礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年5月1日
 
「もう1度ご自分を現された」
復活節を超えて
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書21章1-14節
 
 
[中心聖句]
 
  1   この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。
(ヨハネ21章1節)


 
聖書テキスト
 
 
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
 
はじめに
 
 
主イエスは復活されてから40日の間、様々な場所で、様々なグループにご自身を顕わされました。それはご自分の復活の事実をしっかりと確認させる事と、復活の主を心の中にリアライズさせなさる聖霊の降臨に備える為でした。その一回一回に羊飼いとしての主の温かいスピリットが表わされていますが、ヨハネ21章はそれが遺憾なく発揮された物語です。
 
1.ガリラヤに戻った弟子達
 
 
・舞台:ガリラヤ湖:
ヨハネ21章の舞台はガリラヤ湖です。主イエスが復活された後、何度かご自分を表しなさったのはエルサレムにおいてです。しかし、主は、「復活の後、弟子達に先立ってガリラヤに行き、そこで彼らと会う」(マタイ26:32)という約束をしておられました。また、復活の朝、御使いはマグダラのマリヤたちに向かって、「弟子達にガリラヤに行くように言いなさい。そこで主と出会うのです。」(マタイ28:10)と告げました。弟子団はその期待をもってエルサレムを離れ、ガリラヤに戻って行ったのです。

・時:イースターの2、3週間後(?):
時はイースターの2、3週間後と考えられます。

・対象:ペテロなど7弟子:
対象は全部の弟子ではなく、ペテロ、トマス、ナタナエル、ヨハネ、ヤコブ、ほかにふたりの弟子(多分、アンデレ、ピリポと思います。というのは二人ともガリラヤ湖畔のベッサイダ出身だったからです)の合計7名でした。他の4名は何をしていたでしょう。ガリラヤにいなかったのか、或いは居たけれども僕たちは遠慮しておくよ、といって留守番をしたのかも知れません。

・弟子たちの心境:
弟子たちの気持ちは、喜び・期待と落胆の半々ではなかったかと想像されます。喜び・期待とは、エルサレムにおいて復活の主に出会ったという高揚感、その時に主の御使いが、ガリラヤにおいて復活の主が出会うであろうと語った約束に基づく期待感、落胆の面では、矢張り3年間師と仰ぎ、寝食を共にし、何かに付けては助けていただいた主イエスを失っているという寂しさ、そうしたものが相混じった複雑な状況であったと思います。
 
2.漁に出かける
 
 
・出かける理由:
そんな状況と心境にあって、いつもの通りリーダーを自称するペテロが「私は漁をする」と言ったのは、ある意味自然でした。実際、今まで弟子団を支えていた女性のサポーター軍団も、もう一つ力と団結に不足していたことでしたから、自給自足をしなければというのが切実な必要でしたし、また、何もしない閉塞状況での気晴らしも必要でした。

・その問題性:
しかし、良く考えてみると、ここには問題がありました。ペテロと仲間の三人は、献身のとき舟も網も棄て、そして家内工業的に働いてきた家族とも一線を引いて、主イエスに着いて来たのです。湖の魚を取る漁師から、魂をすなどる「人間の漁師」に変わったので。「魚とりに行こう」という提案と行動は、厳しく言えば、献身を考え直して昔の生活に帰ろうという第一歩となりかねませんでした。

・さっぱり獲れない:
さて、三年前まで毎日働いていた懐かしい漁場はどうなっていたことでしょうか。話は突然変わりますが、東日本の海岸沿いの漁師さんたちが、船や網を失い、漁港も魚市場も失い、しかも放射能の風評被害を受けて、大変な苦労をしておられます。この人々が早く漁に戻れるように応援しなければなりません。さて、ペテロはと言いますと、棄てたはずの舟も網も、家族か友達に借りて三年ぶりの漁に出かけました。懐かしかったでしょうね。嬉しさ半分、棄てたはずの舟に戻った後ろめたさ半分という気持ちだったことでしょう。それでも魚がかかってくれればその後ろめたさは吹っ切れたと思うのですが、肝心の漁の方はと言いますと、どっこい簡単には行きませんでした。網を降ろしては引き上げ、降ろしては引き上げを繰り返しても、雑魚一匹取れません。おかしいなあ、私のカンも鈍ったものよ、などと呟きながらもう一回、もう一回と繰り返す内に夜が明け始めてしまいました。その時のペテロの焦燥と落胆、これは並大抵のものではありません。なまじ献身して漁から離れたからかなどと自問したり、はたまた、漁に戻ったことが間違いであったかと自分を責めたり、落ち込みも甚だしかったことでしょう。
 
