礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年4月17日
 
「天にある永遠の家」
召天者記念礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
第二コリント4章16節−5章5節
 
 
[中心聖句]
 
  1   私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
(Uコリント5章1節)


 
聖書テキスト
 
 
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
 
はじめに
 
 
毎年、キリスト復活の日に因んで4月第三日曜日に召天者記念礼拝を持っているのですが、今年は二つの点でいつもと違います。一つはカレンダーのことです。今日は、復活の日の一週間前、つまり、キリストが十字架の苦しみを経験されたその週を記念する週なのです。もう一つの点は、一ヶ月と一週間前に大きな震災を経験したことで、これによって亡くなられた3万人近い方々の無念、ご家族の寂しさ・悲しさ、被災者方の苦しみ、原発事故処理に当たっている人々のご苦労というものを背負っての礼拝であるという点です。その角度から、聖書が地上の苦しみと天における慰めについて語っている所を取り上げてお話しします。

パウロは、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」という文章の中で、苦しい人生を送っている肉体を幕屋(テント)に譬え、喜びに溢れた天国で与えられる新次元の体(=「復活体」という)を「とこしえの家」に譬えて説明しています。
 
A.地上の幕屋=人間の脆い肉体
 
 
私たちの地上の生涯の住処である肉体は、テントに譬えられます。テントに住んだことのある方はお分かりと思いますが、テントとは、頼りないものの象徴です。その特徴は三つあります。
 
1.壊れ易い
 
 
テントに強い風が吹けば飛んでしまいますし、その上に重いものが乗っかれば潰れてしまいます。そのように、私たちの肉体は、衰え行く物です。4:16には、「私たちの外なる人は衰えても・・・」ということばがありますが、年齢と共に私たちの肉体は衰えて行きます。病や弱さをいつでも抱えているものです。

この度の震災を通しても、人間という存在が、大自然の脅威に対していかに小さく脆いものであるか、人間が作り上げたインフラというものも、いかに脆いものであるかを経験しました。私は、この度の震災の教訓は、人間がもっと謙らなければならないというものであったということを、ひしひしと感じます。聖書が、私たちの命がテントのようなものだと語っていることは、真理です。
 
2.仮の住まい
 
 
テントは仮の住まいであって、暫くすれば畳んで引越ししてしまうものです。私は神学生時代、5人の仲間と一緒に浜田教会を開拓すべく大テントを抱えて行きました。空き地を見つけ、テントを張り、そこで寝泊りし、集会をすると言う生活を一ヶ月続けました。その時は緊張していて、疲れていることを自覚していませんでした。しかし、その後、畳のある家に移った時、ああ、畳っていいもんだなあということをしみじみ感じました。

聖書は、この地上の生涯は、旅人として生きるべきことを勧めています。信仰の先祖であるアブラハムは、態と外国でテント生活をしました。その理由は、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたから」と聖書は説明しています(ヘブル11:9-11)。彼らは「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(同13節)
 
3.痛みと苦しみを伴う
 
 
2節には「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。」と語ります。そうです。この地上において、私たちは肉体的な弱さ、環境から来る苦しみ、人間関係が齎す精神的苦悩などなど、沢山の悩みに取り囲まれています。

正に今は、日本全体が苦しみにうめいている状況です。人生に苦難はつきものですが、それは、天国への希望を増させるものとして与えられているのです。
 
B.天にある永遠の家=栄光の復活体
 
 
この世の肉体をテントと譬えるとすれば、天国において与えられる体(これを「復活体」と呼ぶ)は「永遠の家」と表現されています。その特徴は三つです。
 
1.何時までも続く
 
 
一時的なものでなくて、永遠的に続きます。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(4:17-18)とある通りです。なぜ永遠であるかといいますと、私たちは永遠者であられる神と共に生きるからです。神は朽ちていく、脆い素材ではなく、永遠に続く特別製の命を与えてくださるのです。
 
2.栄光に満ちたもの
 
 
先の御言に「重い永遠の栄光」と言い表しています。神の栄光が私たちの輝きとなるのです。それを言い表している黙示録の預言があります。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)

先天国における命は、今までの悲しみが全部拭い取られた慰めに満ちたものです。苦しみの類から一切解放されます。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)
 
3.苦しみを通して与えられる
 
 
「神の下さる建物・・・、人の手によらない」という言葉が添えられています。言い換えると、人間が自分の修養・修業や努力によって勝ち取る世界ではなく、その反対に、一方的な神の恵によって与えられる場所です。だからといって、棚ぼたのように、ボーっと待っていれば自動的に与えられるものでもありません。

・キリストの死と復活を通して:
復活というものは、死があってのアイデアです。キリストは、十字架にかかる前にこう語られました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)このキリストの側での準備は、「明日私は十字架にかかる、耐え難いほどの痛み苦しみを通して私達の罪を赦し、聖め、その天国に相応しいものとする」と仰った訳です。その上で、主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(同6節)ですから、私を信じなさいと言い切ったのです。

・私たちの苦難と信仰を通して:
私たちが与えられる復活の栄光は、やはり苦しみを通してです。パウロは「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(4:17)と言って、今の苦しみが将来の栄光を齎すと語っています。そのために「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。・・・確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」(2,4節)と言って、現在の困難が将来の栄光への望みを加速させるのだと語ります。先に天国に帰った私達の先輩達に共通しているのは、彼らがこのキリストを主と受け入れ、その信仰を保ち続けたという点です。人間的に言えば苦しい、厳しい人生を送った方も多かったことでしょう。しかし、その苦しみのなかでも、いや、苦しみのなかだからこそ、永遠の御国への希望を抱き、キリストに対する単純な信仰をもって世を送り、目をつぶったのです。
 
おわりに
 
 
・この望みで慰めを受けよう:
愛する方々との別れは本当に悲しい、淋しいものです。しかし、聖書は私たちの悲しみは絶望的なものではないと語ります。悲しむ人々に対して、復活の希望をもって互いに慰めあいなさいと語ります。

・この望みに向かって生きよう:
私達も、先に天国に帰った人々の信仰に見習わせていただきたいと思います。そうするならば、天の住まいで、彼らと共に永遠に喜び楽しむことができるのです。今日の午後の交わりもすばらしい時となると思いますが、もっと素晴らしいのは、私達が皆天に帰って、イエス様を中心に、一人一人が頂いた恵を語り合うときではないでしょうか。その日を楽しみに、その日を目指して、地上の生涯を全うしたいと思います。

 
お祈りを致します。