礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年5月29日
 
「信仰と聖霊とに満ちたステパノ」
五旬節に向かう(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き6章1-15節
 
 
[中心聖句]
 
  8   さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。
(使徒6章8節)


 
聖書テキスト
 
 
1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。
8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。
11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせた。12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った。13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。
 
始めに:
 
 
「聖霊に満たされた人々」というシリーズで、ペンテコステに備えています。昨週は旧約聖書から「神の霊が宿る人ダニエル」を取り上げました。今日は、新約聖書から「聖霊に満たされた人ステパノ」を取り上げます。
 
1.ステパノという人
 
 
・名前の意味(イラスト@):
ステパノという言葉は、ギリシャ語で、その意味は「冠」です。

・ディアスポラ(世界に散らばっている)ユダヤ人:
その名前が示すように、彼はギリシャ語を話すユダヤ人でした。恐らくその本拠地はエルサレムではなく、パレスチナ以外の場所だったようです。このような人々を離散ユダヤ人(ディアスポラ)と呼びます。
 
2.教会の配給係りに選ばれる
 
 
・エルサレム教会で、配給が不公平という呟きが起きた(イラストA):
エルサレムに留まっている信者、特にやもめさんたちに食料の配給が行われていましたが、ギリシャ語を話す国際的なユダヤ人とヘブル語(アラム語)を話す国粋的なユダヤ人との間に、分配が不公平ではないかという呟きが起きました。

・奉仕者(執事)が7人選ばれる:
それを解決するために、食糧配給係りを決め、ペテロ、ヨハネそのほかの使徒たちは説教と祈りに集中してもらおうと言うことになりました。その条件は「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い」人(3節)ということでした。選ばれたのが七人の役員(執事)です。そのナンバーワンがステパノでした。(イラストB)

 
3.説教者として活躍
 
 
・説教や癒しの奉仕も行うようになる(8節):
ステパノは食事のお世話をしながらも、接する一人びとりのニードに答えようとしました。病気の人もいれば、悩んでいる人もいれば、という人々のニードに答えるために、説教の機会があれば説教し、論争が必要な時は論争し、病気の人がいれば直してあげ、という風に奉仕の枠が広がっていきました。

・「リベルテン」会堂のディアスポラ・ユダヤ人と論争する:
その内に「リベルテン」と呼ばれる会堂に属するディアスポラ・ユダヤ人がステパノに論争を挑みます(9−10節)。リベルテン会堂は、ポンペイスの頃ローマによって囚人となったものの子孫で、自由にされた人々の集まる会堂でした。ギリシャ語を話すユダヤ人が出入りする彼らの拠点でした。今日の言葉で言えば、ディアスポラ集会のようなものと考えられます。ですから、かなり開かれた考えを持っている筈なのに、キリストの福音については疑念を抱いていたようです。彼らは、ステパノのグループがエルサレム神殿における礼拝をないがしろにすると非難しました。
 
4.最初の殉教者となる
 
 
・サンヒドリン議会で演説する(12節):
その論争が、サンヒドリン議会という70人からなるユダヤ人の最高議決機関に持ち込まれました。ここはユダヤ人の中でも保守派の牙城です。7章で長い演説が記録されていますが、その演説を一言で言いますならば、神は神殿という場所だけで礼拝されるお方ではなく、いつでもどこでも居られるお方として、いつでもどこでも礼拝を捧げるべきだ、というものです。これは、主イエスによって齎された福音が、今までの儀式やきまりを抜け出す新しいものだ、という思い切った主張を含んでいました。ユダヤ人たちは、ステパノの考えが、ユダヤ教を掘り崩してしまう革命的な教えであると言うことを直感しました。

・石打ちで殺される(7章54−60節)(イラストC):
もう、こうなると議論や理屈ではなく、また、ローマの総督に許可を得ることも忘れて、みんなで石打ちを行ってステパノを葬ります。ステパノは、キリスト教歴史の中で最初の殉教者です。それだけ、ほかの人には見られない鋭い洞察を福音に対して持っていた人物であると言うことです。ユダヤ人はローマの植民地でしたから、死刑を行うのは許されていませんでした。しかし、ローマ総督の許可を得るまでもなく、非合法な群衆のリンチでステパノを葬ったのです。

・その責任者サウロに感動を与える:
この非合法的なリンチ事件の際に、人々の上着を集めて番をした男の名前がサウロです(7:58)。サウロの役割は、このリンチが当局から咎められたら自分が責任を持つという重いものでした。自分が臆病だから手を出さなかったと言うわけではありません。言うまでもなく、サウロは石打ちに大賛成でした。キリスト教とはゃユダヤ教を壊してしまう危険な思想だとサウロは考えたのです。ですから、これ以来、キリスト教迫害運動の先頭に立って、多くのクリスチャンを捉え・投獄しました。しかし、サウロが一番反発したステパノの顔の輝き、ステパノの説教の説得力、そして敵を愛する赦しの精神は、彼の心に深く留まっていました。それが潜在的に働いて、後の劇的改心に繋がるのです。
 
