礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年6月5日
 
「聖霊に従ったピリポ」
五旬節に向かう(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き8章25-40節
 
 
[中心聖句]
 
  26,27   主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。
(使徒徒8章26-27節)


 
聖書テキスト
 
 
25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)27a そこで、彼は立って出かけた。27b すると、そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か差し支えがあるでしょうか。」38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。
 
はじめに
 
 
先週は、聖霊に満たされたステパノを学びました。その知恵、力、恵み深さ、それらはみな、聖霊の賜物であることを見ました。

今日は、同じ執事七人のナンバー2、ピリポです。特に、「聖霊に従った人」としての側面に焦点を当てます。
 
A.ピリポの生涯
 
1.名前と背景
 
 
・名前:
ピリポという名前は「馬愛でる人」と言うもので、日本的に言いますと「馬之助」さんです。アレクサンダー大王の父がピリポでしたから、この名前は個人名としても、また、町の名前としても当時の世界で広く使われていました。主イエスの弟子にもピリポがいたのを覚えておられることでしょう。

・背景:
このピリポがどこの出身であるか分かりませんが、恐らくステパノと同様、ディアスポラ・ユダヤ人の一人であったと考えられます。そのピリポがペンテコステ前後からキリストの弟子となり、信徒の群に加わっていました。
 
2.エルサレム教会の執事に選ばれる(6:3―5)
 
 
・食卓に仕える人(図@):
エルサレム教会内でやもめたちの給食を巡って争いが起きた時、食卓に仕える奉仕者(執事)が7人選ばれましたが、ピリポはその中の一人、正確に言うと、ナンバー2でした。「彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び・・・」(6:5)とあるとおりです。

・御霊と知恵と信仰に満ちた、評判の良い人:
その資質は「御霊と知恵と信仰に満ちた、評判の良い人」でした。「『兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私達はその人たちをこの仕事に当たらせることにします。』・・・彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ・・・選び・・・」(6:3―5)とある通りです。
 
3.サマリヤでの奉仕(地図参照)
 
 
・サマリヤに散らされる(8:1):
ステパノの殉教がきっかけとなって起きたサウロによる迫害で、12弟子以外の教会指導者はみなエルサレムの外に散らされますが、ピリポはサマリヤに行き、そこで福音を伝えました。

・サマリヤでリバイバル:
その結果大きなリバイバルが町に起きました。「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていた徴を見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。・・・それでその町に大きな喜びが起こった。」(8:4−8)。素晴らしいことです。この町のリバイバルは突然起きたものではなく、ヨハネ4章において見られるように、一人の女性の救いを通して町中の人々が主イエスの話しを聞いていたことがその背景にあったものと思われます。いずれにせよ、この反応は、エルサレムでも見られないような熱狂振りでした。
 
4.ガザに下る道でエチオピアの財務大臣に伝道(26―40節)
 
 
これは後で詳しく述べることと致します。
 
5.アゾトからカイザリヤへ(40節)
 
 
・アゾトへワープ:
財務大臣に伝道した後、ガザからアゾトまでワープされます。それから、海岸沿いに北上し、道々伝道しながら、当時の政治的首都であったカイザリヤにたどり着きます(8:39−40)。

・カイザリヤで定住:
カイザリヤでは普通に結婚し、4人の女の子を設けます。伝道をしながら、落ち着いた家庭を形成していったものと思われます。

・パウロを歓待:
財務大臣への伝道の25年後(AD58年)、パウロが第三次伝道旅行を終えてパレスチナに戻ってきた時、ピリポの家に滞在することになりました。「翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。」(使徒21:8)

