礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年4月10日
 
「大きな叫び声と涙」
主のご受難を偲び(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヘブル人への手紙5章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  7   キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
(ヘブル5章7節)


 
聖書テキスト
 
 
1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。4 まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。6 別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
 
はじめに
 
 
主のご受難を記念する月です。昨週は「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ」(イザヤ63:9)との御言から、私たちの苦しみを共に担い給う主の姿を学びました。今日はその思想の延長ですが、ヘブル5:7-10に焦点を当て、苦しみを通してご自分が救い主として完成されたキリストの姿を学びます。
 
1.5:1-10の流れ:人々の罪を神に執り成す大祭司の役割
 
 
ヘブル書5章は、罪ある人々を神の前に執り成す大祭司という仕事の役割について語っています。その仲でも、部族的には祭司の系統にない主イエスが、神の選びによって真の大祭司となられたことが述べられています。そのクライマックスが7-10節です。
 
2.キリストの祈り(7節)
 
 
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
 
キリストの苦難とその中での祈りを語っている素晴らしい聖句です。ごく簡単に説明させてください。

・神が人となり給うたその経験の中から:
「人としてこの世におられたとき」ということばは、キリストが神であるご性質とともに、人としてのご性質を持っておられたことを示します。人となり給うたことが、身代わりの救いを成し遂げる根拠・土台だったのです。神が人間としての性質を持ち給うたことによって、人と同じ経験をし、人の身代わりとなる足場が出来たのです。

・死の恐れからの救いと死への勝利を祈る:
「死から救う」との意味は、死なないようにということではなくて、十字架の苦痛と恥を平安の心で通過できるように、死の恐れから救われるようにとの祈りでした。死に対する恐れは、人ととしてのイエスにとっては自然のことでした。それは、ヨハネ12章でも述べられています。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」(ヨハネ12:27-28)十字架の死を前にして主の心は騒ぎました。しかし、十字架という使命を全うできるようにとも祈られたのです。

・人間イエスの苦悩の表れとしての「大いなる叫び声と涙」:
「大いなる叫び声と涙」とは、ゲッセマネの祈りと十字架上の叫びを指しています。これについては、後に触れます。

・み父への信仰に基づく尊敬をもって:
「その敬虔のゆえに」とは、父なる神が善のみをなし給うという信仰に基づく畏れを指しています。

・祈りは答えられた:
「聴かれた」、つまり、答えを得たということです。死そのものから逃れたのではなく、死の苦しみに耐える力が与えられたという意味です。また、死から甦ったという意味でも答えられました。私たちの祈りについても同様です。私たちはしばしば、耐えがたい試練から逃れさせてくださいと祈ります。しかし、その答えは多くの場合、それに耐え得る恵を与えられる結果となるのです。

今述べました略注に基づいて、7節を噛み砕いて言い換えますと、こうなります。

「主イエスは、神であられるお方でしたが、人間としてこの世に生まれ、普通の人間としての人生を送られました。それは私たち人類が共通的に背負っている苦しみを共に経験するためでした。その生涯の最後に、私たちの身代わりとして十字架という恐ろしい刑罰を受けなさったのですが、その時に、その恐るべき苦痛に満ちた十字架の苦痛を平安の心をもって通過する恵が与えられるように、また、その死の彼方に復活という勝利が与えられるように、大きな叫び声と涙の祈りを捧げられました。また、できればその苦悶ではない他の道を選ばせてくださいと切実に祈られました。でも、それ以外にないのならばそれも受けますと言う従順さをも表しなさいました。父なる神は、主イエスの信仰に満ちた従順さのゆえに、その祈りを聞き届けてくださいました。つまり、主イエスが、十字架の苦悩の道を立派に通過し、贖いを成し遂げ、その行く先に栄誉ある復活を与えると言う形でその祈りを聞き入れなさったのです。」
 
3.苦しみという学課(8-10節)
 
