礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年7月3日
 
「神が戦ってくださる」
ネヘミヤ記連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記4章14-23節
 
 
[中心聖句]
 
  20   私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。
(ネヘミヤ4章20節)


 
聖書テキスト
 
 
14 私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」
15 私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。
16 その日以来、私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた。一方、隊長たちはユダの全家を守った。 17 城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。18 築く者は、それぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は、私のそばにいた。
19 私はおもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。「この工事は大きく、また広がっている。私たちは城壁の上で互いに遠く離れ離れになっている。20 どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」
21 こうして、私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星の現われる時まで、槍を手に取っていた。22 そのときまた、私は民に言った。「だれでも自分に仕える若い者といっしょにエルサレムのうちで夜を明かすようにしなさい。そうすれば、夜にも見張りがおり、昼には働くことができる。」23 私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、私を守る見張りの人々も、私たちのうちのだれも、服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた。
 
はじめに
 
 
昨週からネヘミヤ記を再開しました。エルサレム城壁の再建という歴史的大事業に取組んだエルサレム総督ネヘミヤとそのサポーター達が、様々な反対にめげず工事を進めた様子を学びました。4章はその戦いの様子です。今日のテキストである後半部分は、組織的な自衛策について述べてあります。
 
1.工事を妨害する勢力
 
 
・東西南北の諸部族による反ユダ同盟(地図参照):
これについては、昨週説明しました。地図にありますように、ユダを取り囲む四方の勢力が一体となって、エルサレムの城壁再建を中止させようとしました。彼らにとって、ユダヤ人がエルサレムを拠点として強力な共同社会を建設することは地域の安定を乱す行為であると判断したからなのです。

・武力行使の企み:
そこで、この人々は、「みな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企て」(8節)、「彼ら(ユダヤ人)の知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真中にはいり込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」 としたのです。ユダヤ人を正面から攻撃することはエルサレム再建を許したペルシャ王に逆らうことになりますので、攻撃するぞするぞと脅しを掛けることで工事を邪魔しようとしたのです。
 
2.自衛手段と工事続行(イラスト@)
 
 
工事総監督であったネヘミヤは、まず祈り、祈りを通して与えられた知恵を用いて自衛的手段を取りながら工事を続行するという手段を講じました。その詳しいシステムが描かれているのが16−23節です。その要点を纏めると下記のようになります。

@ネヘミヤ直属の部下を活用

・半分は警備隊(16節a):
ネヘミヤ総督には直属の部下がいました。その部下も、半分を警備に、残り半分を仕事にと割り当てました。

・半分は応援隊(16節b):
工事人は、原則として自分の家の近くを割り当てられたシロウト集団でしたから、プロの官僚が応援することに大きな意義があったことと思います。

・ラッパ手(18節b−20節):
城壁はエルサレムの町全体をカバーしていましたから、お互いの連絡が疎となってしまう危険がありました。そこで、ラッパ手を置いて、非常時に備えたのです。多分、ラッパの鳴らし方で方角を定めたのかもしれません。緊急事態への対応が出来ていたのです。

A区長たちにも防衛責任を負わせる(16節c)

・16節に「隊長たちはユダの全家を守った。」とありますが、この「隊長たち」と3:9、12などの「区長たち」と同じ言葉です。区長たちに、工事責任だけではなく、防衛の責任も負わせたのです。

B工事人も武装する

・運搬係は、槍を片手に(17節):
この場合の材料とは、瓦礫の中から使えそうな石を拾い集めることであったと思われます。

・石積係は、帯剣で(18節a):
石を切る仕事、石を積む仕事は両手でしなければなりませんから、とても片手に槍という訳には行かなかったことでしょう。ですから、短めの剣を腰にしっかりと差して工事を続けたものと思われます。

C突貫工事の継続

・日の出から星の出まで休憩なし(21節)(イラストA):
工事は朝日が出始める明け方から、手元が見えなくなる夜までぶっ続けで行われました。ともかく完成を急いだのです。

・外泊なし(22節):
エルサレム郊外から働きに来ていた人々は、当然夜は仕事を終えて家に帰っていたのですが、この危機がおきてからは、家に帰らず、雑魚寝をしながらこの期間を過ごしました。三つの理由があります。一つは、夜襲があった場合に城内に人が大勢いることで逸早く対応できること、もう一つは、郊外の行き帰りに時間が掛かり、特に夜遅く帰るときに襲われる危険があったこと、さらに人々の往復に紛れて、敵も入り込んでくる危険があったこと、です。賢い選択と行動でありました。

