礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年4月24日
 
「死は勝利に呑まれた」
イースター礼拝
 
竿代 照夫 牧師
 
第一コリント15章3-8,51-58節
 
 
[中心聖句]
 
  54   しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
(Tコリント15章54節)


 
聖書テキスト
 
 
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
 
はじめに
 
 
全世界のキリストにある聖徒たちと共に復活をお祝いいたします。今年のイースターは、何か格別な嬉しさがあります。日本全体が暗いムードで覆われている中です。そして、そのような状況が去ったわけではありませんが、その暗い要素に関わりなく、いや、それを乗り越える事実がキリストの復活だからです。パウロは、このコリント人への第一の手紙の中で、それを「死は勝利にのまれた。」という表現で表しています。素晴らしい言葉です。励ましに満ちたことばです。この御言を中心に、復活のメッセージを語ります。
 
1.復活は本当に起きた
 
 
・復活は福音の不可欠の一部:
Tコリント15章は、12節の「死者の復活はない」というコリント教会の一部の信者の復活への疑問への回答として書かれています。キリスト復活は本当に起きた歴史的な事実であり、しかもキリストの福音において欠けてはならない大切な要素なのだ、と宣言しています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、・・・私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、・・・三日目によみがえられたこと、」(3−8節)と語ります。

・復活の証拠:
その事実を証拠づけるするために、キリストがいろいろなグループに対して、色々な場所で現れました。「@ケパ(ペテロ)に現われ、それからA十二弟子に現われ、その後、B五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、Cヤコブに現われ、D使徒たち全部に現われ、E最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」と、6回の顕現が言及されていますが、実際にはもっと多くの場所で多くの人々に顕現されました。その中で注目すべきことばは、「五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」というくだりです。パウロは、復活がおとぎ話ではなく、空想でもなく、はたまた、「精神的復活」というものでもなく、大勢の人々に目撃された歴史の事実であることを堂々と宣言しています。この手紙の執筆時期はAD55年で、キリストの十字架の25年後です。もし、パウロが荒唐無稽なおとぎ話を述べたら、読者の多くからブーイングが起きたことでしょう。パウロは、復活が事実であったという確信から、何の飾りも衒いもなく、淡々と、「これは確かなことでしたよ。反論したい人はどうぞ」と述べているわけです。
 
2.復活は救いを完成した
 
 
・復活がなかったら?:
では、復活が事実とすれば、それは、どんな意味を持っていたのでしょうか。パウロはそれに答えて、事実でなかったらどうだったのだろうか、という議論をします。17節を見てください。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」といって仮定の質問への答えをしているのです。キリストが甦らなかったらと想像してください。私たちはエルサレムの近郊にイエス教の教祖の墓参りに聖地巡礼を行ったり、或いはイエス様の遺骨を細かく砕いて、全世界の教会堂の講壇に埋めたりしながら、2千年前の偉大な教祖を讃えるというような宗教になっていたかも知れません。その教祖が、私たちの罪を背負って十字架についたところまでは認めても、罪が本当に解決されたかどうかは分からない、十字架にかかって死んだままの人間を教祖と仰いでも、力が入りません。罪に対する何の解決もないまま、罪の中を歩んでいることになりましょう。これは福音(良きおとずれ)とは言えません。それは虚しいもの(実体のないもの)となってしまいます。海老が一つも入っていない、衣だけのてんぷらのようなものです。

・事実、キリストは復活された:
実際はどうだったのでしょうか。20節を見てください。「今やキリストは、・・・死者の中からよみがえられました。」そして、ローマ4:25にはその意義が記されています。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」十字架は復活によって裏打ちされ、完結されました。
 
3.私たちの復活の「初穂」(20節)
 
 
・私たちの復活がキリストに続く:
20節の「初穂」ということばは、穀物の初生が、それに続く豊かな収穫の先駆けとなることを意味しています。私たちがキリストの復活のように復活する時が来ることを指しています。

・それは、キリスト再臨の時:
それは、キリスト再臨の時に起きます。キリストに属している者は、死によって一時眠りますが、いつまでもではありません。キリストが再び世に来られるとき、神のラッパが響きます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている信仰者たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中でキリストと会うのです。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(51-53節)

