礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年6月19日
 
「御霊に導かれて進もう」
ペンテコステを越えて
 
竿代 照夫 牧師
 
ガラテヤ人への手紙5章16-26節
 
 
[中心聖句]
 
  16   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
(ガラテヤ5章16節)


 
聖書テキスト
 
 
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
 
始めに
 
 
昨週はペンテコステ礼拝を共に守りました。ペンテコステ前の三週間は「聖霊の満たされた人々」について、ダニエル、ステパノ、ピリポの三人のケースを取り上げました。昨週のペンテコステでは、使徒2章から「皆が聖霊に満たされた」というペンテコステの出来事に焦点を合わせました。さて、今日はガラテヤ5章から「御霊に導かれて進もう」とのテーマでこのシリーズを終わります。ガラテヤ5章は今までも何度か取り上げましたが、今日は、御霊に逆らうものとしての「肉」に注目し、それを克服するものとしての御霊の歩みを共に学びます。
 
1.「御霊による歩み」を勧める3つの聖句
 
 
ガラテヤ書5章の強調を一言で言いますならば、「御霊によって歩む」ということです。それを直接言い表している言葉が三つあります。

・御霊によって歩む(16節):
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ここでの強調は、「肉」という言葉で言い表されている「生まれつきのままの人間的な性質」によって生きるのではなく、内に住み給う御霊により頼みつつ生きようということです。「御霊によって」(pneumati)とは「御霊に頼って」との意味です。

・御霊に導かれる(18節):
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」ここでの強調は、御霊の支配を認めつつ生きることによって、「・・・ねばならない」という律法主義から自由にされることです。神によらない人間性は、ある時には勤行主義に表われ、別な時には放縦に表われます。御霊による歩みは、ガンバリズムから私達を解放して、しかも頑張りによって達成出来ない律法の真髄を達成させるのです。

・御霊による共同歩調(25節):
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」ここでの強調は、御霊によって生かされている個々人が、互いを顧みつつ共同的に足並みを揃えて進んでいくことです。この「進む」(stoichoomen)は歩むとは違って、軍隊で列を作って行進するという意味です。御霊による歩みは個人の内面的な生活に限定されているのではなく、クリスチャン同士の協力的な人間関係の中で開発されるのです。聖書は、「互い」を強調します。私達は教会と言う交わりを通して、互いを意識し、互いを立て上げながら共に成長して行くのです。私は私の心に聖霊が働いていると信じています。それと同じように、お隣さんの心にも聖霊が働いておられると信じます。私がお隣さんを尊敬するのは、そのためです。同じ御霊がいわば共鳴するのです。その共鳴の中に互いが建て上げられます。スモールグループの基本にあるのはこの共同的成長と言う聖書の教えです。<この節の「導かれて」という意味を示す言葉は原語にはありません。単に「御霊によって」pneumatiです。でもその実態を顕わそうと新改訳では18節の言葉に引かれて「導かれて」を補っており、それは妥当と思います。>

 
2.「肉」の働きを警戒する5つの節
 
 
そしてパウロは、そのように御霊によらない歩み方を一言で「肉によって歩む」歩み方だと言います。5章における「肉」を拾ってみましょう。

・「自由」を履き違えると肉が働く(13節):
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」

・肉は悪しき欲望に現れる(16節):
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」「肉の欲望」とは肉体に備わっている自然的な本能のことではなく、御霊の働きを除外して働く人間の欲求のことです。

