礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年6月12日
 
「みなが聖霊に満たされ」
五旬節を迎えて
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章1-4節
 
 
[中心聖句]
 
  4   すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
(使徒徒2章4節)


 
聖書テキスト
 
 
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
 
はじめに
 
 
4月24日の復活節(イースター)を超えてから7週間が経過しました。最初の3週間は召天者記念礼拝、CSデーを含む特別な講壇とし、後半の4週間は「聖霊に満たされた人々」を取り上げました。ペンテコステのこの日、二千年前のペンテコステの出来事そのものに、私達の心を向けたいと思います。
 
1.五旬節の日
 
 
・「五旬節」:
「ペンテコステ」とは、ギリシャ語の第五十という意味です。日本語の「五旬節」も同じ意味です。さて、このペンテコステは、ユダヤ教における三大祭りの一つでした。過越の祭りの最終安息日の翌日(日曜日)から7週間を数えた安息日の翌日、つまり、その日から数えて50日目に大麦の収穫を祝う祭りが始まります(レビ23:15−16)。これが「7週の祭り」または、ペンテコステです。過越しはパレスチナのユダヤ人がこぞって集まる祭りであったのに比べて、ペンテコステは外国にいるユダヤ人が数多く集まってくる祭りでした。早春の過越しよりも、晩春のペンテコステの方が旅行をし易かったからです。ですから、この日も、世界各地から離散ユダヤ人や外国人でも神を敬う人々が沢山集まっていました。

・「日が満ちて」:
「五旬節の日になって」という日本語訳は、英訳ではwas fully fulfilled(ギリシャ語では、スンプレルースタイ)で、その日が充分満たされて、という意味です。その五旬節に期待されていた恵が注がれる条件が充分に満たされたことを示しています。旧約聖書の予言では、末の時代に聖霊がすべての人に豊かに注がれることが預言されていました。その期待が成就する日として、ペンテコステが選ばれたわけなのです。その日に向かって祈りが積まれ、その頂点がこの日だったのです。

・「みなが一つ所に集まって」:
そこには一致のスピリットが伺えます。喧嘩しながら一緒にはいられませんね。弟子達は、主がご昇天なさってから、文字通りエルサレムを離れないで、聖霊の与えられるお約束の実現を待ち望みました。10日間の祈りで不思議な一体感が生まれていたことでしょう。私達が祈りに集中しますと、一体感が生まれます。一体的な祈りは聞かれます。地において二人のものが心を合わせて祈る時、天にいます父なる神はこれを聞いてくださるからです(マタイ18:19)。
 
2.三つの徴
 
 
・「風のような音」:
その時突然、「風のような音」が轟きました。これは、聖霊の到着の先触れと考えられます。風は、人を活かす御霊の働きの象徴です。

・「分かれた舌のような炎」:
一つの大きな火の塊が分かれて個々人に与えられたことを聖書は述べています。火はきよめの業をなし給う御霊の徴です。

・外国の言葉での説教:
聖霊に満たされた弟子達は、その導きのままに、今まで学んだことのない外国語、しかし、きちんとした外国語で説教を始めました。それぞれの弟子達は、母国語とは全く違う言語でしゃべりました。パルテヤ、メジヤ、エラム、メソポタミヤ、カパドキヤ、ポント、アジヤ、フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、リビヤ、ローマ、クレテ、アラビヤと、数えるだけでも14カ国の言葉が語られました。それも、挨拶程度の断片的な発言ではなく、神の大いなるみ業(福音)が、はっきり分かる言葉で伝えられました。念のため繰り返しますが、これは意味不明の恍惚的な発言ではありません。
 
3.聖霊に満たされるとは?
 
 
この時、弟子達は「聖霊に満たされ」ました。「〇〇に満たされる」という言い方は、聖書にしばしば見られます。怒りとか、喜びとかに満たされるという言い方です。その感情が支配的になって、他の感情を追い出してしまうような状況を表します。この場合は聖霊によって心が支配されることを指します。

・聖霊が満ちる:
この聖霊が「満ちる」とは、聖霊が妨げられることなく支配なさることです。聖霊は働いておられるが、私たちの側でそのお働きを妨げることがあります。神の御心よりも自分の意志を通そうとする時、聖霊はジェントルマンですから、「それではあなたのやり方を行いなさい」と私たちの態度に譲ってしまわれます。私たちの心を「家」に譬えるならば、聖霊はお客さんとして客間に入って頂いているようなものです。しかし私たちが、大事な部分について、ここは自分が支配する、自分が決定する、誰にも譲らない、という明け渡さない部屋を持っている限り、お客さんはそこには入れません。私達が「どうぞ」というまで、じっとお待ちの方です。だからこそ、私達の側で、「聖霊なる神よ、どうぞ私の心を治めてください。あなたが命令することは喜んで何でも従います。あなたが行けと仰るところには、喜んで行きます。あなたが止めなさいということは、私の主義に合わなくても止めます。」という白紙委任をすることが大切です。聖霊の満たしとは「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。これをするためには、私達が神を全く信頼しなければなりません。白紙委任したが最後、身ぐるみ剥いで取られてしまうかも知れない、という危惧を持ったならば、怖くてこんなことは出来ません。でも、私が人生をコントロールするよりも遥かに安全で、遥かに善に満ちたまうお方が神様だという信頼感がありますと、これが出来ます。もっというと、聖霊は私達の自由意志を曲げるお方ではなく、私達の個性、願い、楽しみを十分尊重なさるお方です。でも、きわどい所でノーと仰ることもあります。その時は、自分の個性、願い、楽しみを主張しないで、淡々と従えば良いのです。お分かりでしょうか。私達はこのような意味での明け渡しをしましたか。それを続けていますか。
 