・四人娘が説教者に(21:9):
そこでパウロは四人の娘さんたちに会います。「その時彼女らは立派な説教者に育っていたのです。この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。」(使徒21:9)私はこれを読むたびに、何と麗しい話だろうかと感心します。このエピソードがなかったら、私たちはピリポの人物像を、普通のクリスチャンとはかけ離れたモーレツ伝道者という風に捉えてしまったことでしょう。でも、このエピソードで、ピリポという人間がぐっと親しみを増してきました。よき家庭人であり、信仰深いお父さんであった様子が、この短い記事を通して伝わってきます。

さて、エチオピアの財務大臣への伝道に戻り、その中から聖霊に従ったピリポの姿を見ます。
 
B.聖霊に従ったピリポ
 
1.成功の場所から離れる
 
 
・ガザ行きの命令(26節):
ピリポは、サマリヤでの大きな働きの真最中にガザ方面へ行くようにとの命令を受けました。「ところが、主の使い(この場合は聖霊と同義語に取ってよいと思われる)がピリポに向かってこう言った。『立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』(このガザは今、荒れ果てている。)」(26節)ガザとは今大きな話題になっているパレスチナ自治区で、ハマスの勢力下にあるところです。そこへの道は、当時も今も荒野です。当然、人間的には理解し難い導きでした。多勢を対象とした華やかな働きから、わずか一人を対象とする地味な働きへ、賑やかな都会からジャッカルしか住んでいないような荒野へ、また、確かな働きから未知の働き場へ、この移動は人間的な目で見れば納得の行かない命令でした。成功したサラリーマンが、ある日突然人里離れた地へ派遣されるようなものです。

・ピリポの服従(27節):
しかし、ピリポは淡々とその導きに従います。「そこで、彼は立って出かけた。」(27節)「立つ」も「出掛ける」も文法的にはアオリストで、躊躇なく直ぐに立って、出掛けた様子を示します。何の質問も、文句もなく、素直に従ったようです。現実的に考えるとありえないような行動です。しかし、ピリポは素直に行動しました。何故これができたのでしょうか?私は、ピリポが自我に死に切っていたからだと思います。死に切っている器は、理不尽と思える決定にも淡々と従うことが出来ます。もし彼が理屈をこねて、服従しなかったら大きなチャンスを見逃した結果になったと思います。私達も、聖霊のゴーとストップのサインに敏感でなければなりません。それに従う気持ちを持っていると、サインは見え、従うと尚更サインが見やすくなるものです。あるときには耳で聞こえるように確かに、あるときは、日々の御言葉を通して、あるときは心の平安というサインを通して主は導いておられます。それに従う私達でありたいと思います。
 
2.高官にも恐れず近づく
 
 
・求道者の存在(27節):
「すると、そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。」(27節)エチオピアというと、多くの方はアベベを思い出します。40年余り前裸足でオリンピックに出て優勝した英雄です。私はというとエチオピア料理を思い出します。ケニアにはエチオピア料理店が多くあって、何回か料理を頂きました。テフと呼ばれる練ったそば粉の様なものをうすく鉄板の上に広げて熱し、それを一口サイズに千切っては、幾つかあるおかずの皿からおかずを取って丸めて食べるといったもので、いくらでも食べられます。さて、そのエチオピアにはコプト教会という紀元1世紀にその歴史を遡ることができるキリスト教会があります。その起源は必ずしも明確ではありませんが、恐らくその基となった男が、エチオピア女王の全財産を管理するこの財務大臣です。彼の地位は高く、給料も高かったが、一つ悲しいことは、彼は男性たる機能を取り去る手術をしていました。この当時の政府高官は、王様のハーレムに余分な手出しをしないように、こんな非人間的な扱いをされていました。いずれにしろ、この財務大臣は心の渇きがあって遠いエチオピアからエルサレムまで片道2千キロの道のりをものともせず、巡礼者として礼拝に訪れたのです。

・真剣な聖書の学び(28節):
「彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」(28節)この財務大臣が礼拝の帰り道、聖書を読んでいたと言うのです。聖書と言っても今日のような一冊の本ではなく、羊皮紙を丸めた巻物でした。高価なものでしたが、財務大臣には大した金額ではなかったかもしれません。それをエルサレムで買い求めて、嬉しくてたまらない財務大臣は、その1章から声を挙げて読んでいたのです。微笑ましい光景ですね。