・復活の体は、今の肉体の発展形:
その復活とはどの様に起きるのでしょうか。それを示すのが、植物の例えです。死があって生があるのです。種は一度死んで、解体し、新しい命を生みだします。「あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」(36a−38節)信仰者の死と復活の関係もそのようであって、今私達がそこで生活している肉体とやがて持つ復活体には、質的な相違はあっても連続性はあるのです。今の体は一度解体して、新しい命に生まれ変わる、死は次の生への新しい出発なのです。その体というのは、今私達が持っている顔や体の特徴を持ちながらも、質的には異なる、という物です。
 
4.死はキリストによって呑み込まれた
 
 
・主は、死を呑み込む:
「死は勝利に呑まれた」というのが今日の説教題です。このことばはイザヤ25:8の「(主は)永久に死を滅ぼされる(=文字通りには「呑み込まれる。」)という予言の成就として引用されています。イザヤは25章において、歴史に於ける神の究極的勝利を予言し、その勝利の中には神が人類の暗部の最大原因である死を永久に滅ぼされる(呑み込み給う)と語ります。呑み込むという表現が面白いですね。大きな魚が小さな魚を呑み込んで消化してしまうイメージです。新改訳では「勝利という抽象的なもの」が死を呑み込むというような印象を与えますが、直訳では、「死は勝利の中に呑み込まれた」となります。神ご自身が「死」という人類最大の敵を大いなる勝利のうちに呑み込み、その力を解体して終わりにしてしまうという宣言なのです。この預言が、キリストの復活によって先ず成就し、私たちがその復活に与ることによって完璧に成就する、とパウロは言っているのです。

・死は人類最大の敵:
死は人類の間で勝利者のように振る舞います。人間誰も死を恐れています。誰にでもやってくる死、それでありながら、いつ来るか分からない死、愛する者たちと別れなければならない死、多分苦痛が伴うであろう死、こうした気持ちが、大きな恐怖となって私達の心を暗くします。55節、56節に「死の棘」という表現がありますが、死は棘を沢山持って主人顔をして、私達の心を暗いものにしています。それは、死が罪の結果であるからです。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった・・・」(ローマ5:12)のです。

・キリストの復活は「死」への勝利:
キリストは、この人類の敵である死に打ち勝たれました。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」(ローマ6:9)更にヘブル2:14には、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」と記されています。死の世界の懐に分け入って、その世界の親玉を無力にし、死に囚われていた死の原因であった人々を解放したという意味です。具体的には、死の原因である罪の力を、罪の身代わりとなる事によって打棄ったのです。われらの罪、咎を背負って十字架に死なれたそれが救いです。昨週は受難週として、主のみ苦しみを偲びました。ストーカー氏の「キリストの最期」を読み返しつつ、主イエスが十字架を通して、いかに人間の罪に立ち向かわれたか、死の齎す苦痛を最大限に味合われたか、その苦難の死を雄々しく通過されたかという厳粛さを感じました。「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」ということは、死の世界の恐ろしさの心臓部に分け入って戦いを挑み、それに勝利されたことなのだ、という深い感動を覚えました。復活によって一挙逆転というよりも、十字架による勝利の完成が、復活だったのです。子どものとき陣取りゲームをしました。相手のグループにタッチされると捕虜になって敵陣に連れて行かれ、手を繋いで一列に並ばされるのです。その時、味方の一人が敵陣に入りこんで、その手の鎖を切ると捕虜が解放されるというゲームです。そのようなイメージが、「死によって死を滅ぼし」ということばで浮かびました。

・私たちの復活は「死」へのファイナルパンチ:
私たちがキリストの復活にあやかって復活の体を与えられる時の勝利宣言が54−57節です。「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」ということばは、キリストが死によって死を滅ぼしたその勝利が私たちの勝利ともなると言うことを示しています。輝かしい希望です。
 
5.復活の希望によって今を生きる
 
 
58節は、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と締め括ります。

この復活の希望に立つとき、主の業へ邁進することが出来ます。与えられた最小限を義務的に果たすのではなく、自発的に、豊かな心をもって、与えられた分以上の奉仕を喜んでするものとなるのです。神の充分な報いが復活の日に与えられる、その希望が、たゆまない奉仕を可能とします。

この週も、甦られた主を仰ぎつつ、それぞれに与えられた主の業に励みましょう。
 
お祈りを致します。