・着替えもなし(23節):
この目的は当然、夜襲に備えるためでした。夜襲があった場合、直ぐに武器を持って戦うことが出来るように、着物を着たまま寝ていたのです。ちょうど消防士さんが当直の時に119番がなったら直ぐ出動できる態勢で寝るのと似ています。まあ、僅かの期間ですから我慢が出来たと思いますが、シャワーも浴びるチャンスもなく働き続けですから、お互い臭かったことでしょうね。完成が間近でしたから、このような態勢が可能だったのでしょう。

<この知恵は教会にも、社会一般にも適用される>

こうした施策を考え、直ぐ実行すると言うのは、驚くべき知恵・組織力・実行力です。ネヘミヤという男の実務的知恵、指導力、そしてその背後にある祈り・敬虔に驚かされます。現代も複雑な組織の中で社会が動いているわけですが、ネヘミヤのやり方を真似できないまでも、その基本にある敬虔さに基づく実際的な行動力は、クリスチャン・ビジネスマン、オフィスマン、オフィスレディ、主婦、学生などなども、しっかり学ばねばなりません。当然のことながら教会というコミュニティの建設に携わる私たち一人ひとりも、ネヘミヤの精神と行動力を学ばねばと思います。
 
3.主の助けへの信頼(20節)
 
 
さて、このように万全の備えをしたから、だから安心という考えをネヘミヤは持ちませんでした。「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」素晴らしい言葉ではないでしょうか。

@「勝利は主から」という歴代リーダーの信仰:

この言葉は、歴代の指導者達が、戦いに際して持っていた信仰でした。自分たちは確かに武器を持って戦う、しかし、本当の勝利は主だけから来ると言う確信を持っていたのです。

・紅海を目前にしたモーセ:
紅海を目の前にしたモーセは言います「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト14:14)

・ヨシュアの遺言:
ヨシュアは、去り行く時、民にこう遺言しました。「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。」(ヨシュア23:10)

・ゴリヤテに対峙した少年ダビデ:
少年ダビデがゴリヤテに対峙したとき、こう言いました「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」(1サムエル17:47)

・戦いに向かうダビデ王:
詩篇にも似たような祈りがあります。「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。」(詩篇60:12)

A「神が戦ってくださる」という信仰を捉えよう

・「私たちの神が」という近い関係が前提:
ネヘミヤはここで、「私たちの神が」と言っています。神は遠いお方ではなく、私たちを知り、私たちの味方で、私たちを守ってくださると言う信頼関係がありました。それが「私たちの神が」という表現になって現れています。

・自分達の働きや戦いも忘れない:
この人々は、決して自分達の手で戦うという行動を怠けて神頼みをしたのではありません。自分の手で戦いつつ、それでも、神が私たちのために戦ってくださるという信仰を告白したのです。14節を思い出してください。そこでネヘミヤは、「大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」自らが戦うことを勧めています。私たちが戦う時、主もまた戦ってくださるのです。

・「私たちのために」:
ネヘミヤの場合には、工事をする手の業の祝福と、それを妨害する敵の手からのみ守りが「私たちのため」の中に含まれていました。そしてそれは、彼らの利害というだけでなく、礼拝の民が安定と秩序を獲得するという点では「主のため」でもありました。さて、私たちの日常生活で戦いはないでしょうか。ありますね。個人的霊的営みでも罪や誘惑との戦いがあります。健康維持のための戦いがあります。家庭問題の戦いがあります。仕事上の戦いもありましょう。教会の営みで言えば、救霊の戦いがあります。この世の流れとの戦いがあります。それらは皆「私たちの戦い」であり、同時に「主のみ業のための戦い」でもあります。それらに対して共に戦ってくださる主を仰ぎましょう。

・直接的に干渉される神を信じる:
15節を見ましょう。そこには「私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。」と記されています。工事を妨害する色々な悪巧みの情報が洩れただけではなく、それが打ち壊された、と妨害者たちは感じたのです。そこに神の直接的なご干渉があった、と彼らが感じないわけには行かないほど、勝利が鮮やかでした。紅海を亘ろうとしたエジプト軍の戦車の車輪が外れて進軍が困難になった時、「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから」(出14:22)と言って退却を始めました。私たちの携わるあらゆる働きで、主の直接的な干渉を期待し、祈りましょう。
 
おわりに:神を、「私たちの神」として捉えよう
 
神は遠い存在ではありません。私たちの祈りにいと近く寄り添ってくださるお方です。大切なことは、このお方を「私たちの神」と捉えることです。キリストを救い主として受け入れ、このお方と近く歩む歩みを全うしましょう。そして日常生活の戦いに主のお働きを祈りましょう。