・肉は御霊に逆らう(17節):
「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」

・肉の現れは醜い(19−21節):
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

・肉は十字架に付けるべき(24節):
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」
 
3.御霊による歩みと肉の克服
 
 
・「肉」は意外にしつこい:
今読みました5つの節でも分かりますように、人間の「肉」というものは、意外としつこくキリスト者を悩まします。もう一度「肉」を定義しますと、「新生していない人間が持っている生まれつきの思い」のことです。それは、「自分で正しく生きることができる」という律法主義と言う表れをすることもありますし、醜い不道徳という現われをします。もっと厄介なのは、「主のために一生懸命仕える」者としての「自分」を主張する場合です。このペンテコステの節期に、井戸垣彰先生が書かれた「キリスト者の肉の問題」という副題の「聖霊に導かれて進もう」という本を読みました。教会における肉と肉とのぶつかりの沢山の事例を挙げながら、その克服を示唆している興味深い本です。一例として、会堂問題で自分の紹介した建築業者が採用されなかったために面子を潰されたと怒って教会を去った役員の話が載っています(p.40−41)。まさに、肉の問題です。

・新生の時(潜在的に)十字架についた自分を信仰によって現実とすること:
24節の「情欲や欲望と共に肉を十字架に付けた」とは、人間としての自然の欲望を罪悪視して、それをタブー扱いし、それを押し殺すことではありません。欲望そのものではなくて「悪しき欲望」と共に自己中心性が、クリスチャンとなった時に「潜在的な意味で」十字架についてしまった、と言っているのです。でも、クリスチャンの多くは、どっこい自我が生きています。自我が十字架についたという潜在的な可能性を現実のものとするのが聖化の転機です。同じ井戸垣先生の本に、中田羽後先生が「信仰によって」自我を十字架に付けた経験が紹介されています(p.44−45)。私たちも、クリスチャン生活のどこかで、はっきりとこの信仰に立つべきです。

・御霊による歩みが「肉」の再発を予防する:
「御霊による歩み」という著書において、A.B.シンプソンは「御霊による歩みとは、私たちの全生命(霊と心と体)のために、聖霊により頼む習慣の持続である」と説明しています。具体的に言いますと、a)聖書の学び、祈りの中の思い巡らし、他人の忠告を通して聖霊の導きを仰ぐこと、b)事ごとに聖霊の力にすがること、c)聖霊と物語ることが含まれます。この地道な営みがありませんと、再び「肉」が頭をもたげる可能性は十分あります。ですから、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」という姿勢が必要です。
 
4.御霊による歩みの結果(22−23節)
 
 
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
 
・キリストの品性:
愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、信実、柔和、自制という九つの徳目は、クリスチャンにとって最大の目標であり、価値ある挑戦です。はっきり言えば、これがキリストらしさの内容です。如何でしょうか。これについて、私が一番必要としている徳目を皆さんのメッセージメモにチェックしてみましょう。その徳目について、それをどんな風に増加していただきたいかを短くコメントしてみましょう。

・これを目標に、しかし焦らず、御霊によって歩もう:
これは、御霊によって歩む歩みの齎す自然的な結実です。どうか、この徳目によって不必要に自分を責めたり、得意にならなくても良いのです。また、してはいけないのです。私たちはただ、御霊により縋り、御霊に従いつつ歩むことだけに集中すべきなのです。果物は、ちゃんと木にくっついていればそれで自然に実が実ります。もし私たちがノンクリスチャンの人に、「お前はそれでもクリスチャンか」と欠点をあげつらわれても、がっかりすることはありません。もしその指摘が本当ならば、単純に「ご指摘を感謝します。こんなダメ人間だからこそ、私はクリスチャンをやっているのです。イエス様が段々よくしてくださると思いますから、もう暫く見ていてください。」と謙っていえばそれで十分です。反対に、もしも誰かに、「あなたは変わったね。」と(良い意味で)言われたとすれば、ただ謙って、「みんな、イエス様のお陰です。」と栄光を主にお返ししましょう。この梅雨のシーズンに、裏の空き地の琵琶がとてもおいしく実っています。(東京都と目黒区に感謝しながら)散歩の途中につまみながら、私もこんなみずみずしい実を実らせたいものだなと思いました。私たちは、御霊の実という素晴らしい約束を与えられていることを感謝しましょう。そして、ひたすら、御霊と共に歩むその歩みを地道に続けましょう。
 
お祈りを致します。