礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年4月3日
 
「共に苦しみ給う主」
主のご受難を偲び
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書63章7-16節
 
 
[中心聖句]
 
  9   彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
(イザヤ63章9節)


 
聖書テキスト
 
 
7 私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。8 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、13 荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。14a 家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」14 このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。
15 どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。16 まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。
 
始めに
 
 
大地震の影響が日を追って深刻化している中に4月を迎えました。今月20日からは受難週に入り、27日にイースターを迎えます。そのような歩みですので、ネヘミヤ連講を一時中断し、今日と来聖日の二回に亘って、主のご受難の思い巡らしをさせていただきたく思います。私は、イザヤ63:9「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」という御言に心惹かれています。私たちの苦しみのときに、主もまた苦しんでくださると言う慰めに満ちた御言です。これは、一昨年、イザヤ書連講の時に扱いましたが、もう一度新しい意味合いで、この御言を捉えたいと思います。
 
1.63:9の背景
 
 
・「神はどこに?」(11,15節)という問い:
この文節の中で、繰り返されていることばは、「どこに?」という疑問形です。11−13節に3回、神はどこにおられるかと問われています。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。」また、15節には、「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。」と問われています。

・神は人間の苦しみに無関心であられるのか?:
神の民が苦しんでいる時、神はそれに対して無関心であるのではないか、という問は、悲痛な叫びでもあります。私達も、「こんな苦しみをしているのは世界中で日本だけだ、日本だけがどうしてこんなに苦しまなければならないか」と言って、神を恨みたくもなるでしょう。実にこれは深刻な問いかけです。簡単に答えの出る問題ではありません。また、出してもいけないと思います。
 
2.神の「揺るがない愛」
 
 
・ケセド=「揺るがない愛」:
神は見ておられるのか、という腸を搾り出すような問いに対する答えは、神の恵みへの信仰です。7節を読みましょう。「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」一行目の「恵み」と7行目の「いつくしみ」とは、ヘブル語ではケセドです。他の国の言葉に訳しにくい言葉で、「揺るがない愛」「慈愛」「誠実」「憐れみ」と色々な訳がなされますが、基本にあるのは、「契約に基づく愛」です。人間の世界では、結婚の時の誓約と似ています。誓約に基づいて、状況が変わっても、気分が変わっても、変わらない愛を伴侶者にささげる行為がケセドです。

・人間の背きにも拘らず注がれる愛(8-9,16節):
イザヤは、人間側の大きな罪を認めながら、それにも拘わらず注がれる神の豊かな恵みに目を留めます。その例証が出エジプトに見る神の恵み(9節)です。神は、背くイスラエルを子と認め、限りなく愛してくださいます(8,16節)。そこに、イザヤはそこに神の誠実なる愛を見出します。ケセドとは、価なきものに加えられる神の大いなる愛です。イスラエルは、重ね重ねその愛を裏切りますが、主は、限りない愛を持ってイスラエルを助けてくださいます。ですからイザヤは、罪の結果に苦しむイスラエルの現状を再び見つめなおし、その回復を祈ります。その祈りは17節に集約されます。「主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。」実に、これは私たちの祈りでもあります。
 
3.エルサレム崩壊における「憐れみ」
 
 
・瓦礫のエルサレムで「生かされている」不思議(哀歌3:22):
憐れみ(ケセド)との繋がりで、哀歌3:22のことばを思い出しました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵み(ケセド)による。主の憐れみは尽きないからだ。」預言者エレミヤが、滅ぼし尽くされたエルサレムの瓦礫に立って、自分が生かされていることに主の憐れみを感じているところです。

・私たちが「生かされている」意味を考えよう:
先週月曜日の教団拡大運営委員会の礼拝でこの御言を語りました。私はエレミヤの告白を自分に当てはめてこう言いました。「この未曾有の震災で、死者が3万人と言われ、その数字が毎日上がっていくことに戦慄を覚えます。亡くなった方々が例外ではなく、残されている方が例外なのだという感を深くします。私たちが今生かされているのは、格別な主の憐れみとご目的があることを覚え、今の生を感謝しつつ、さらに、貴いものと値積もりつつ、無くなった方々の思いを活かしつつ生きるものとなりましょう。この度の地震は、これからの個人の生き方、教会のあり方、教団の歩みそのすべてに、厳粛な使命の再確認を迫る出来事であったように思います。」と語りました。
 