 
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
 
8-10節は、7節の内容を、大祭司職という角度から再述したものです。

・御子なのに「学ぶ」=苦難は大祭司への必修科目:
主イエスは御子として存在し、この世においてもその立場は変わりませんでした。従って、学校の生徒が何かのレッスンを学ぶと言うような意味で「学ぶ」必要はなかった筈です。しかし、大祭司になるためには、苦難という学課を通過して、他の人間の弱さを理解し、それを担うというコースが必須だったのです。譬えは卑近ですが、イギリスの王子様でも、そのまま王様になるわけではなく、軍隊にはいって一兵卒として規律に従うことで、王様になる資格を得るようなものです。御子である立場や特権の故ではなく、人間イエスが従順を学ばれ、その従順によって贖いを成し遂げる大祭司としての資格を得たということは、実に恐れ多い真理です。

・自分が生贄となる苦しみ:
8節の「多くの苦しみを通して・・・」ということばの中に含まれているのは、祭司的な生贄に関わる苦しみのことです。祭司は動物を生贄にして贖いを成し遂げるのですが、真の大祭司であるイエスは自分を生贄として捧げました。自分自身を生贄として献げる苦悩、肉体的・霊的苦痛が「多くの苦しみ」の意味です。

・大祭司として完成された:
「完全なものとされる」とは、何を意味するのでしょうか。それまでは完全なお方ではなかったと言うのではなくて、地上に生を受けたイエスが、その目的を全うする、という意味で完全なものとされるのです。具体的には、その十字架の苦しみと死と復活によって贖いが完全なものとなること、大祭司としての務めを完全に果たされたこと、人類のための完全な救いを成就されたことを指しています。

・時間・場所・条件を超越した完全な救い:
「とこしえの救い」とは、時間や場所や条件を乗り越えたという意味での「とこしえ」です。

・救いを受ける条件は、キリストに従うこと:
救い主が従順によって永遠の救いを成し遂げたとすれば、それを受け入れるものも従順によって救いをいただくのは当然です。キリストの成し遂げられた救いは私たちを完全に救う完全なものでありますが、しかし、私たちの態度いかんにかかわらず、自動的に与えられるものではなく、私たちが信仰をもってキリストに従うという条件を果たすときに与えられるものです。

この解説に基づいて、8-10節を私なりに分かり易く言い換えます。

「主イエスは、神の御子でありましたが、その御子としてのお立場ゆえに、自動的に救い主となったのではありません。肉体的なまた霊的な、極限ともいえるような苦痛・苦悩・苦悶を通過することによって、人間イエスが神の御心に全く従うという従順を経験し、その経験によって身代わりの救いを成し遂げる大祭司としての役割を完全に体現されました。その救いは時間を越えた永遠的な、また、すべての罪を赦しきよめる完全なものでした。ただ、その救いを頂くためには、キリストへの信仰に基づく従順な人々に与えられるものです。」
 
4.ゲッセマネにおける「大いなる叫びと涙」(マルコ14:32-36)
 
 
ゲッセマネの祈りは3つの福音書に記されていますが、今日はマルコを開きましょう。
 
「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。』そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」(マルコ14:32-36)
 
・祈りの場所:「ゲッセマネ」(油絞り):
「ゲッセマネ」とは、「油絞り」、「油を絞り出す場所」と言う意味です。オリーブ山の麓に沢山生えていたオリーブの実から油を絞る搾り器があちこちにあったことが、この名前の由来です。私もそこを訪れましたが、樹齢の古いオリーブがうっそうと繁っていました。この場所は、エルサレムへの巡礼者達の野宿の場所として使われていました。イエスとその弟子達も、ここを祈りの場所として折々使っていました。ヨハネ18:1,2を見ると、「イエスは・・・ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。」とあります。