4.満たされる出来事と満たされる状態
 
 
特にルカの文書(ルカの福音書と使徒の働き)にこの表現は多くみられますし、他の場所にも記されています。その強調点からいくつかに分類されます。

・出来事としての満たし:
この2:4の「満たされ・・・」とはアオリスト時制です。これは画然とした満たしの経験を物語っています。満たされた状態の始まりとでも言えましょうか。他に、サウロが回心経験の直後、アナニヤの按手を受けて聖霊に満たされたこと(使徒9:17)が記録されています。

・働きのための満たし:
ザカリヤ(ルカ1:67「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。」)こうした表現は、ある特別な働きのために聖霊の強力なお助けを頂いてそれを実行する、というものです。他にもペテロがイスラエルの指導者たちの前に立たされたとき「聖霊に満たされて・・・言った」(使徒4:8)という風に記録されています。

・状態としての満たし:
バルナバ(使徒11:24「彼(バルナバ)はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」)こうした表現は、ある人々の性質的なものとして使われています。他には、使徒6:3「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。」とか、同6:5「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ・・・」という使い方です。エペソ5:18の「聖霊に満たされなさい」という命令は現在進行形で、継続を強調しています。聖霊はガソリンではありません。ある時に満タンにして、暫く走るとガス欠になる。だからガソリンスタンドに寄らなければならない、というイメージでこの聖句を考えてはなりません。何か大きな聖会とか集会で大いに恵まれ、満たされたような気分になって生活を始める、しかし、一ヶ月二ヶ月と経ってイライラが起きたり、落ち込んでみたりして、どうも霊的状態がさえない、そこでどこかの聖会とか大会のようなところで満たしていただこう、こういうサイクルを繰り返していることが教会生活だ、と思っている方はありませんか。かくいう私がそういうタイプのクリスチャンでしたから、その気持ちは良く分かります。しかし、聖霊に満たされ続けるとは、そのような「霊的な高揚」という心の状態を続けるという意味ではありません。聖霊は人格です。満たされるとは、その影響と感化をフルに受けられる状態に自らを置いて、彼を友としていと近くにおいて交わり、また、主として崇めより頼みつつ歩むことです。そして、その結果は、聖霊の実と呼ばれる「愛、喜び、平和・・・」という品性です。
 
5.すべてのクリスチャンの特権
 
 
・みなが満たされた:
2:4で「みなは・・・」と、ここにいた12弟子達、イエスの母マリヤ、イエスの兄弟たち、女性の弟子達、そのほかの合計120人が一人の例外もなく、聖霊に満たされました。聖霊の満たしは、特殊な人々の特殊な状況での満たしではありません。すべてのクリスチャンのための、当たり前の水準です。

・これが初代教会の標準:
ウェスレーは、「聖書的キリスト教」という説教の中で、みなが聖霊に満たされることこそが初代教会の当たり前の姿だと強調しています。彼は、当時のキリスト教がその力と品性を失っている現状を嘆きつつ語っています。使徒6章を見ると、御霊と知恵とに満ちた人々を選べ、との要請に対して、苦もなく7人が選ばれました。この水準は現代教会のものでなければなりません。聖霊に満たされた学校教師、警察官、ビジネスマン、サラリーマン・ウーマン、学生、主婦、高校生、中学生が、今ほど求められている時代は他にないのではないでしょうか。

・私達に必要で可能な経験:
この聖霊は、ペンテコステの日からずっと今に至るまで働いておられます。風の音とか、火のような形とか、異なる言葉という特別な現象は繰り返されていませんが、静かな、そして確かな方法をもって私達の心に語っておられ、働いておられます。このお方に心からの明け渡しをもってお委ねするときに、私達の心に大きな変革を齎してくださいます。恐れは平安に、臆病は大胆に、自己中心が愛中心に変えられます。それだけでなく、私達の日々の生活において、継続的な臨在と、助けと、慰めと、知恵とを与え続けてくださいます。
 
終わりに:満たされる始めと継続を
 
 
「満たされ続ける」為には、「満たされる」はじめがあります。その始めを経験されましたか。難しいことではありません。全く自分を明け渡して、どんな興奮があってもなくても、満たしを信じて歩み始めましょう。また、その同じ姿勢をとり続けることによって、聖霊に満たされ続けるものでありたいと思います。
 
お祈りを致します。