4.共に苦しみ給う神(9節a)
 
 
今日はその中でも、神の恵みの回顧をしております9節の表現が心に刺さりました。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・」「共に苦しみ給う神」とは、驚くべき発見です。私たちの悩み、苦しみ、疑問、痛み、空腹、寒さ、家族を失う悲しみ、それらの全てに共感してくださるのが全能の神です。

・エジプトにおいて(出3:7-8):
イスラエルがエジプトにおいて奴隷の状態に置かれ、呻き苦しんでいた時、その叫びは、たしかに神の御許に届きました。出3:7-8にこう記されています、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地・・・に、彼らを上らせるためだ。」その時、神は、イスラエルの悩みをご自身の悩みとして受け取りなさったのです。

・主のしもべの受難において(53:4,11):
私達と共に苦しんでくださる神の究極的な表現は、キリストの受肉と十字架でした。それはイザヤ53章のクライマックス的表現によって示されています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(53:4,11)これは正に十字架上のキリストの姿です。

・キリストの受肉において:
なぜキリストは人となられたかというと、苦しんでいる人類の苦しみを共に舐めてくださるためでした。「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17−18)。

・私たちの今の苦しみにおいて:
私はこの地震について、なぜ、どうして、という理由を神に結びつけることはしません。神の御心は測り知れないからです。しかし、確かなことがあります。私達が苦しむ時、主はいつもともに苦しんでくださるということです。「いつも」ということばにも、慰めを受けます。時々ではなく、いつもです。主イエスは同じ苦しみを通り、私たちに向かって、「あなたの苦しみを理解しているよ」と語ってくださいます。子供が苦しみに遭うとき、親はそれ以上の苦しみを経験します。神は私達の苦しみを共に経験されるのです。私達が困難や悩みにぶつかる時、神は超然としておられるお方ではなく、私達と共に悩んでいてくださる、という事実を思い出しましょう。
 
5.担い給う神(9節b)
 
 
・出エジプトの時も(出19:4):
「ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、・・・」神は、ただ心情的に私達と共感してくださるだけではありません。力ある御手をもって私達を助けてくださいます。「ご自身の使い」と訳されている言葉の元は、「御顔の使い」です。「御顔」というのは、神の臨在のことです。ですから、ご自身の使いと言うのは、神の代理人というのではなく、神ご自身が見える形で臨在を表し、イスラエルを助けなさることを意味していました。出エジプトのとき、主が「あなたがたを鷲の翼に載せて・・・」(出19:4)民を導きなさいました。主はご自分の責任で、民を安全な道に導いてくださるお方です。

・捕囚からも(46:4):
イスラエルは、今、捕囚の憂き目に遭っていますが、主はバビロンから運び出してくださる、というのがこのお約束の主意なのです。主は、苦しむご自分の民を放置なさいません。そして、今日も変わらず働いておられる神です。主は、神の民個々人を一生涯責任を持ってくださいます。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(46:4)と約束してくださいます。
 
終わりに
 
 
・共に苦しみ給う主により頼もう:
私達は、多くの悩みと苦しみを抱えています。特に大震災を経て、日本国民が歴史上経験しなかったような苦しみを味わっています。しかし、神は苦しむものと共に居られるかただということを覚えましょう。苦しみを共に担い、いやそれ以上に、私たちを背負ってくださいます。共に苦しみ給う主にすべてを打ち明け、救い給う主により頼みましょう。

・他の苦しみを共に担おう:
さらに、その痛みを担い給う主のみこころを思いつつ、私たちも大きな苦しみの中にある被災者と共に苦しむものとなりましょう。
 
お祈りを致します。