礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年5月15日
 
「互いに愛し合いなさい―主の新しい戒め」
プレヤーフェロシップデーに因み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書13章1-5,12-15,34-35節
 
 
[中心聖句]
 
  34   あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13章34節)


 
聖書テキスト
 
 
1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 
はじめに
 
 
今日はプレヤーフェロシップデーです。例年これは、牧会小グループの年度初めという位置づけで7月末に行われておりますが、今年は新しい形でのスモールグループのスタートが今日ですので、それに合わせます。スモールグループの基本的コンセプトは互いの交わりと成長ですから、「互いに愛し合いなさい」という主の戒めを取り上げます。

「互いに愛し合いなさい」という戒めについて、この13章の中から、そして同じヨハネが書いた第一の手紙4章の中から、5つのポイントを拾います。
 
1.それは新しい戒め
 
 
・キリストのご命令:
キリストの福音は、私たちを律法から解き放ちました。でも、律法は廃棄されるべきものではなく、律法の精神を成就するものとして、主は愛の掟を与えました。ヨハネはその手紙の中でもこう書いています、「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Tヨハネ4:21)私たちが愛する主のご命令ですから、私たちが従うのは当然です。

・新しい戒め:自分を捨てる愛をもって:
「新しい」とは、今までなかった命令を発令するという意味での新しさではありません。旧約聖書の中核は、心を尽くして神を愛すること、自分のように隣人を愛することで、これについて主イエスは、何回も語られていました。主が「新しい」と語っておられるのは、「自分のように隣人を愛する」という以上に、「自分を捨ててまで隣人を愛しなさい」という意味での「新しさ」です。
 
2.主イエスの模範に倣って愛する
 
 
・主の心に倣う:とことんまで愛された主(1節):
主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように」と語られました。主は、その弟子達を最後まで愛しぬき、その表れとして彼らの足を洗われました。洗足の記事の前に、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく(その極致にまで)示された。」(1節)とありますのは、正に主の御心を示しています。

・主の方法にも倣う:「そのように、あなたがたも・・・」(34節):
今日の主題の34節をよく見ましょう。「わたしがあなたがたを愛したように」と語られた後で、わざわざ「そのように、あなたがたも・・・」と付け加えています。愛の心に倣うだけでなく、その表現においても、主の模範に倣うべきです。主は、弟子の足を洗われました。その後で、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」と語られました。普通の人間である私たちが誰かに模範を示そうとすると偽善的になったりするものすが、主イエスの場合、模範と言われると素直に受け取れます。なぜかと言うと、主イエスは神と等しいお方であったのに、人間の姿を取るまでに自分を低くしてくださり、その人間の中でも一番卑しい仕事を買って出てくださったのですから・・・。私たちは、真っ直ぐに主の模範に倣いたいと思います。

・僕として仕える:
それを具体的に言いますと、僕としての行動を取る、ということです。言うまでもなく、当時、足を洗うのは、一番卑しい立場の人が行う仕事でした。埃っぽい道を、サンダルを履いてテクテク旅をする人にとって、目的地について一番のご馳走は、足を洗ってもらうことでした。アブラハムが3人の見知らぬ旅人を迎えた時、真っ先に、「どうぞ足を洗ってください。」と申し出た記事がそれを物語っています(創世記18:4)。そしてその洗足の仕事を引き受けるのが、一番卑しい立場の人間だったのです。主イエスは、その仕事を買って出られました。正確には、過越しの食事の席を準備した幹事であるペテロとヨハネが、洗足係りを手配するのを忘れたのでしょう。食事は始まってしまいました。誰が足を洗ってくれるのだろうかと、互いに目を合わせながら気まずい空気が流れていました。その席でも、誰が一番偉いかという論争が続いていましたから、私が足を洗うという申し出をすることは、自分は偉くない人間だと認めることを意味していました。だから、誰も席を立とうとしなかったのです。主は、その空気を見て取って、さっと、立ち上がられました。
 
3.神の愛をもって愛する
 
 
・ユダも含めて:
主イエスは、間もなく自分を裏切ろうとしているユダの足をも洗いました。どんな気持ちでユダの足を洗ったことでしょうね。「ユダ、お前のことも私は愛しているよ。時間を上げるから、自分のしようとしていることを考え直してご覧。」というような、無言の会話がなされたことでしょう。私たちにも、苦手な種類の人間というものは、存在するものです。気に入った人だけ好意を示し、気に入らないひとには口も利かないというのは、世の人の行動です。でも、主が「互いに愛し合え」とおっしゃる時、「互い」の中には「虫の好かない人も、自分に好意を持たない人も、もっと言えば、自分を滅ぼそうとする人も含むのだよ」と主は語っておられるのではないでしょうか。