・未知の人に近づく大胆さ(29−30節):
「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。』と言われた。そこでピリポが走って行くと・・・」(29−30節)ピリポは徒歩で旅行する庶民的な伝道者でした。相手は高級車にのった一国の財務大臣でした。でもピリポは物おじしませんでした。何故か。それは彼が聖霊の導きに単純に従ったからでした。
 
3.聖霊の導きに従って語る
 
 
・知恵深いアプローチ(30−31節):
「預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、『あなたは、読んでいることが、わかりますか。』と言った。すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう。』と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」(30−31節)自然な会話からキリストに話題を持っていく知恵をここに見ます。ごく自然な会話から、魂の必要に入っていくのは聖霊の知恵によるのです。知恵とは、相手の関心事を自分の関心事とすることによって相手を受け入れ、相手の心を開かせることです。まず、この偉い人が預言者イザヤの書を読んでいるのに驚いて、思わず彼は声をかけました、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」ちょっと失礼かなと思ったのですが、たどたどしい読み方でそれを察知しました。すると、財務大臣は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言いました。それだけでなく、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだのです。

・キリストを提示(35−38節):
財務大臣が心を開いたのを見計らって、ピリポは賢く、そして大胆に主キリストを紹介しました。ピリポは、財務大臣が読んでいた聖書の個所をすぐに理解しました。

「ほふり場に連れて行かれる羊のように、
 また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、
 彼は口を開かなかった。・・・」

これはイザヤ書53章、神の僕と呼ばれる人物に関する予言です。その僕が苦しめられ痛めつけられてもじっとそこに耐えている姿です。

そこで財務大臣はピリポに向かって「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」と質問しました。皆さんは誰のことを指しているか見当がお着きでしょう。これはキリストの十字架の予言です。ピリポはこの聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えました。飢え渇いていたこの財務大臣にとって、これだけで充分でした。うん、納得と思った丁度その時、荒野の中のオアシスを通りがかった。財務大臣は「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」実に単純な願いです。私は分かった、信じた、その表れがバプテスマならば、四の五の言わないで今受けさせて下さい、真に男らしい、すがすがしい態度です。馬車は止まり、ピリポに導かれた財務大臣も水の中へ降りて行き、父と子と聖霊の名によって、と簡潔なしかし厳かな儀式が行われました。
 
4.聖霊に結果を委ねる
 
 
・魂を委ねる(39−40節):
自分の働きの結果に固執しないで、聖霊に魂を委ねていくという淡泊さです。これはフォロアップを忘れるという無責任さではありません。聖霊に委ねる信頼があってこそなのです。洗礼おめでとうと二人が手に手をとって喜ぶ間もなく、神はピリポを別な場所に移しました。あれ、どうしたのかな、と財務大臣は一瞬訝ったとは思いますが、ピリポよりも確かな存在として捉えた主イエス・キリストを心に抱いて、今まで通りの道を、しかし心の中から沸々と沸き上がる喜びを感じつつエチオピアまでの道のりを続けました。私達は屡、導いた魂を「私の魂」と称して私有してしまう場合があります。これは魂の所有者である主ご自身への僭越な行為です。私が救うのでもなく、私が育てるのでもありません。それらは主のお働きです。私達はそれを手伝い、祈ることはできます。しかし本当の生みの親、育ての親は主ご自身であることを信じ切り、もっと委ねなければなりません。
 
おわりに
 
 
このようにピリポは、聖霊の導きに従いました。この従順は、本当の意味で自己に死に切った所から始まります。実は聖霊に満たされるとは、自己に死ぬことから生まれるのです。それこそが私たち一人ひとりに問われている経験です。
 
お祈りを致します。