったまま効果的に民族の復興に貢献しました。私たちの人生に当てはめても、大変興味深い思い巡らしではありませんか。
 
終わりに:日ごとの人間関係にこの祈りを!
 
 
私たちは、毎日色々な人々と接触して、そのつながりで仕事をし、家庭や社会生活を営んでいます。今日はこの人とこんな交渉をしなければならない、ということが重荷となっている人はいませんか。難しい交渉だけではなく、日々の何気ない会話、意思の疎通が苦手で、誤解を生んだり、人を怒らせたりすることが嫌で対人恐怖症となってしまう、ということは無いでしょうか。私が思いますのに、大小の違いはあっても、恐らくすべての人がそうではないでしょうか。

対人交渉がどんな相手であったとしても(難しい人であれ、易しい人であれ、高位の人であれ、そうでない人であれ)、また、どんな用件であったとしても(難しい商談であれ、会議であれ、親戚づきあいであれ・・・)私たちはネヘミヤの祈りを自分の祈りとしようではありませんか。

「どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」と。主は祈りに答えてくださいます。
 
お祈りを致します。