・祈りの開始=「恐れともだえ」:
ゲッセマネの園の入り口で、イエスは8人の弟子達を外側の見張りとして残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて奥に向かわれました。祈りの姿勢を取る前から、「恐れともだえ」(「恐れの故に大変驚く」と言う意味)が始まりました。魂が経験する最も大きな、深い苦悩を表す言葉です。その苦悩は、ペテロ達3人の目にも明らかな程の取り乱しようでした。最後の晩餐の時から、主イエスの心を支配していた恐れともだえの気持ちが、心許せる3人の前で爆発してしまったのです。死を前にして、恐れともだえを感じない人はいないでしょう。イエスも例外ではありませんでした。まして、それが痛みと辱めに満ちた死であれば尚更のことです。イエスはスーパーマンではなく、私達と同じ血と肉を持ち給う、そして弱さの中に取り囲まれている人間であられたのです。だからこそ、私達を本当の意味で理解して下さる救い主なのです。それを包み隠さず記録したマルコも偉いと思います。イエスを、実像以上に美化することなく、ペテロの記憶を忠実に再現したのです。主イエスは、その恐れともだえを弟子達に説明されました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」「悲しみのあまり」とは、悲しみに「取り囲まれていて」というのが直訳です。「悲しみに取り囲まれていて、このままだったら直ぐにでも死んでしまいそうなほど苦悩しています」というお気持ちです。何と飾らない、ありのままの言葉でしょうか。何と深い悲しみが籠められた言葉でしょうか。ルカ22:44には、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とまで記されています。

・祈りの内容=「杯を取り去り給え」:
主イエスの祈りは、十字架の苦しみという苦い杯が取り去られるようにというものでした。考えてみれば、イエスは、この苦しみのために生まれたのです。身代わりとなって命を捧げるためにお出で下さったのです。そのイエスが、「杯を取り去ってください」とは、何と気弱な、と言ってはなりません。人間イエスのそのままの気持ちが、この絞り出されるような祈りに表れているのです。このために生まれ、これを目標としてここまで生きてきたものの、いざその場に立つと怖じ気づき、何とか他の方法はないかと求める主イエスをだれが責められましょうか。この杯の中には、十字架に至る道と十字架の上での、この上ない痛み、辱め、裏切りの故に受ける心の傷、そして死というものが含まれていたでしょうが、もっと深くは、人類の身代わりとして受ける、父なる神から見捨てられるという苦痛(マルコ15:34)がその最大のものであったことでしょう。イエスは、それらを予感しながら、苦闘されたのです。「お父様、出来るものならその杯を取り去ってください」と祈られました。杯を取り去ったら、どうなるのでしょう。救いなどどうでも良いから逃げ出したい、と願われたのでしょうか。私は、そうではなくて、「十字架以外の救いの方法があるなら、その道に変えてください、あなたは全能ですから、それもお出来になるのではないでしょうか」という意味であったと理解します。それが3度も繰り返されたことでその切実さが現れます。

・神のみ心に従う=戦いの後の平安:
ここまで正直に、人間としての願いを申しあげ、悩みを全部さらけ出した後で、イエスは「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と締め括られました。イエスは、悶えぬき、悩み抜き、自分の願いを全部出し切ったその挙げ句が「み心のままに」であったのです。ピリピ2:8にある「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」という服従のスピリットがここで発揮されました。
 
おわりに
 
 
・私の為に祈られた主に感謝:
「死ぬ程までの悲しみ」をもって祈られたのは、私のためでした。私の反抗心、自己中心、傲慢、我が儘が、イエスの苦しみ、悲しみの源だったのです。申し訳ないことです。でも、その祈りがあったからこそ、救いの道が開かれました。心から感謝しましょう。

・私もイエスのように祈ろう:
イエスが私のために祈られた同じスピリットをもって、誰かのために祈りましょう。涙の祈りは決して報われないことがありません。祈っても祈ってもなかなか頑固な人がいるかも知れませんが、涙の祈りは、その頑固を打ち砕きます。私達は、誰かの魂の救いのために、どれだけの祈りを捧げているでしょうか?危急存亡の危機にある私たちの祖国のためにどれだけ祈っていることでしょうか。大きな叫びと涙をもって祈ろうではありませんか。
 
お祈りを致します。