3.落胆しているものに現れる主
 
 
・主の顕現の共通要因:
主イエスが、ご自分を表しなさったのは、ペテロと仲間たちが落胆の極限にあったときでした。興味深いことに、復活後の主の顕現は、殆ど、落胆していた弟子達に対してであったことが共通です。主の御体を失ったと思って泣いていたマグダラのマリヤ、弟子であることをやめて故郷へ帰ろうと道筋にあった二人の弟子、自分たちも十字架にかけられるかとガタガタ震えて戸を閉じていた十弟子、疑いの中に包まれていたトマス・・・こう数えただけでも、主イエスは、落ち込んでいる人々の傍らに表れてくださったことが分かります。パウロに対してもそうでした。最初の顕現は、キリスト教に対する迫害を実行している真最中、その後も、コリント教会開拓がうまく行かなくて落ち込んで止めようとした時、エルサレムで捕縛された時、ローマで死刑を目前にした裁判の前夜など、厳しい今日今日での顕現を経験しました。

・岸べに立たれた主:
ヨハネ21章に戻ります。この7人も落胆の極致にありました。4節、「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。」何という厳かな光景でしょうか。私が画家であったならば、朝もやの岸辺に凛と立っておられる主イエスの姿、100メートル離れたその遠景には、疲れ切ってしょぼんとしながら網を畳んで岸に向かおうとする七人の男と小舟とを小さく描くだろうと思います。主は失望しきった弟子たちのそばに立ち給うお方です。私たちの人生の中にも、何もかもうまく行かず、この世から消えてしまいたいと思うようなことがないでしょうか。思い出してください。主は、私たちのそばに居られるということを。大地震の衝撃を受けているわが国は今、戦争に負けた66年前と同じくらい落ち込んでいます。しかし、覚えましょう。主は私たちのそばに立ち給うお方だということを。
 
4.心抉られる質問
 
 
・質問の主意:「魚は捕れましたか?」:
「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」(5節)これが主の弟子達への語り掛けです。何となく奇妙です。大体、漁師たちはいい齢のおじさんです。岸辺に立つ主イエスは、(生前の面影を引き継いでいるとすれば)30代の男です。「子どもたち」はないだろうと思います。それに加えて、「食べる物がありませんね。」も唐突です。初対面(と思っていた)の人々に語りかける言葉ではありません。尤も、このことばは、プロスファギオンで、プロス=傍らで、ファゴー=食べる、と言う二つの言葉の合成語です。つまり主食であるパンと一緒に食べるもの、早く言えばおかずです。ここでは明らかにパンと一緒に食べる魚を指していました。ですから、もっと直訳すれば「おかずはありませんか?」なのですが、状況から見れば、「魚は捕れましたか?」の方が遙かに意味が通ります。NIVは”Friends, haven’t you got any fish?”と訳していますし、文語訳も「子よ、獲物ありしか」と表現しています。この方が自然でしょう。魚釣りの人の側に立って、魚取れましたかと魚篭を覗くような質問で、さほど不躾ではありません。

・深い意味:不漁の意味を考えよ:
でも、この質問は、夜通し漁をしたのに雑魚一匹かからずに、すっかり落ち込んでいた7人の弟子にとって見れば、心を刺されるような質問です。この質問は、食べ物の有無と言うよりもっと深いもので、弟子達の心を探る質問でした。つまり、弟子達の弱さ、失敗、無結実、落胆を見透かしておられる主を良く表す質問です。主は私達の心の悩み、いらいら、失望、それらの全てをご存知です。でも、敢えて、愛する子供達よ、あなたの人生に結実はありましたか、獲物はありましたか、と問うておられます。取り様にもよりますが、この中には、自分の実情をしっかりと認めなさい、という叱責に似た気持ちも含まれていましょう。なぜ魚が取れないのかよーく考えて御覧という気持ちが含まれていた事でしょう。主は彼等が一匹も獲物がなかった事は百もご承知であったでしょう。キリストを離れては何も出来ない弟子達の弱さ、失敗、落胆を知り給うのが主です。でも、主は彼等の心の状態を吟味するために敢えてお聞きになったと思われます。弟子達にとっては痛い所を衝かれたなあというぎくっとした気持ちにさせられたことでしょう。隅から隅迄知り尽くしたガリラヤ湖で、一晩中網を打ち続け、それが徒労に終わってしまった遣る瀬なさ、これはどうなっているのか、と自問しながらの一晩だったからです。
 
