礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年3月27日
 
「働く気があったから」
ネヘミヤ記連講(7)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記4章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
  6   こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。
(ネヘミヤ記4章6節)


 
聖書テキスト
 
 
1 サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。2 彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」3 彼のそばにいたアモン人トビヤもまた、「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」と言った。
4 「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。5 彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」6 こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。
 
はじめに:城壁再建工事が始まる(城壁の図を参照)
 
 
前回は、3章のエルサレム城壁再建の割り当て表から、この工事が大変よく組織化された工事であったこと、大変良いスピリットで進められたことをお話ししました。さて、4章は、それを妨害しようとするサヌバラテたちへの対処が記されています。

 
A.サヌバラテの嘲り(1-3節)
 
 
「サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。『この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。』彼のそばにいたアモン人トビヤもまた、『彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。』と言った。」
 
・サヌバラテは怒る:
サヌバラテというのは、エルサレムを中心としたユダヤ州の北のあるサマリヤ州の総督です。BC700年ごろから、捕囚によって空白地帯となったイスラエル中部(サマリヤ)での支配権を確立していたため、南部(ユダヤ州)を強くしようとするネヘミヤの動きに神経を尖らせていました。ですから、城壁修復工事を、何としてでも止めたかったのです。でも、ネヘミヤはペルシャ王のお墨付きを持っていましたから、サヌバラテが止める訳には行きません。だからこそサヌバラテは怒り、憤慨したのです。彼は、工事を阻止しようとあらゆる智恵を絞りました。

・「悪口」という武器を繰り出す:
その第一の武器は「悪口」です。人間は、直接に暴力をもって相手をやっつけなくても、悪口という武器で相手を傷つけ、士気を阻喪させることが出来ます。その意味でサヌバラテの悪口は天才的です。彼は何と言ったのでしょうか?

@労働者の貧弱さ:
「この哀れなユダヤ人たちは」と言って、捕囚から帰って間もない、貧しく弱いユダヤ人たちをからかいました。「哀れな」ということばは、植物が枯れていくさまをさす言葉です。根を切られて萎れてしまった草のように哀れな、という物凄い皮肉です。

A目的の不明確さ:
「いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。」「〇〇さんは、一体何を考えているんだろうね」などと他人の行動をからかう人々は何処にもいるものです。この場合、城壁の修復といけにえとは何の関係もないことですが、「城壁の上でいけにえでも捧げるんだろうか。馬鹿なことをしているね。」という皮肉です。とかく外野席はうるさいものです。

B工事の乱雑さ:
彼は工事の乱雑さを揶揄します。「一日で仕上げようとするのか。」「何か慌てて仕事をしているようだが、工事は粗雑だねえ。全く素人考えでやっているようにしか見えないよ。」という、これも皮肉です。

C材料の貧弱さ:
彼は工事の材料の貧弱さを揶揄します。「焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」ネヘミヤたちは、新しい、切り出したばかりの石を調達することはできませんでした。そこで、600年前ダビデの頃据えられ、しかも140年前バビロンによって壊され、焼かれ、捨てられてしまった石を拾い集めて、工事をしたのです。焼かれた石は見苦しく、しかも脆かったことでしょう。それをサヌバラテは馬鹿にしたわけです。図星だっただけにこたえました。

・トビヤが相槌を打つ:
これだけの悪口でも相当のパンチですが、その傷に塩を塗るような相槌を打ったのがアモン人トビヤです。偉い人の腰巾着のような嫌な男です。でも、このトビヤは、その活発な裏工作の故にユダヤ人指導者の間で隠然たる力を持っていました。どの時代も変わらないパワーポリティクスの絵を見るようです。トビヤは、サヌバラテの尻馬に乗って「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」狐が上っても崩れる石垣なんてありえないのですが、悪口としては最高のパンチです。もし城壁が脆かったら、防衛の役を果たしません。ですから、この悪口はボディ・ブローのようにずしんとこたえました。主の仕事に携わると、この程度の悪口を沢山聞くものです。私たちが約三十年前、ナクルの湖畔教会を建設しようと積み立てを始めました。最初、その積み立てが余りにも微々たるものでしたから、ある人から「こんな額では土台も建たないね。」と揶揄されました。言う人は軽い冗談の積りで言ったのでしょうが、聴く者には大きな傷となるということを実感しました。その後会員の方々の犠牲的な献金で、積立額はどんどん増えていきました。神様は生きておられると実感したものです。中目黒のこの会堂問題でも、似たようなことばを聞きましたが、主はちゃんと勝利を与えてくださいました。
 