5.聖霊と〇〇に満ちたステパノ(イラストD)
 
 
ここで聖書がステパノの人柄について「聖霊と〇〇に満ちた」という表現を多く使っていることに注目します。「満ちた」を鍵言葉として、ステパノの性格を捉えたいと思います。ステパノは聖霊に満たされていました。それがこの他のすべての特徴を決定付けるものです。ステパノは、どこかで聖霊の満たしをいただき、その経験を継続して生きていたのです。この点は、もう一度最後に触れます。

・知恵に満ちた人(3、10節):
ステパノは、聖霊に満たされていましたから、知恵に満たされていました。聖書を良く知っているだけではなく、聖書が言おうとしている本質を見抜く洞察力を持っていました。特にその聖書の本質と主イエスの事実を結びつけ、キリストの福音が歴史を変えるのだという強い確信を持つことが出来ました。

・信仰に満ちた人(5節):
彼の持っている信仰は、すべての疑いや迷いを吹き払うものでした。神のみ力を100%信頼する単純な信仰でした。それが彼の行動・言葉に影響を与えていました。

・恵みに満ちた人(8、15節、7章60節):
信仰に満ちたというと、勇ましいけれども、人間として近づきにくい固い人を想像する人も多いと思います。ステパノは違います。その顔は天使のように輝いていました。それは、内なる住んでおられるキリストが外に現れた輝きでした。そして、その最期の声は、人々を赦す愛の言葉でした。恵に満ちた人、私たちがみんな憧れます。これは、どんな評価に優る評価です。昨週のことですが、10年ほど前に天に召された本田弘慈先生の追憶集を頂きました。色々な評価の中で、「慈愛に満ちた先生の笑顔」という感想がその殆どの方に共通していました。

・力に満ちた人(8節):
ステパノの言葉には説得力がありました。聞く人の心を揺り動かす力を持っていました。彼自身の力ではなく、聖霊の与えた力です。また、病気の人を直す力がありました。

これら全ての「徳」の中心は「聖霊に満たされた」という言葉です。
 
6.聖霊に満たされるとは
 
 
・内に住んでおられる聖霊が、じゃまされないでそのお働きをなさること:
聖霊に満たされるとは、聖霊の部分的ご支配や影響を受けているというよりも進んで、内に住み給う聖霊が、十分に、そして自由にそのお働きをなさることを意味します。アボット博士の定義によれば、聖霊のみたしとは「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。別の言い方をすれば、一個の人格が他のお方の人格に道を譲るという経験であり、人間の人格性が神の人格性に浸透される経験、もはや自分ではなくキリストが生きると言う経験なのです。

・聖霊に満たされるには
@求めて祈ろう(ルカ11:13):
主イエスは、「求めるものに聖霊が与えられる」と語られました(ルカ11:13)。「私には、聖霊の満たしが必要です。それ以外に勝利あるクリスチャン生活を送ることはできません。」と切なる求めを主に告げましょう。
A自分のやり方を、神のやり方に譲ろう(ローマ12:1):
器が水で満たしていただくためには、先ず空っぽにならなければなりません。自分の主義・計画・やり方・プライド・そのほか自分はこれがなければと固執しているものを、全部主のご支配に委ねましょう(ローマ12:1)。個性も含めてです。でも、個性を造られたのは神様ですから、それを一番良く活かす方法で用いなさることは疑いありません。聖霊はジェントルマンですから、私達の自由意志を曲げてまで心を占領なさるお方ではありません。私達が「どうぞ」というまで、じっとお待ちの方です。だからこそ、私達の側で、「聖霊なる神よ、どうぞ私の心を治めてください。あなたが命令することは喜んで何でも従います。あなたが行けと仰るところには、喜んで行きます。あなたが止めなさいということは、私の主義に合わなくても止めます。」という白紙委任をすることが大切です。神を信頼しましょう。私が人生をコントロールするよりも遥かに安全で、遥かに善に満ちたまうお方が神様だという信頼感がありますと、これが出来ます。私達はこのような意味での明け渡しをしましたか。それを続けていますか。
B神は祈りに答えてくださると信じよう:
いつまでも求め続けるのではなく、得たりと信じる信仰が大切です。私たちの側での条件が果たされたならば、主は受け取ってくださったと信じて立ち上がりましょう(マルコ11:24)。ここがあやふやですと、勝利が来ません。子供が与えられるように祈り続けたハンナが、祭司エリの言葉によって勝利を確信して立ち上がった時、その顔から憂いは去っていました。勝利を確信しましょう。
 
終わりに:私たちもステパノになろう
 
 
越山八郎勧士は、ご自分のクリスチャンネームをステパノと(多分)自称しておられました。しかも漢字で捨羽翁とまで洒落ておられました。輝く存在でした。私たちも小さな意味でステパノになれます。聖霊に自分の生き方を明け渡しさえすれば・・・。
 
お祈りを致します。