5.弟子たちの率直な答え
 
 
・「何もありませんでした」:
彼等は未知の人間のこの問いに対して悪びれず単純に率直に答えました。「何もありませんでした。」主イエス無しの生涯は如何に無結実であるかを深く悟らせるための質問でした。キリストなき勤労や勉学、キリストなき人生設計や家庭形成の空しさを主はわからせ為さるために、主は時々こうした道に我らを追いやり、考えて御覧と諭される事があります。これに率直に答えた所に彼等の回復への希望がありました。
 
6.再度のチャンス
 
 
・不可能への挑戦:
主は「舟の右側に網をおろしなさい。」と語り掛けなさいました。これはある意味、不可能への挑戦です。彼等は一晩中働いて疲れ、失望し、イライラしていました。しかし主は不可能と思える事にも挑戦しなさいと語っておられます。私達の生涯において不可能と思われる事が多くあります。私のこの性格を変えたいと思うけれど、どうしても出来ない、とか仕事を変えてみたけれど何やっても駄目だ、とかです。主は「もう一度網を投げて御覧」と語っておられます。つまりこれは、やり直しの可能性、再挑戦のチャンス提供です。今迄、どんなに失敗続きであったとしても、主は再度のチャンスを与えて下さいます。

・大いなる収穫:
主のことばは、常識への挑戦でもありました。魚とりは、通常舟の左側に網を打つのだそうです。その意味でも右側に網を下ろせとは、常識を破った行動への促しでありました。この時弟子達はこうも言えたでしょう。「あなたは誰か知りませんが、ずいぶんいい加減なことをおっしゃるものですね。私達プロの人間が一晩中かかって雑魚一匹捕れなかったっていうのに、素人のおまえさんに何が分かるかね。よけいな出しゃばりは止めて欲しいね」しかし弟子達は誰とも分からない岸辺の男の言うことを聞いて、もう一度網を降ろしました。駄目もとでも良い、Try againに賭けたのです。その結果は、何と153匹の大きな魚が一遍にかかったのです。もちろん153という数は後で数えた結果だったのですが・・・。私たちも、主の言葉に従って網を打つ時、大いなるみ業が表れます。

・人生はやり直せる:
「人生はやり直せる」のです。今までの生涯がどんなに失敗続きであったとしても、自分は駄目だと自分でレッテルを貼っていたとしても、また、誰かに貼られていたとしても、主イエスにあるとき、人生はやり直せるのです。「私(キリスト)を離れては何もできない」(ヨハネ15:5)という真理の裏返しは「私(パウロ)を強くして下さるお方(キリスト)によってどんなことでも出来る」(ピリピ4:13)ということなのです。
 
7.食卓への招き
 
 
・素敵な朝食:
「さあ来て、朝の食事をしなさい。」忘れ得ぬ朝食、というタイトルで皆が思い出を語り合ったら面白いと思いますね。疲れて腹が減っていた弟子達に、主は素敵な朝食を準備していて下さいました。寒さに震えている弟子達に、主は炭火を用意していて下さいました(9節)。朝食のメニューはトーストと魚でした。その魚に今取れたばかりの奇跡の魚も入れるようにと命じられました。何と行き届いた牧者的配慮がそこにある事でしょう。エリヤが落ち込んだ時も、主は何も咎め立てをせずにパンと水を与え、元気を回復させなさいました。

・恵あふれた時:
彼等は何も言わずに黙々と朝食を食べました(12節)。何を考えていたのでしょう。捨てた筈の船と網に戻ってしまったという自責の念にも駆られていたことでしょう。こら、と叱られた方がずっとスッキリするのに、主が黙ってサーブして下さる姿に、叱責以上の効果があったとも考えられます。でもそれ以上に神の恵みと力、主イエスの愛をじっくりと噛み締めていたことでしょう。主のご臨在の故に嬉しくて何も言えなかったという面もありましょう。
 
終わりに:今日の主の問いかけを捉え、それに真っ直ぐ答えよう
 
 
今、どのような環境と問題を一人ひとりが抱えておられるか、私には分かりません。しかし、主はすべてをご存知であり、もう一度ご自分を私に現わされるお方です。そして、質問をなさいます。「あなたの人生にどんな獲物があったか」と。それに対して私達はありのまま、正直に告白しましょう。更に復活の主は「網をおろせ」と新しい挑戦をくださるお方です。どんなに難しい課題でも、信仰による再挑戦を試みましょう。その上で、「来たり、食せよ」と招いておられます。私たちは、主イエスの備えておられる恵に思い切り甘えましょう。
 
お祈りを致します。