・神への愛をもって愛する( Tヨハネ4:20):
ヨハネは、その手紙の中で、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」( Tヨハネ4:20)と語ります。神への愛は、互いの憎しみを乗り越え、それを愛に変える力です。

・神の愛に押し出されて愛する(Tヨハネ4:7、9−11、19):
さらにヨハネの手紙を引用します。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。・・・神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。・・・私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Tヨハネ4:7、9−11、19)神が先ず、何の価値もない罪人である私たちを愛してくださった。その証拠に御子を十字架に付けてくださった。その愛に突き動かされて、私たちは互いを愛するのです。これは、義務とか道徳の問題ではなく、恵に感じる心の問題です。
 
4.互いの足を洗う
 
 
・隣人の「足」を洗う:
他人の足を洗うことは、あまり気持ちの良いものではありません。同じように、隣人の足だって、本当は洗いたくない部分です。私たちが主にある交わりと言っても、他人の「足」の部分はなるべく避けて通り、当たり障りのない会話で終えたいのが人情です。でも必要な時には、(いつでもではないと思いますが)隣の人の大変な部分、弱い部分、つまり「足」の部分に触れねばなりません。それが、互いに対する勧告という形をとるか、励ましや慰めという形をとるかは別として、信仰者は真っ直ぐに互いと向き合うことが大切です。このような直接的な触れ合いは、人間的には避けたいところでしょう。しかし、主の恵をもって(詮索好きとか、批判的な気持ちではなく)互いに接したいものです。その時私たちが持つべき態度は、「私も恵みなしには生きていけない。しかし、主の恵は豊かである。だから、他の人にも主の恵が働くはずだ」という信仰でありましょう。

・謙って自分の「足」に触れてもらう:
他人の足は洗うが、自分はいつもパーフェクトで洗ってもらう必要はない、というのは、本当のへりくだりではないと私は思います。ペテロは、「イエス様に足を洗っていただくなんて勿体なくてできません。」と断りました。その時の主の言葉が興味深いものです。「もし私があなたの足を洗わなければ、私とあなたとの関係は結べませんよ。」と。私たちの間での交わりに当てはめると、「私は相手の足を洗うことは喜んでしますが、自分の足は自分で洗いますから結構です。」という態度の人に譬えることができましょう。英語で言うと、“I am holier than you.”という気持ちです。そうすると交わりは成り立ちません。スモールグループの幹事の心得の中で、私は申し上げました「幹事は上に立つのではなく、みんなと同じ立場に立ち、自分の弱さ、失敗を曝け出す勇気を持たねばならない」と。私は、主の助け無しには生きられないと同じくらい、他の人の助けも必要としています、と自分を曝け出す時に初めて交わりが生じます。
 
5.それによって神の愛が証しされる
 
 
・神の愛が全うされる(Tヨハネ4:12):
ヨハネの手紙の中では、「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(Tヨハネ4:12)と記されています。つまり、私たちが互いに愛し合うことによって、神の恵みが満ち溢れてくるのです。互いを相愛することは、信仰者の生活にとって第二義的なものではありません。とても大切なものです。神の愛が私たちの内に完成される道なのです。

・弟子であることが証しされる(35節):
主は、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(35節)と語られました。反対側から言いますと、私たちの間での互いの愛が欠けていて、反目やら、噂話やら、分派闘争が横行するようでしたら、教会外の人々は、私たちがキリストの弟子であることを認めない、つまり、伝道の効果がないと言うことになります。貴重な警告です。
 
終わりに:洗足を実行しよう
 
 
もう一度、今日の主題聖句に戻ります。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」今日から、新しい形でのスモールグループが始まります。この交わりは、真の意味で、足を洗う形で互いに愛し合うことを学ぶための大切な場を提供してくれます。今日の午後からスタートしますので、皆さんでその意義を弁え、実行しましょう。

その前に、今座席に隣り合っている3、4人の人々と共に祈りあいましょう。

祈り合う前に、週報に挟んだメモに自分のコメントを簡単に記してください。そのメモをお互いに交換し、そしてそれに基づいてお互いのために祈りましょう。
 

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