B.ネヘミヤの祈り(4-5節)
 
 
「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」
 
・聞いてください:
ネヘミヤは祈ります。「神様聞いてください、私たちは軽蔑されています。こんなひどいことばを掛けられています。」ネヘミヤが祈ったのは当然です。なぜなら、ネヘミヤとその民は、神に示され、感動を受け、神のために働いていたからです。それを馬鹿にすることは、ネヘミヤ個人への嘲りでなくて、神への嘲りだったからです。だから、神様、聞いてくださいと祈ったのです。私たちの日常生活でも、嫌なことば、馬鹿にすることば、罵声とまでは言わなくても上手な皮肉などなどを数々聞くことでしょう。その時どうしますか。思い切って言い返しますか。言い返さなくても、心の中でうじうじと思い巡らして、悩み続けますか。誰かに聞いてもらって憂さ晴らしをしますか。猫にでも当たりますか。ネヘミヤに見習って祈りましょう。「神様、聞いてくださいましたか。あなたを畏れている私がこんなことを言われました。あなたの責任でどうにかしてください。」それでいいのです。

・裁いてください:
ネヘミヤは、更に祈ります。「彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。」何とも報復的に見える祈りです。でも、これは単なる個人的な、また、民族的な復讐心から来た祈りではありません。正義の神が裁き主として、しっかりと彼らの神に対する悪を覚え、きちんと裁いてください、という祈りです。

・覚えてください:
「彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」という祈りも、主の裁きを求める祈りです。繰り返しますが、この祈りには、個人的・民族的な恨みはありません。不義を喜ばず、罪に対する正当な裁きをなさる神に委ねる祈りです。これは信仰者として当然の祈りです。自分で復讐せず、恨みを根に持たず、単純に神の裁きに委ねる祈りです。もし、自分個人に対する加害でありますならば、主イエス様のように「父よ、彼らを赦してください。彼らはそのなすところを知らないからです。」と祈りましょう。これが本当の勝利です。
 
C.工事の進捗(6節)
 
 
「こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。」所
 
・半分に達する勢い:
民は、サヌバラテたちの嘲りにも拘わらず、黙々と働きを進めました。ある英訳は “We still worked.”と記しています。「それでも」私たちは働いた、というのです。そして、工事は見る見る半ばに達しました。これは尋常なことではありません。勿論、土台からの出発ではなく、既に存在していた土台からの出発ではあったと考えられますが、それにしても素晴らしい進捗です。

・士気は高かった:
ネヘミヤは、その理由を、「民に働く気があったから」(文字通りには「民の心は働きに向けられていた」欽定訳=The people had a mind to work)と説明しています。とても興味深いことばです。

@嘲りに動かされない集中心:
働く気とは、士気のことでしょう。やる気、元気があったのです。頼まれ仕事ではなく、これはやらなければという強い使命感から来る自発的行動でした。NIVは “The people worked with all their heart.”と訳しています。働きに全身全霊を注いでいたのです。サヌバラテやトビヤの「嘲り作戦」は全く効果がなく、却って彼らの士気を高めました。

Aネヘミヤの指導性:
そして、それを引き出したのは指導者ネヘミヤの功績でした。この指導者は信頼できる、この指導者についていこう、野球でいえば、この監督を胴上げしよう、このようなモチベーションがやる気の背後にありました。

B主のために!:
私たちクリスチャンには、もっと強いやる気があります。それは、牧師を男にしようなどという人間的動機ではなく、イエス様を喜ばせよう、主の御国を広げようと言うイエス様に直接結びついた動機付けです。英語のもう一つの訳が“The people were inspired by the work.”としているのは興味深いものです。神によって霊感を受けたと言っているのです。主に動かされ、主のために働きました。
 
終わりに:喜んで十字架を担おう
 
 
私たちが携わるどんな仕事でも、それが直接主の働きであれ、間接的なものであれ、価値ある働きであればあるほど、多くの反対や嘲りや誤解や中傷というものを受けるものです。それらにめげないのは、主のお励ましです。主イエスは、十字架を喜んで担われました。私たちも十字架を喜んで担ぐものでありたいと思います。
 
お祈りを致します。